- はじめに
- 本論
- 旋律による国歌の分類
- 「君が代」問題――諸外国との比較の観点から
- 国歌教育
- 国歌の醍醐味
- 結論
- 註
- 参考文献・ウェブサイト
はじめに
浮世舞台の花道に表もあれば裏もあるならば、この花道は裏街道に相違あるまい。拙稿は国歌について小生の日々妄想せしことを物語るというものである。『破滅派』の理念に合致するかは分からないが、趣味としてはきわめてマイナーな音楽ジャンルという意味では同誌の奉ずるものと何かしら通底するものがあると思う。
しかし、ここでいう「国歌」とは、わが国の国歌、つまり「君が代」のみをいうのでも、また和歌のことをいうのでも、もちろんなく、「君が代」も含めた世界の諸国の国歌のことをいうのである。
ただし拙稿では、「国歌が歴史上どのように誕生・成立したか」とか、「そもそも国歌とはどのような存在であるか」といった、「世界の国歌」と題するような本やウェブサイトに大体は載っているような話題は極力圧縮するか、あるいは割愛したい。小生は国歌を学問的に研究している者ではなく、国歌を愛好し、興味本位に収集するただの好事家に過ぎない。しかし、国歌といえば、「日の丸」「君が代」問題との関連でしか話題にならなかったり、ウヨクな人々の専売特許のようにみられているかのような現状では、かかる好事家の漫談雑文も何かしかの意義があるかと思われるのである。
ちなみに筆者の音楽学の知識が小学生、否、幼稚園児なみであり、楽譜がまったく読めないのはもちろん、4分音符と8分音符の区別すらつかないことはいやしくも「国歌」という音楽について述べる前に断っておく。また、拙稿は、研究者による論文ではなく、好事家による雑文という形式をとったので、出典などを示す註は最小限に留めた。筆者の思わぬ勘違いや誤り、歌詞の誤訳などさまざまな手落ちがあるかもしれないが、その際は博雅の士の御指摘・御批判を賜れば幸いである。なお、国歌の題名については、正式な題名で表記したものもあれば、歌い出しの歌詞を便宜的に題名としたものとが混合している。この点については、ひとつひとつの国歌ごとに断ることをしなかった。御寛恕願いたい。前置きが長くなってしまった。さっそく本論に入りたい。
本論
国歌(national anthem)とは近代国家、すなわち国民国家と密接な関係にある。「ナショナル・アンセム」を忠実に訳せば、「国民讃歌」となるように、人々が「オラ、この村のハンスだんべ」であるとか、「拙者、松平様ノ家臣ニテ候」であるとかいった意識から、「我はドイツ民族/日本国民である!」という考え方が生じて初めて、国民は成立し、国歌が生まれるのである。近代国民国家の理念がヨーロッパで誕生し、西洋音楽式に国歌が作曲された以上、他のアジア・アフリカなどの諸国の国歌もいきおい西洋風の音調を帯びる傾向にあった。
旋律による国歌の分類
一般に、国歌の分類は歌詞の内容でなされることが多い(1)。しかし、ここではあえて歌詞ではなく、音調・旋律から分類することを試みたい。冒頭にも述べたとおり、音楽学にはまったく造詣のない筆者がこのような作業をするのは本来ならば危険極まりないのであるが、拙稿が研究論文ではなく、あくまで雑文であること、およびこれまで国歌を旋律から分類する立ち入った試みはあまりみうけられないことなどから、好事家があえて虎穴に入ってみようとするものである。虎に食われてしまうことを恐れつつ。
国歌とはその音調・旋律上、「荘重型」および「勇壮型」に大別される(2)。「荘重型」とは、重厚あるいは荘厳・讃美歌風で、総じて穏やかなメロディーの国歌である。「君が代」がその典型的な事例である、といえば分かりやすいだろう。この形式の国歌をもつ国々の特徴は、大まかに言って、革命体験がないか、あるいは革命が起こっても失敗した国々であること、すなわち君主制の国家であることである。日本の「君が代」、イギリスの「神よ、王を護らせ給え(ゴッド・セイヴ・ザ・キング)」、デンマークの「クリスチャン王は高き帆柱の傍に立てり」、過去には、ロシア帝国の「神よ、ツァーリを護らせ給え」、ドイツ帝国の「皇帝讃歌」などが代表的なものとして挙げられよう。
また、君主制国家ではなく、直接君主を讃えるものではなくとも、文字通り神を讃える讃美歌的な内容や、祖国の自然を歌うものにもこの形式の国歌が多い。ハンガリーの「神よ、ハンガリー人を救い給え」(王国時代から社会主義期を通じて国歌である)、ドイツ・バイエルン州の州歌「神とともにあるバイエルン」(旧バイエルン王国国歌でもある)、デンマークの国民歌「愛しき国あり」(デンマークでは、前述の「クリスチャン王……」よりもこちらの方が「国歌」として認知されているという)、スウェーデンの「汝、古き自由な峰豊かなる北国よ」、韓国の「東海の干上がり白頭山のすりへるとも」、北朝鮮の「朝は輝け」(金日成が権力を確立する前に制定されたこともあってか、社会主義的・将軍様讃美的内容が一切ない)などがこれに相当しよう。これらの国歌に特徴的なのは、旋律のみならず、その歌詞も総じて穏やかで“平和的”であることである。いくつか例を挙げよう。「汝、古き自由な峰豊かなる北国よ、汝、静けく喜び溢るる美し北国! 我、地上の最も麗しき国を讃えん! 汝の太陽、汝の空、汝の緑なす草原よ!……おお、我は北国にて生き、北国にて死なん!」(スウェーデン国歌第一節および第二節末尾)「ここは、かつて鎧まといし彼ら兵らが戦より身を休めし地なり。そして彼らはあだなす敵を追い詰め進んだ。今や彼らのかばねは眠る、高き墓標の下に。」(デンマーク国民歌第二節、「兵〈=ヴァイキング〉」を歌いつつ、現在における彼らの“死”とともに彼らへの尊崇が同時に語られていることが秀逸。“北欧の詩聖”と謳われたアダム・エーレンスレーヤ〈1779-1850〉の作詞)「朝は輝けこの山河、金にも銀にも恵まれし三千里、美しきわが祖国よ、五千年もの長き歴史に、誉れ高き文化を培った、優れた人民の栄光、身と心のすべてを捧げ、この朝鮮をいつまでも奉らん。」(北朝鮮国歌第一節)
