別荘地として有名な高原に続く山道を登り切った先に突如現れるRC造の建築物。落水した渓谷の滝の流れがまるで人造の噴水のように、川辺に突き出た四角い突起状の建物の下を通っている。家事手伝いとして派遣された軽戸樹里亜は、黒い高級車のフロントガラスの先に見える景色に息をのんだ。ひと夏の小遣い稼ぎと思って登録していたサイトに掲載されていた〝一ヶ月住み込みで五〇万円〟という破格の条件に少々警戒していたものの、その不安は豪奢な邸宅を前にして吹き飛んだ。
「荷物は使用人部屋の方に運んでおきます。必要なものがあれば、何でも言ってください。こちらで用意します。ご覧の様に山奥ですので、できるだけまとめて言ってください。先に先生を紹介したいところですが、お忙しい方で、あいにく現在はこちらに滞在していません。いらっしゃった際にご紹介させていただきます。今は私と奥様の明依麻さん、長男の紫音くんと長女の真麻ちゃん、庭師の出日戸が滞在しています」
ここの設計者であり主人である府楽路糸光に留守を任されている、建築家見習いの江見は車のトランクを開けて、樹里亜のスーツケースを取り出した。打ちっ放しのコンクリートの庇の影になった下の玄関部分は正面右半分がガラス張りになっていて中の様子が窺えるが、目隠しのように大きな観葉植物が置いてある。中に入ると吹き抜けになっていて、正面に大きな木柱があり、その左側には寛げるロビーのような空間が広がっている。反対には石が積み上げられた壁で囲われた部屋があって、柱との合間に石造りの階段が続いていてその部屋の入り口になっていた。玄関に繋がるフローリングの床の上に大きなペルシャ絨毯が敷かれていた。土足のまま上がれる西洋スタイルらしい。男の子が樹里亜の足元に駆け寄ってきて転んだ。すぐに驚いたような顔をして泣き声を上げた。その後ろで小さな女の子が熊のぬいぐるみを片手に目を見開いて涎を垂らしていた。樹里亜は慌てて男の子の両肩に手を置いて彼を立たせながら「大丈夫?」と声をかけた。
「屋内では走らないって言ってるでしょ」
白いTシャツの上に青い薄手のカーディガンを羽織った、ジーンズ姿の女性が階段を下りてきた。黒く長い髪は後ろで束ねられ、前髪は額の上で切り揃えられている。
「ごめんなさいね、お怪我はない?」
「はい……わたしは大丈夫です」
樹里亜は、女性が男の子を抱きかかえるのを見て言った。彼女の長い睫毛が二重の瞼の下から伸びている。小さな鼻孔はやや上向き、唇は薄くてどこか幼さも感じさせる。
「あなたが新しい家政婦さんね。慣れないうちは大変かもしれないけど頑張ってね」
「はい。軽戸と申します、よろしくお願いします」
樹里亜は頭を下げた。はーい、と言いながら彼女は男の子を抱えたまま背中を向けて部屋に戻っていった。女の子も彼女の後ろについて歩いていった。
「出日戸は恐らく裏庭で薪割りでもしていると思うので、後で紹介します」
樹里亜のスーツケースを引きながら江見は振り返った。広間を抜けると、両開きになった硝子戸の向こうに石造りの中庭が広がっていて、そこを取り囲むように建物が続いていた。中庭に出て、左側の薄黄色に塗装された建物の一室が樹里亜の部屋としてあてがわれた。
「荷物を解いたら、先ほどの大広間に来てください。案内と仕事の説明をします」
江見はスーツケースを部屋の入口に置き、樹里亜に鍵を渡して出ていった。
全部で七室ある部屋とトイレ、浴室の掃除と洗濯、食事の準備、買い出し、といった内容が樹里亜が江見に言われた仕事だった。客室を案内された時に、そこから見える裏庭の小屋の前で出日戸が手斧を使って薪割りをしている後ろ姿が見えた。出窓を開け、江見が声をかけて樹里亜を紹介した。後頭部まで禿げあがった頭を下げて出日戸はお辞儀した。日焼けした小麦色の肌をしわくちゃにして笑う口元の歯はやけに白く輝いていた。
「夕食と明日の朝食の買い出しに行きます。私がいない時に明依麻さんや先生に頼まれることもあるかと思うので、ついて来てください」
江見はそう言って、大広間から玄関の外へと出ていった。樹里亜は部屋に戻ってスーツケースから藍色のキャップを取り出して被った。外に出ると、木陰になっていない砂利地の足元を日差しが照らして眩しかった。江見が運転する車がすぐに樹里亜の前に停車し、彼女は助手席に乗りこんだ。車一台がやっと通れる山道はくねくねと曲がって先が見えない。樹里亜は助手席の窓を開けて渓谷の下に繁茂する森を眺めた。新緑の香りが鼻孔を抜けて、頭が冴えわたった。眼下には川が流れ、川辺の開けた場所を覗くと人影が見えた。樹里亜が目を凝らすと、岩石が斜面に突き出た落葉樹の影で人の様に見えたのだと分かった。
薄汚れたぼろ布を脱ぎ、男は全裸になって川に飛び込んだ。まだ水の温度は低く、肌を刺すような感触に全身を震わせて男はすぐに大きな岩の上に這いあがった。太陽の光が暖かく彼の全身を包んだ。川下の方で若い男女がはしゃぐ声が聞こえた。男は寝転がっていた岩の上で半身を起こし、声の方を向いた。薄緑色のビニールテントの前で、二十代らしき男二人と女二人が炭火を起こしてバーベキューをしているようだった。男は手元にあった小石を手に取って川に向かって投げた。ちゃぽんと音を立てて小さな飛沫が上がった。
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