マルティナス・サンド・デューンはオーストラリア東部、海の近くの小さくて寂れた町に生まれた。父が素潜りと投網を生業とする漁師で、その生活は決して楽とは言えなかった。しかしその町に住んでる誰もがそれと同じ、似たような生活環境だったので特にその事を気にするものは居なかった。
マルティナスには悪癖、困った癖のようなものがあった。突然いなくなったと思ったら家から少し歩いたところにある入江に居て、そこで一人で海を眺めていた。彼はそういう事を幼い頃から何度も繰り返した。最初、彼の両親はその事で随分と心配をしたし、不安になったりもした。マルティナスが突然いなくなって探したあげく、海に居てそこで黙って見ているのだから。しかし両親のその不安はやがてすぐに彼の長所の様なものに変わった。手がかからない子。マルティナス。突然いなくなっても大丈夫。きっとあの入江に居る。何時間も何時間も、何日でも、毎日でも、彼は飽きることなくただその入江から海を眺めていた。晴れていたら砂浜に座って。雨が降っていたら立ったまま。そうして彼はただ海を眺めた。何かが見たいわけではなく、何かを見つけたいわけでもなく、ただ、ただただ茫洋と海を眺めていた。彼の生活の中には、中心には入江が、海があった。幼い頃からマルティナスには海に全てを捧げている様な雰囲気があった。実際彼は泣くことも怒る事も少なかった。何かを欲しがることも稀であった。時たまクッキーの空き箱や空き缶を欲しがったかと思うと、その中に入江から拾い集めた綺麗な貝殻や透き通った石、珊瑚の欠片を入れていた。量も多くない。数えられる程度だ。母親が同年代の子供のいる家の話を聞くと驚かされるような事、話が多かった。そしてマルティナスの存在も他の家庭の親たちを驚かせる事が多かった。町の人間は皆、マルティナスを見つけるのは簡単だと言って笑った。手のかからない子。マルティナス。突然いなくなっても大丈夫。きっとあの入江に居る。その言葉の通り、彼はほとんどの時間、海に、入江に居た。他の子供のように、突然いなくなっても大慌てで探す必要も無い。その事は父や母の間でも笑い話の一つになった。
幼いマルティナスはそうやって毎日のように海を眺めていた。悲しかった事、辛かった事、怒りを感じた事、そういう全ては海を眺めていると、いつの間にやら溶けて消えていってしまった。彼は海が好きであった。代わりに楽しかった事や嬉しかった事は分けてあげたい。そう思っていた。
そんなマルティナスは幼い頃から父の仕事もよく見ていた。一緒に父の船に乗って漁に行った事もある。父は海に潜ってあっという間に見えなくなった。少しすると手や銛の先に大きなバラマンディやスキャンピー、ブルー・マッセルを掴んで上がってくる。父は笑いながら海の様々なものをマルティナスに見せてくれた。最初マルティナスは少しだけ泣いた。彼はそれが、父が獲ってきた魚がかわいそうだと言って泣いた。彼が泣いた所など父ですら見た事が、記憶に無かった。もしかしたらこの母親から生まれた時以来かも知れない。父はマルティナスを船のへりに座らせて自らもその横に座って彼の頭を撫でながらやさしく語った。
「これが俺の、俺達の仕事なんだ。こうして生きている。こうしなくては生きていけないんだ。でも大丈夫。大丈夫だマルティナス。海は平等だから」
泣き止んだマルティナスが父を見上げると、父は茫洋と海を眺めていた。穏やかで風も波も無い。
「海には嬉しい事もあれば辛い事もある。それに行き過ぎた行為をすれば必ず報いが訪れる。大丈夫だ。俺もいつかそうなる。俺にもそういう日が来るだろう。だから大丈夫。大丈夫だよマルティナス」
何処までも続く海を眺めながら。
ハイスクールに通うようになっても、マルティナスの生活が大きく変わることは無かった。彼の頭の中には常に海、入江の事があった。海中心の生活をしていた。朝、漁に海に出る父親と同じような時間に起きては入江に行って海を眺め、スクールが終わると晩御飯の時間まで入江に佇んで海を眺める。授業の間も大抵の場合、彼の目は窓の外に向いていた。入江のある方に。海が眺められない時間さえ、彼は頭の中や自分の中に存在する入江の記憶を眺めていた。
ある時、先生にそんなに好きなら海の絵をかいてみたらと勧められて、彼は一晩をかけて入江の絵を描いた。その絵が何とかという賞でグランプリになった。しかし、マルティナスにはそんな事どうでもよかった。実際、彼はその出来事を両親にも言っていなかった。他の家の親から母親にその事が伝えられてそれでわかった事だった。その絵には圧倒的な海が描かれていた。マルティナスには絵を描く為の技術や知識など無かった。彼はただ、毎日眺めている海を、心の中にも頭の中にもずっとある幼い頃から眺めていた海を、入江を描いただけだった。ただ見ていた通り描いただけ。教師に描いてみたら、そう言われたから。
マルティナスはなんとなく自分の将来が決まっているものだと思っていた。ハイスクールを卒業したら父の仕事、漁師の手伝いをするのだろうなと。それまでにも何度も父の仕事の手伝いをしていた。道具、銛や網、海のもぐり方や船の使い方を父に教わっていた。だからそんな風に考えていた。別に構わない。海に関わることが出来るのなら、それはそれでいい。そんな時、父が出漁中に鮫に襲われて死んだ。シャークアタックだ。オーストラリアでは毎年何人かが鮫に襲われて死ぬ。大けがをするか、死ぬ。しかしまさか自分の父がそうなるとはマルティナスは思っていなかった。毎日漫然と海を眺めていた彼さえもそんな事は考えていなかった。考えた事が無かった。自分の父が鮫に襲われて死ぬなんて。そもそも彼のいた町、マルティナスが毎日眺めていた海、父や他の漁師が漁に出ていたその海に鮫が出たことは無かった。鮫に襲われて人が死ぬなんて事は今まで無かった。それなのに、比較的浅瀬で投網や素潜り漁をしていた父が鮫に襲われるなんて。回収された父の死体には下半身が無かった。歯型から推測するにホオジロサメだろうという事だった。
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