一方、「勇壮型」とは、行進曲風、軍歌風の旋律の国歌である。これは、革命によって成立した国家・政権の国歌に多い。もともとは革命軍の軍歌として作詞作曲されたフランスの「ラ・マルセイエーズ」がまさしくその代表格である。「起て、祖国の子らよ、栄光の日は来たれり! 暴虐の軍旗がわれらに向かう……奴らは君たちの妻や子を殺しに来る! 武器を取れ、市民諸君! 組め、隊列を! 前進、前進、穢れた血で我らが田畑を潤そう!」このように、この形式の国歌は旋律のみならず、歌詞もきわめて攻撃的であることが特徴である。また、中華人民共和国の「義勇軍行進曲」も抗日をテーマにした映画の主題歌であったことから、この部類の国歌に入る。「起て、奴隷とならぬことを望む人々よ! 中華民族の危機は今ぞ来る! 我らが血肉もて新たなる長城を築くのだ!……前進、前進、前進!」歌詞が「ラ・マルセイエーズ」と類似しているのは決して偶然ではあるまい。
また、国歌が「荘重型」から、革命後に「勇壮型」に変更された例もある。ロシア革命後成立したソ連邦は、革命歌として名高い「インターナショナル」を新国歌とした。「起て、飢えたる者よ! 今ぞ日は来たり!……暴虐の鎖断つ日、旗は血に燃えて、海を隔てつわれら、腕結び向く!」(日本語版)「旗は血に燃えて」が赤旗を意味しているのは言うまでもなかろう。また「海を隔てつわれら、腕結び向く!」という歌詞はまさに“万国の労働者よ、団結せよ!”のスローガンである。
逆に社会主義政権が革命によって打倒された後に変更された国歌の例としてはチャウシェスク政権崩壊後のルーマニアが挙げられる。「目覚めよ、ルーマニア人よ! 死のまどろみより! 残虐なる圧制者は汝を死の淵に沈めたのだ!……今ぞ世界に示せ! わららの腕には今でもローマ人の血が流れていることを! われらの心臓にはあの誇り高き征服者トラヤヌスの名が刻まれていることを!」([トラヤヌス=ルーマニアを征服した古代ローマ皇帝]もともとは19世紀につくられた革命歌であった)余談であるが、このルーマニア国歌はその勇壮かつ華麗なメロディーおよび、“ローマ人の末裔”という“ルーマニア・アイデンティティ”を見事に歌った歌詞とともに、インターネット上の国歌愛好家の中でもとりわけ人気のあるもののひとつである。小生の好きな国歌ベストテンにも間違いなく入る。
無論、以上のように「荘重型」「勇壮型」にはっきりと分類できない国歌も多い。また君主制国家の国歌が「荘重型」で、革命後の国歌が「勇壮型」であると定式化することもできない。例えば今はなきドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌「廃墟より立ち出でて」は、冒頭は穏やかな讃美歌調で始まるが、途中の部分で急に勇壮な行進曲風のメロディーとなり、最後は再び讃美歌調でしめくくられる、というものである。(またも余談で恐縮だが、この国歌のメロディーは編曲されて、あろうことか、日本の某18禁ゲームシリーズの陵辱行為の場面のテーマソングとして使用されている。いくら東ドイツが消滅したからといって、これはひどいんぢゃないのか。作曲者ハンス・アイスラー〈1898-1962〉は、あのシェーンベルクの直弟子三羽ガラスのひとりとして第一級の作曲家とみなされており、作詞者ヨハネス・ベッヒャー〈1891-1958〉もドイツ文学界では有名な詩人であり、東ドイツの文化大臣も勤めた人物である。小生は反共主義者ではあるが、たとえ商業的行為であれ、こうした他国の国歌を貶めるような行為には断じて賛同できない。同様にわが国や某国の国旗を好んで燃やす某国の自称愛国者も私は決して認めない。と、偉そうなことをのたまう筆者も大学時代のサークルではよく某大学の校歌や応援歌の替歌を嬉々として歌っていたし、今でもごく内輪のカラオケなどでは某々大学校歌のひどい替歌などを歌うことがある。これを弁明するに、国家と学校という違いの他にも、他大学の歌の替歌には、その罵詈雑言の中にも“愛”“親しみ”が込められていることである。とはいえ、やはり筆者のこのような行為もとても誉められたものではないのはいうまでもない。)
閑話休題。また、スペイン国歌「国王行進曲」は、正式な歌詞はないのだが、メロディーはその名のとおり、行進曲風である。一方スペインのお隣ポルトガルの国歌「海の英雄」は、1910年の革命により君主制が打倒され、共和制になってから制定されたものであり、歌詞も「海の英雄、気高き人民、雄々しくも不滅なる国民よ! ポルトガルの栄光よ、今一度、蘇れ!……武器を取れ! 武器を取れ! 陸にも海にも! 武器を取れ! 武器を取れ!いざ祖国のための戦いへ! 大砲に向かいてわれら進まん!」といった調子なのであるが、メロディーは、編曲にもよるのであろうが、「勇壮型」とも「荘重型」とも判別しがたい、あえていうならば「混合型」といったものである。
こうした「混合型」に加えて、さらにメロディーで国歌を分類するならば、「民族型」とでも称せるものもある。すなわち、先述のように、アジア・アフリカなどの国歌がなべて西洋風のメロディーであることに対して、土着の民謡などをベース・モチーフとした国歌がこれに相当する。異説はあるが、宮内省雅楽局の林広守(1831-96)が作曲した、“雅楽風”の「君が代」もこれに当たろう。また、ヨーロッパではあるが、民謡風の独特の旋律をもつものとしてブルガリア国歌が挙げられる。その他にも、ウクライナ、スロヴァキア、モンテネグロなど東欧には、一聴して明らかに“西洋風”とはいいがたい短調的な国歌をもつ国が多い。
また、ソ連は先述のように、革命後、「インターナショナル」を国歌としたのであるが、第二次大戦勃発後、ドイツとの戦争のためにロシア愛国主義を鼓吹し、英米などの資本主義諸国と連携する必要性から、“万国の労働者よ、団結せよ!”の革命歌「インターナショナル」から国歌を変更することになった。若き児童文学者セルゲイ・ミハルコーフ(1913-、映画監督ニキータ・ミハルコーフの父)に作詞を依頼、赤軍合唱団の創設者にして指導者アレクサンドル・アレクサンドロフ(1883-1946)が曲をつけた「自由な諸共和国の揺ぎ無き同盟」が正式に新国歌となった。「自由な諸共和国の揺ぎ無き同盟を偉大なるルーシが永遠に打ち固めた!」ではじまり「レーニンの党はわれらを共産主義の勝利へと導く!」でしめくくられる同国歌は、「ルーシ」というロシアの古名が登場し、ロシア正教の“母なる大地への信仰”を想起させる“ロシア的音調”を帯びた、まさしくロシア愛国主義とソ連愛国主義、共産主義イデオロギーを結合させた名作といえる。ちなみに同国歌はソ連邦解体後、廃止されたが、“大国ロシア”の復活をめざすプーチン政権の下、歌詞の共産主義色を一掃した上で、ロシア連邦国歌として2001年1月に復活した。新たにつけられた歌詞は、「ロシア――われらが神聖なる大国! ロシア――われらが愛する祖国! 力強き意志、偉大なる栄光、その豊かさや永久ならん! 称えよ! 自由なるわれらが祖国! 兄弟諸民族の永遠の同盟! 祖先より与えられし民族の英知! 栄光あれ! 祖国! 汝こそわれらが誇り!」(第一節)「南海より極北の涯まで 広がりしわれらが国土、汝は 唯一世界で、唯一かくの如く 神に護られし 祖国の土地なり!」(第二節、リフレインは省略)「夢と命のための広大なる大地 時は示す 我が道を。われらに力を与うは 祖国への忠誠! 過去も、現在も、未来も 永遠に!」(第三節、リフレインは省略)といったように、共産主義色が一掃された代わりに、“大国ロシア”をひたすら賛美する内容となった。冒頭の「ロシア」の連呼は当初の案にはなかった文言だという。また共産主義時代には絶対に出ることがありえなかった「神」ということばが登場していることも注目に値する。またリフレインの「称えよ自由なるわれらが祖国」部分のみはソ連時代とまったく同じであり、つられて旧歌詞を歌ってしまう人も多いという。このロシア新国歌の作詞者といえば、何と、50年以上も前にソ連国歌を作詞した老ミハルコーフその人であった。大クレムリン宮殿における新国歌初演式でのプーチン大統領の談話も秀逸である。「我々は新しい国歌とともに新たな千年紀を向かえる。国歌は単なるシンボルではない。国歌なしでは国は存続することができない。」(福井新聞、2001年1月1日)これによって、現在のロシアは、帝政期の国旗・国章(双頭のワシ)に、ソ連期の国歌をもつことになったのである。(ちなみにソ連期の国歌復活は、当時議会で有力だった共産党との妥協の意味もあったといわれている。またプーチン自身がソ連時代にKGBの職員であったことも見落とせまい。)
東欧・ロシアのほかにも、トルコ国歌、またアフリカのモーリタニアの国歌などが、独特の旋律をもつものとしてインターネット上で根強い人気がある。ただし、ここで是非とも付言しておかねばならないのは、「君が代」も含め、これら「民族型」と分類した国歌は、“土着的なものを基盤にしている”とはいえ、それはあくまで西洋音楽にのっとって作曲されたものであり、文字通り“土着”であるわけでは決してないことである。「国民」や近代国民国家の理念が西洋で発生し、その“コピー”がアジア・アフリカなどに続々と誕生していったのが近現代の歴史であり、近代音楽の技法も西洋で確立し、全世界へと輸出されていったのが近現代の音楽史であるならば、「国民讃歌」たる「国歌」が、いかに“国風”“土着”をめざそうと、結局は西洋風にならざるをえないのは必然であったといえよう。おけさ節やアリランを国歌にできるだろうか? レゲエやサンバの流れる中、掲揚される国旗に忠誠を誓えるだろうか? 評論家の呉智英氏によれば、社民党の福島瑞穂党首はかつて「『となりのトトロ』を国歌にすればよい」と言ったそうだが(3)、アニメソングというジャンルが日本独自のものであるならば、こうした議論にも一定の理はあるのかもしれないが、それと現実性は別問題である。(日本国国歌ではなく、ジブリ共和国国歌あるいは宮崎駿将軍様讃歌にはなるかもしれないが。)
「君が代」問題――諸外国との比較の観点から
延々とメロディーによる国歌の分類について述べてきたが、福島氏の発言が出たついでに「君が代」問題について諸外国との比較の観点から考察してみたいと思う。周知のように、わが国の国歌「君が代」に対しては第二次大戦敗北後、多くの議論がなされてきた。反対派は、「“君”が天皇のことをさすのは明確であり、このような君主讃美の歌は国民主権の憲法下にはふさわしくない」「ドイツもイタリアも戦後国歌を変えた」といった主張をする。これに対して擁護派は「“君”が天皇のことをさすのは確かだが、国民主権体制においても、憲法で天皇を国の象徴としている以上、天皇を讃える歌を国歌としても差し支えはない」「ドイツとイタリアとは事情が違う」といった反論がなされている。私は大筋、擁護派の意見に賛同するが、ここでは「ドイツとイタリアとは事情が違う」ということについて少々敷衍してみたい。そのあと、「君が代」問題において重要な部分を占める国歌教育問題についても多少なりとも触れることにする。
ドイツおよびイタリアが戦後、国歌を変更したのは事実である。長らくドイツ国歌として扱われてきた「ドイツの歌(Deutschlandlied)」に代わって、東ドイツは前述のごとくまったく新しい国歌を制定し、西ドイツも「統一と権利と自由」という歌を国歌とした。しかし、この「統一と権利と自由」とは実は「ドイツの歌」の第三節なのである。「ドイツの歌」は、そもそもハイドンが1797年、ハプスブルク皇帝のために作曲したものであり、それに1841年、ドイツのナショナリズムを信奉するアウグスト・ハインリヒ・ホフマン(1798-1874)という大学教授が作詩したものである。この歌の問題点としてよくいわれるのが、第一節の「ドイツよ、世界に冠たるドイツよ、ともに団結し常に攻め守れば、マース川[現オランダ領]からメーメル川[現リトアニア領]まで、エッチュ川[現イタリア領]からベルト海峡[現デンマーク領]まで」という部分が、いかにも帝国主義的・覇権主義的であり、挙げられている地名もいずれもドイツ領土ではない部分をさしている、ということである。しかし、そもそも「世界に冠たるドイツ」という日本語訳が問題なのであり、原語のDeutschland ueber alles in der Welt(英語に置き換えれば、Germany over all in the world)は、「世界の全てよりも優れたドイツ」という意味ではなく、“今のドイツはプロイセンやオーストリア、バイエルンなどの多数の国家に分裂している。このままではドイツはいつまでたってもイギリスやフランスのような近代国家にはなれず、ドイツ人の自由も権利も保障されない。統一されたドイツ国家こそが、現在何よりも大切なのだ”ということが本来の意味であったのである。これは締めくくりの第三節が「統一と権利と自由」と歌われていることからも明らかである。挙げられている地名にしてもそれは作詩当時のドイツ諸邦の境界を示しており、当時は一応“ドイツ領”であったのである。しかしながら、いったん統一ドイツが成立し、ヴィルヘルム2世の下、帝国主義政策が推進されるようになるや、作詩当初の意味から次第に「世界に冠たるドイツ」の意味になっていくのはことばが生き物である以上、必然的であったといえよう。さらに、歌詞中の、当初はドイツ領であった地名がもはやドイツ領ではなくなるようになると、これはさらに深刻な国際問題となる。たとえば戦後の日本が、「樺太から台湾まで、千島から朝鮮まで」と歌っていたらどういう事態を招くか、想像には難くない。(事実「蛍の光」のもはや歌われることのない第四節は「台湾の果ても 樺太も 八島の内の 守りなり」という歌い出しで始まる。)というわけで「ドイツの歌」の第一節が駄目ならば、第二節はというと「ドイツの女、ドイツの誠、ドイツのワイン、ドイツの歌よ!」で始まり、要するにドイツでは“酒はうまいし、ねーちゃんはきれいだ!”といいたいのだが、これでは文字通り“酒池肉林”であり、いやしくも“詩人と思想家の国”の国歌としては適切ではない、としてこれも没。(個人的には採用して欲しかっタ。だってドイツのワインはおいしいし、おねーちゃんも別嬪サンだらけでボインボインなんだモン。)そして残る第三節「統一と権利と自由」が最も穏当かつ時代にふさわしいとして採用されたわけである。
ちなみに、東ドイツのように西ドイツでもまったく新しい国歌を制定しようという動きがなかったわけではない。リベラル系のホイス初代大統領が新国歌制定に積極的であったのに対して、保守系のアデナウアー初代首相は「ドイツの歌」擁護派であった。実際にホイス大統領は「ドイツ讃歌(Hymne an Deutschland)」なる歌を国歌にしようと尽力したが、結局なじみのない歌詞や旋律は一般国民の支持を得ることができず、ホイス大統領はアデナウアー首相との交換書簡で、「ドイツの歌」を国歌として承認し、公的行事の際には第三節のみを歌うという妥協が成立した。しかし、国歌自体は全三節か、あるいは第三節のみかの解釈をめぐって長く論争が行われてきた。これこそが戦後ドイツの“国歌問題”であるといえよう。ドイツ再統一後の1991年8月にヴァイツゼッカー大統領はコール首相(両者とも保守系)に書簡を送り、「ドイツの歴史の一記録としてこの歌は全三節をもって一体となす」と認めたうえで、「第三節がドイツ国民の国歌である」とし、ここにドイツの“国歌問題”は一応の解決をみたのであった(4)。以上の概観から、第二次大戦後、確かに東西ドイツのいずれもが国歌を変更した、といってもあながち大嘘というわけではないのだが、少なくとも、西ドイツ(現在の統一ドイツ)に関しては、歌詞を第三節にしただけであり、メロディーはまったく変わっていない。また戦後日本の“国歌問題”と戦後ドイツの“国歌問題”がおおよそその性質を異にしていることも明らかであろう。
次に三国軍事同盟のいまひとつの一翼を担ったイタリアの国歌についてみてゆきたい。第二次大戦敗北以前、君主制国家であったイタリアでは、「イタリア国王行進曲」というマーチ風の歌が国歌であり、1922年、ムッソリーニが政権を掌握してからは、ファシスト党の党歌「ジョヴィネッツィア(イタリア語で“若さ・青春”)」が事実上の第二国歌となった。(これはナチス期のドイツで「ドイツの歌」についで、ナチス党歌「ホルスト・ヴェッセル(作詞者のナチス突撃隊員の名前)」が第二国歌であり、また第二次大戦後のソ連では共産党党歌「インターナショナル」が、東ドイツでは社会主義統一党党歌「党はわれらに全てを与う」が第二国歌的な役割をもっていたこととほぼ同一である。卑近な例では北朝鮮の「金正日将軍の歌」であろうか。)大戦敗北後、ファシスト党歌が抹殺されたのは当然として、問題は君主制の方であった。ムッソリーニを首相に任命し、ファシズムの暴走にただ傍観するしかなかった国王に国民の批判が向けられたのである。1946年6月に行われた国民投票の結果、54%という僅差で君主制廃止・共和制導入が決定された。(ローマ教皇や連合軍が王制支持を表明していた中で、僅差とはいえ、イタリアが君主制廃止を断行したことは、わが国との対比で興味深い。)(5)共和制となった以上、国王を讃える歌では問題がある。かくして新生イタリア共和国国歌に制定されたのが「イタリアの同胞よ」という19世紀のイタリア統一運動の中でつくられた愛国歌であった。(この国歌はいかにもイタリアらしい軽快でオペラ的なメロディーが特徴的で、サッカーワールドカップなどでもおなじみであるので、日本人でも聴けば、“ああ、あれか”と分かる人が多いはずである。)
以上のことから分かることは、イタリアが日本や西ドイツとは異なり、戦後国歌を正式に全面変更したのは君主制の廃止という政体の大転換があったためであることと、それまでの国歌が君主讃歌であったという事情があったことである。確かにわが国でも昭和天皇の戦争責任については当時から今日に至るまで様々な議論がなされているし、敗戦後の憲法改定により“国体”が大きく変更されたことは紛れもない事実である。しかし、天皇主権から国民主権になったとはいえ、天皇は国家と国民の象徴として規定され、総理大臣以下国務大臣は国会の指名により天皇が認証(任命)する、という形式がとられている。国王の存在自体が公的に否定されたイタリアとはまったく事態が異なることは自明である。このように「君が代」を批判する論拠としてドイツやイタリアの事例をもちだすことは、日独伊三国の事情を考慮に入れていないとして説得力に欠けるものがあるといわざるをえない。(まったく同様のことは国旗についてもいえるのであるが、拙稿のテーマは国歌であるのでここでは立ち入らない。)
第二次大戦中の日本の同盟国はドイツとイタリアだけではない。アジアでは満州国、中華民国南京国民政府(汪兆銘政権)などの日本の傀儡国家が同盟に参加しており、ヨーロッパでもフランスのヴィシー政権、ハンガリー、スロヴァキア、クロアチア、ルーマニア、ブルガリア、モンテネグロなどの、ドイツ・イタリアの傀儡国家・保護国・従属国が同盟加入国であった。正式に同盟に参加していたわけではないが、ドイツ側に立って、ソ連に宣戦したフィンランドも事実上の同盟国とみなせよう。満州国の“五族協和”を示す国旗はよく知られているが、同国には正式な国歌も存在した。山田耕筰が作曲した、満州皇帝を讃える同国歌は、満語(支那語/中国語)でも日本語でも歌えるように工夫してある。いずれにせよ、これらの国家は日独伊の従属国であったことには変わりはなく、敗戦後、巧みな外交政策によって枢軸国の烙印をまぬがれたフィンランドを除いては、国家・政権として消滅するか、社会主義革命によりそれまでの体制が倒壊した。このうち君主制国家であったルーマニア、ブルガリアでは、国歌が全面変更された。(ブルガリア帝国国歌は直接君主を讃える歌ではなかったが、ルーマニア王国国歌は「王よとこしえに」と題する文字通りの君主讃歌であった。)フランスのヴィシー政権はフランス現代史の暗部として長らく闇に葬られてきた。クロアチア、モンテネグロは再びユーゴスラヴィアの下に組み込まれ、スロヴァキア(ドイツに加担した指導者たちは処刑された)も改めてチェコと合同し、チェコスロヴァキアとなったことは周知のとおりである。しかし、ここで興味深いのは、旧スロヴァキアの国歌はユーゴスラヴィア国歌と同メロディーであり、そのユーゴスラヴィア国歌のメロディーは、ポーランド国歌の旋律を編曲して作られたことである。何となれば、ポーランド国歌の「ドンブロフスキのマズルカ」が作られたころの18世紀末のポーランドはプロイセン、オーストリア、ロシアによって分割され、亡国の憂き目に会い、祖国の復興をめざすドンブロフスキ将軍がナポレオンと結ぶなどして大いに奮闘していた。そうした“民族独立”を願うポーランド人たちの歌う「ポーランドはいまだ滅びず!われらが命あるかぎり!」との歌はやがてオーストリアやオスマン帝国の支配下にあったスラヴ系の諸民族のナショナリズムを燃え上がらせたのである。こうして後のユーゴスラヴィア国歌が作られ、それが旧スロヴァキア国歌にも採用されたわけである。ちなみに現在のスロヴァキア国歌は、旧スロヴァキア国歌とは異なる。しかし、長らく“ファシストの傀儡”“民族の分断者”として断罪されてきた旧スロヴァキア国家が、チェコスロヴァキアの解体、チェコ国家とスロヴァキア国家への分離以降、スロヴァキアの歴史家たちにより急速に再評価されていることは、歴史の皮肉というべきか、民族の難題というべきか(6)。(ユーゴスラヴィア崩壊後、独立したクロアチアでも同様の現象がみられる。)さらに大戦中イタリアの傀儡政権として成立したモンテネグロ国の国歌は、歌詞のみを変えて昨年6月に独立したばかりのモンテネグロ共和国国歌に採用されている。枢軸国扱いを免れたフィンランドは、戦後、ソ連との間で十分の一の領土の割譲、3億ドルの賠償金、軍備制限など屈辱的な講和を結ばざるをえなかったが、社会主義化はまぬがれ、基本的にそれまでの体制が維持され、国歌も変更されることはなかった(7)。以上、ドイツ、イタリア以外の枢軸国の戦後の国歌事情について駆け足でみてきたが、総じていえることは、戦時中及び敗戦時の各国の事情はそれぞれまちまちであり、冷戦終結後におけるこれら東欧の傀儡国家の再評価が試みられていることも相俟って、先に見たドイツ、イタリアと同じく、やはりこれらの国々を尺度に日本の国歌問題について云々するのは適当ではないことであろう。
以上、ドイツ、イタリアをはじめ第二次大戦中に日本の同盟国であった国々の国歌事情との比較という観点からわが国の国歌問題を論じてきたが、やはりここは敵国であった英米仏などの連合国の国歌からの観点による考察も行う必要があろう。ドイツやイタリアを引き合いに出すほかにも、「君が代」反対論の論拠のひとつに「この歌の下で侵略戦争が行われた。侵略戦争の象徴に他ならない」というものがある。然り。そのとおりである。「君が代」のもと、大東亜戦争という名の侵略戦争が行われたのである。「君が代」のもと、多くの若者は徴兵され、異国で水漬く屍、草生す屍となったのである。(私の母方の祖父もその一人である。)これこそまさに「君が代」の美しい旋律に刻みこまれた大いなる悲劇・恥辱に他なるまい。まったく同じことは「日の丸」にも言えよう。あの赤い色は、日の本の国の象徴たる太陽を示すだけではない。多くの皇軍兵士や日本人民・アジア人民の血をも鮮烈に表しているのである。そうした血は当然「君が代」の旋律にも染み込んでいる。しかし、「君が代」の旋律や歌詞に流れているものは悲劇や恥辱だけではない。長寿を願う人々の心、“新時代”を夢見て家を捨て藩を捨て“尊皇倒幕”に命をかけた幕末の志士たち、西洋列強の植民地になるまいとそれまでの日本の伝統を破壊してまで近代化を成し遂げようとした明治の元勲たち、必死に教育勅語や神武以来の歴代天皇を暗誦する児童たちとそれを温かく見守る教師あるいはビンタをかます教師、国民文化の興隆と衰退してゆく地域文化、世界大国ロシアの打倒、極東の小国から世界列強への参入、その犠牲・踏み台となったアイヌ・沖縄・朝鮮、社会主義と日本主義の融合を“一君万民論”に見出した大正・昭和の国家社会主義者たち、彼らをにらみ続ける北一輝の片目と処刑、最後まで大日本帝国の正義を信じて戦場に散っていった皇軍兵たち・特攻隊の少年たち、そして「天皇陛下万歳!」と叫んで死んでいった“戦犯”たち――そうした日本の歴史のありとあらゆる栄光・偉大・汚辱・卑小が「君が代」には刻まれているのである。(「日の丸」もまた然り。)“愛国心”を強調し、国旗・国歌の教育を重視する政治家が現在のわが国の宰相の座にいるが、こうした国旗・国歌に刻み込まれた祖国のさまざまな歴史を全てひきうける人物、たとえその歴史がいかに汚辱にまみれていようと、“それにもかかわらず!”と、その汚辱をうけいれるのみならず、そのどす黒い沼より煌く宝石を見出す人物――彼(女)こそが真の“愛国者”たる資格をもつ、と私は(少なくとも理性と良心においては)信じて疑わない。ゲーテやシラーのみならず、ヒトラーやアイヒマンをも自らの祖先としてその遺産の相続人たることを決意するドイツ人こそまことのドイツ愛国者であろう。
こうしたこととまったく同じことは、連合国の国々に限らず、およそ地球上のどの国家にも大なり小なり、言えるのである。第二次大戦後、連合国の国々で国歌が変わった例は(先述のように、戦時中に別の理由から国歌を変更したソ連は別として)筆者は寡聞にして知らない。“勝ったから変える必要がなかった”のではない。戦争に勝とうが負けようが、国歌を変える必然性はない。これまで個々の事例をみてきても分かるように、国歌を変えるのは戦争ではなく革命である。革命が起こっても変わらない国歌もある。(ポーランド、ハンガリー、ギリシャなど)あの勇壮にして格調高き「星条旗」、古き歴史に輝き多くの国々の国歌の範となった「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」(8)、自由と平等を求める民衆の魂の叫び「ラ・マルセイエーズ」、それら誉れ高き歌にも燦然たる光輝とともに何と多くの悲哀・怨嗟・怨恨・恥辱が込められていることか。そしてそれら悲哀や怨嗟によってこれらの歌がかえって一層のきらめきを帯びるに至ることを見出すとき、私はかの国の国民でなくとも胸にこみ上げる何かを感ずる。
1990年代、フランスにおいて、「ラ・マルセイエーズ」の歌詞があまりにも好戦的で、とくに「穢れた血」という部分が、ナチスばりの人種主義を連想させる、として、歌詞を変更しようという運動があったようである。例えば「前進、前進、穢れた血でわれらが田畑を潤そう!」という部分を「歌おう、歌おう、歌声が大砲の音をかき消すまで!」といった風に“穏当に”書き換えようというのである。フランス人でもないくせに言うが、小生としてはこうした運動にまったく共鳴できないというわけでもないが、やはりはっきりと賛同はしかねる。このときの書き換え反対派の意見に「国歌とは骨董品のようなもので、古ければ古いほどよい」というものがあったという(9)。この反対派の人物の真意がいかなるものであるかはよくわからないが、いわゆる“政治的正しさ”流の理由で国歌の歌詞を変えてしまうのはよほどの事情がない限り、筆者は反対である。(例えば、イギリス国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」の最後の第六節には「神よ、逆賊スコットランド人を破らせ給え」なる歌詞がある。ちょうど作詩された18世紀中ごろ、スコットランドで反乱が起こったことを指しているのであるが、現在ではもはや歌われないのは道理であろう。)その理由はすでにさんざん述べてきたので、ひとことだけですませたい。明暗含めたそれまでの歴史を分離・隠蔽してしまうからである。
国歌教育
さて、ここで、「君が代」問題を語るにおいて避けて通ることのできない、国歌教育問題について付言をしたい。なお、ここでは国旗、すなわち「日の丸」教育についても同様にとりあげることとする。教育問題としては、国旗問題・国歌問題はほぼ同時に語られるからである。
まず、私は、国旗に対する「忠誠・尊崇拒否権」および国歌の「斉唱拒否権」を、生徒はもちろん教師にも認めるべきであると考える。と同時に、国旗・国歌に対する「敬意の義務」をも教えられなければならない。具体的には、「日の丸」に一礼をしなくともよいが、「日の丸」を物理的に傷つけるような行為は厳に慎まなければならない。「君が代」を歌わなくてもよいが、斉唱の際には起立・脱帽くらいはすべきである。
以上の見解に解説を加えると、世論調査上、「日の丸」・「君が代」容認派が多数を占めているとはいえ、やはりさまざまな抵抗感をもった人々もいるからである。否、それ以上に私が強調したいのは、生徒に国旗・国歌を“強制”することへの反対なのである。私は、祖国の歴史も十分に知らない生徒に日本国の体現たる日章旗に一礼などしてほしくない。教師に“指導”され、通信簿の“愛国心”欄を気にして、いやいや「君が代」なぞ歌ってほしくない。「君が代」を大きな声で歌った生徒は愛国心優、小さな声で歌った者は可、歌わなかった輩は不可なぞ、ナンセンスの極みか、「君が代」およびそれが表象する天皇への不敬および日本国への侮辱でなくして何であろうか。かくのごとき上から強制された“道徳”がどれほど皮相でもろく、容易に反発を招くことは、それこそわが祖国の近代史が雄弁に物語っている。極言すれば、国旗・国歌を“愛国心涵養”の美名の下生徒や教師に強制しようとする為政者・論者は、その意図とは逆に、「忠良ナル国民」ではなく、「亡国不逞ノ徒」を濫造しようとしているのではないか。しかしながら、いかに「日の丸」・「君が代」を好まないとはいえ、これに対して非礼・無礼をもって接することがあってはならない。キリスト正教徒にとってイコンは単なる絵ではなく、ドイツ人にとってヴァイマルあるいはアウシュヴィッツは単なる地名ではないように、「日の丸」は単なる布きれではなく、「君が代」は単なる歌ではないのである。“俺は仏教徒”だからといって、神社・教会・モスク等に対して涜神的・冒涜的行為があっては断じてならないのである。こうしたことはまさに外国の国旗・国歌に対する敬意の必要性にも十分当てはまることは言うまでもなかろう(10) 。
国歌の醍醐味
さて、これまで国歌についていろいろととりとめもないことを喋ってきたわけではあるが、ではその国歌の醍醐味とは?国歌のどこが魅力なの?と問われると、正直すぐに回答するのは難しい。何度もくりかえすが小生は研究目的ではなく、ただ興味本位で趣味として国歌を聴き、収集しているだけである。筆者の好きな食べ物といえばカツ丼とペペロンチーノ、タラコなどであるが、なぜ好きなのか?と聞かれれば、“おいしいから”と答えるしかあるまい。国歌にしても、趣味で聴いている以上、“好きだから”としか答えようがなく、そこに理屈が入り込む余地はなく、必要もない。しかしそのような主観的なことを言っていたのでは“国歌の魅力”について語ることはできない。ここでは敢えて筆者のこねくりまわした理屈を恥ずかしながら猥褻物陳列的に披瀝することにしたい。
“国歌の魅力”、まずは“一分間の擬似異文化体験”とでもいうことであろうか。何度も言うが国歌とはその国を表象するひとつである。そうした歌を聴き、また自らも原語で歌うとき、人はそこで異文化を擬似的に体験しているのである。こうした音楽による“異文化体験”は何も国歌にかぎらず、その国の民謡や大衆歌曲、クラシックなどにも当てはまることなのであるが、とりわけ国歌に特徴的なのは、国歌が直接その国の表象・自己主張を目的としていることなのである。そういう意味では外国の国歌について知ることは、国際理解にも資する、というと大袈裟であろうか。しかし学校の音楽教育において、「君が代」だけではなく、他国の国歌についても教えることは一考の価値があると筆者は思うのである。
いまひとつ国歌の魅力について述べると――筆者個人としては“国際理解云々”よりもこちらのほうがより根本的な“味”なのであるが――“想像の共同体の疑似体験”である。近代国民国家が“想像の共同体”と言われて久しい。家族共同体や村落などの地域共同体は直にはっきりと体感することができるが、国民共同体/民族共同体ではそれが難しい。九州育ちの九州人をして、何の面識もない道産子や江戸っ子を“同胞”と思わせる――こうしたフィクションが国民国家の理念でありイデオロギーなのである。そうしたフィクションとしての国民国家を可視的に表象するものが国旗であり地図であり、体感的に表象するものこそが国歌なのである。掲揚される「日の丸」の前で「君が代」を歌うとき、人はただのヒトから“日本人/日本国民”となるのである。同じことは諸外国の国歌にもいえる。しかしながら、日本国の領土に日本人の両親の元に生まれ、日本国籍をもち、日本国で育ち、日本語を文章語・日常語とする筆者は、一大決心の末、フランス語を習得し、日本国籍を捨て、フランス共和国に帰化し、日章旗ではなく三色旗に忠誠を誓わなければ、“想像の共同体”としてのフランス国民にすらなることができない。そうした筆者が、「ラ・マルセイエーズ」を歌うとき、ほんの一瞬ながら“フランス”というフィクションとしての国民共同体に、擬似的に推参できるのである。その瞬間、その刹那のみ、筆者は何百万ものジャンやマリーの同胞となり、シャルルマーニュやナポレオン、ランボーらの遺産の相続人たることができるのである。こうした“想像の共同体の疑似体験”という二重のフィクションへの推参こそ、国歌の醍醐味である、と答えておこう。
結論
さて、いよいよ結論に入る。この拙稿で筆者が言いたかったことは次のふたつにして尽きる。
国歌って結構面白いぞ!人間あり、神あり、歴史あり、物語あり、感動あり、悲劇あり、怨嗟あり――国歌とは一分のオペラだ!(オペラファンの方、つっこまないで・・・)
国歌を歌うも歌わないも自由だ、先生たちや餓鬼どもに強制するな!ただ「敬意」だけは払え!
以上
註
(1) 例えば高田三九三氏は国歌を歌詞の内容から「革命歌」(フランス、中国など)、「愛国歌」(韓国、ソ連など)、「賛仰歌」(日本、イギリス、アメリカ、デンマークなど)に三分類している。高田三九三編緒『世界の国歌全集』共同音楽出版社、1989年、9頁以下。また所功氏も高田氏の分類を参考に、歌詞内容から、「カミや君主を讃える国歌」、「歴史や風土を讃える国歌」、「祖国の独立を讃える国歌」、「社会の革命を讃える国歌」と四つに分類している。所功『国旗・国歌の常識』東京堂出版、1999年(第5版・初版1990年)、61頁以下。こうした歌詞による分類は、ことばである歌を分類する以上、しごく正統的な分類であり、筆者はこれを否定するつもりはない。
(2) 国歌を「荘重型」と「勇壮型」に分類する見方は呉智英氏も示している。呉智英『ホントの話――誰も語らなかった現代社会学〈全18講〉』小学館、2003年、80頁。同書はかつて筆者が愛読していたので、筆者による分類ももしかすると同書のまったくの模倣・受け売りである可能性もあることは断っておかねばなるまい。しかしながら、同書の当該部分においては、国歌の分類自体が主目的ではなく、また呉氏は、分類に関しては、「勇壮型」には「ラ・マルセイエーズ」が、「荘重型」には「世界に冠たるドイツ」が「名曲」として当てはまる、と述べるに留まり、「君が代」に関しては、「これらの名曲に較べて『君が代』はあまりにも見すぼらしい。理由は簡単で、日本では近代音楽の伝統が浅いからです」と述べている。また氏は同頁中で、「天皇制とも軍国主義とも関係なく、音楽として国歌としてぜんぜん美しくない」とも言及している。少なくとも、「君が代」に関しては筆者と呉氏の見解は異なる。これは単なる美意識の違いか、あるいは筆者の修行不足のなせる業か。呉氏の愛読者のひとりとして筆者個人的に気にかかるところではある。
(3) 呉、同上、90頁。ちなみに筆者が、平成17年夏(折りしも小泉首相によるいわゆる郵政解散・総選挙の時期)に社民党本部に党歌について電話で問い合わせたところ、丁重な回答があった。それによると、同党には正式な党歌も、それに相当するような歌も存在しないという。“かつて社会党時代には「平和のかがり火」という歌があり党歌的存在であったが、今では歌っていない、申し訳ないが、レコードなども残っていない”とのことであった。ついでながら、当時の段階で、わが国の国会に議席のある政党のうち、党歌を正式にもっていると回答したのは自民党だけであった。(選挙中、ということも大きいのであろうが、自民党は、「普通は一般には配布していないのですが・・・」と断った上で、党歌CDを無料で郵送してくれた。)「インターナショナル」が日本共産党党歌ではない(と回答された)のは意外であった。また公明党もてっきり「威風堂々」あたりが党歌かと思っていたが、これも違う(と回答された。創価学会の歌なら筆者好み系のものが多数あるのだが。)
(4) 西ドイツにおける新国歌制定の試みとその挫折、“国歌問題”については、加藤雅彦他編『事典 現代のドイツ』大修館書店、1998年、21頁。ちなみに日本でも戦後、日教組が中心となって、「君が代」に代わる新国歌を制定しようという運動があった。1952年6月、日教組第9回大会で「君が代反対」とともに「普及徹底」が決議された「緑の山河」なる歌がそれである。行進曲風の旋律に、「たたかい超えて たちあがる みどりの山河 雲晴れて いまよみがえる 民族の わかい血汐に たぎるもの 自由の翼 天を往く 世紀の朝に 栄あれ」という歌詞で歌われる。(作詩・作曲とも公募による。)「民族」ということばがこの当時は左翼用語でもあったことも分かり歴史資料としては興味深いが、結局「君が代」にとって代わることができなかったのは現状を見ても明らかである。呉、前掲書、89頁以下。小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉――戦後日本のナショナリズムと公共性』新曜社、2002年、366頁以下。
(5) 大戦後のイタリアの君主制をめぐる状況については、森田鉄郎・重岡保郎著『世界現代史22 イタリア現代史』山川出版社、1992年(第2版・初版1977年)、274頁以下。
(6) この問題に関しては、長與進「スロヴァキア歴史学のアポリア――独立スロヴァキア国の評価をめぐって (2000年度東欧史研究会シンポジウム「体制転換から10年:東欧諸国と歴史研究」)」 『東欧史研究』23、2001年、74-82頁。
(7) フィンランドの戦後処理については、百瀬宏・熊野聰・村井誠人編『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年、358頁。ちなみにフィンランド国歌はエストニア国歌と同じメロディーである。これは両国が言語的・文化的にきわめて近い関係にあることに拠る。
(8) イギリス国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」のメロディーは、かつてアメリカ、ドイツ、スイス、ロシアなどの国々の国歌にも採用されており、現在でもリヒテンシュタイン国歌は「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」と同メロディーである。(未確認であるが、スウェーデンにおいても一時期同旋律が使用されていたという。)アメリカ国歌といえば「星条旗(The Star-Spangled Banner)」(「星条旗よ永遠なれStars and Stripes Forever」は国歌ではなく国民的行進曲の名称である)があまりにも名高く、作詞も19世紀初頭の対英戦争時になされている。しかしながら、「星条旗」が正式にアメリカ国歌とされたのは意外にも1931年とかなり後の時代である。それまでは「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」と同メロディーの「汝わが祖国(My country, ‘tis of thee)」という歌が国歌として扱われてきた。
(9) 「ラ・マルセイエーズ」をめぐる歴史と諸問題については、吉田進『ラ・マルセイエーズ物語――国歌の成立と変容』中央公論社、1994年。まさに詳細を極める労作である。筆者も一読はしたものの、現在行方不明中にて手元になし。本文に引用した箇所も同書によっているが、筆者の思い違いもあるかもしれない。ちなみに「ラ・マルセイエーズ」が正式にフランス国歌となったのはフランス革命勃発から百年近くも後の1879年、共和制がようやく確立してからである。詳しくは前掲書を参照。
(10) 以上のような小生による、「日の丸」「君が代」教育に対する見解、および愛国心観は、鈴木邦男氏の近年の言説に大きく影響をうけている。新右翼の第一人者である鈴木氏の“愛国心批判”は、重い意味をもつ。鈴木邦男『愛国者は信用できるか』講談社、2006年。同書において、鈴木氏は、義務教育における国旗・国歌の“強制”をくりかえし批判しているが、筆者の「敬意の義務」に相当するような発言はみうけられない。
参考文献・ウェブサイト(註で挙げたものは割愛した)
- 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版』2006年、電子辞書用。
- 『集英社 世界文学事典』集英社、2002年。
- 『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社、1997年(初版1989年)。
- 『新版 ロシアを知る事典』平凡社、2004年。
- 弓狩匡純『国のうた』文藝春秋社、2004年。
- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E5%9B%BD(ウィキペディア日本語版の「枢軸国」の項目。平成19年3月31日)
- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%AD%8C(ウィキペディア日本語版の「国歌」項目。平成19年3月31日)
- http://www.hymn.ru/god-save-in-tchaikovsky/index-en.html(英語。ロシア・ソ連の歴代国歌はほぼ全てここからダウンロード可能。平成19年3月31日)
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