そこは、風の、海風の強い場所だった。
砂浜、浜辺が広がっていた。
その先には海が、見渡す限り青い海が広がっていた。波が、寄せては返す波がじゃぶじゃぶと、波打ち際で白くなって音をさせていた。
私は、小屋から椅子を出してそれを浜辺に置いて、そこに座ってビール、小屋の冷蔵庫に入っていたビールを飲んでいた。
空は抜けるほど青く、遠くまでいくとそれが海の青と混じって境がわからなく、わからなくなる。なった。
中天には太陽が照っていた。
私は、そこで、それらを眺めながら座ってビールを飲んでいた。
ふと、砂浜、波打ち際の砂の一部が動いた気がした。視線がそこに向いた。砂。波打ち際の砂。その一部が盛り上がった。そして、まず、手、手が出てきた。片手。右手か左手かわからない。でも手が、波打ち際の砂の中から手が出てきた。砂まみれの手。ざらざらと砂のついた手。ヤドカリの様な。手。次いで、腕が出てきた。手にくっついて。ざらざらの。砂まみれの腕。手と、それにくっついた腕はそこで海中の藻の様に少しの間その辺りを漂っていた。
それから顔が出てきた。顔が出て首が出て、両肩が出てきた。手と腕がもう一本出てきた。上半身が出現した。砂にまみれた。ざらざらした上半身。それが波打ち際に出てきた。そこに波が当たった。じゃぶじゃぶと。その顔はしばらく海を見ていた。それが急こちらを見た。私と、目があった。
「すいません。引っ張ってもらえますか」
男だった。波打ち際の砂の中から出てきたのは男の人だった。知らない男の人だった。
砂の中から引っ張り出して、すっかり全部、下半身まで全部出てくると男は、どうもありがとうございました。と言ってから海に入っていった。服のまま、ざらざらと砂のついた服のまま、じゃぶじゃぶと海に入って行ってしまった。私は、また椅子に座ってビールを飲んだり、小屋にあったバットを使って素振りをしたり、ラジカセで音楽を聞いたりした。
そうしてしばらく経ってから、海から、男が戻って来た。男の体からはすっかり砂がとれていたが、びちゃびちゃで、ずぶ濡れだった。しかしそれには構わず男は私の、砂の上に置いた椅子に座っている私の所まで歩いてきて、それから、
「あの、ありがとうございました」
と言った。
私は何の事なのかわからず、男を見上げた。
「あれ、覚えてないですか。僕、阿部祥です。ここに来るの二回目なんですけど」
二回目。いや、覚えていない。何それ。
「一回目の時もあなたに会いましたけども」
知らない。全然知らない。何言ってるんだろうこの人。
とりあえず落ち着いてもらいたくて、私は立って男に椅子を譲った。それからビールを手渡した。私は少し離れた砂の上に直接座った。
「前に来た時もこのビール飲みました」
男は少しの間ビールをじっと見つめてからそう言って、それから乾杯とこちらを見て笑った。私も同じようにビールを少し上げた。
それから、男は改めてここに来るのは二回目だという話をした。私にも会ったし対応してもらったという事も述べた。しかし私にはその記憶が無く、何かの間違いなのではないかと弁解、弁解なんておかしいけど、とにかくそのような説明を行った。
男は、ここはあの世の入り口なんですよね。と言った。それは、それも分かりません。私にはわかりません。
ここは景色もいいし、海も空も綺麗だし、あ、
「前に僕がここに来た時ロブスターも食べましたよね」
あれも美味しかった。なまら。なまら美味しかった。すごく。すごく美味しかったなあ。最高でした。最高ですよね。
男は屈託なく笑った。ここは最高ですよね。私もそれには同意した。確かに。はい。ここはそうですね。それはそう思います。
そのあと暫く二人して海を眺めた。ビールを飲みながら。暫く。何処までも続く海。波打ち際、波がじゃぶじゃぶと白く音を立てている。海風に塩の匂いが、海の匂いがする。それらを。ずっと。何度も。幾度となく。いつまでも。暫く。
「ビールのおかわり貰ってもいいですか」
男はそう言って椅子から立ち上がった。私が行くと言っても聞かなかった。前にも一回来たことあるんだから知ってますから。大丈夫ですから。そう言って小屋に向かって歩いていってしまった。
仕方がないので、私はビールを持ったまま海に向かった。波打ち際に立って足を洗った。砂のついた足に波が当たる。じゃぶじゃぶと。
私は暫くそのままそこに居た。ただ、居た。ただ立っていた。先生の事を考えていた。先生の事。父と母が死んだ時にお経を読んでくれて、戒名を下さった、先生の事。御世話になっていた御寺の御住職。内科医もされていた。先生の事。
すると、
そこに、
突然。
突然、頭、後頭部に衝撃が走って、私はなすすべなくそのまま波打ち際に倒れ込んだ。
頭に割れるような痛みが生じた。それはやがてじくじくとした痛みに変わった。体に、顔に、波が当たっていた。じゃぶじゃぶと波が何度も当たっている。
やっとのことで顔の向きを変えて、見ると、目だけで見上げると、そこに男が立っていた。さっき砂から出てきた男。砂にまみれたざらざらの男。見知らぬ男。ここに来たのは二回目だと言った見知らぬ男。ビールのおかわりを持ってくると小屋に歩いて行った男。
男は手にバットを持っていた。私が素振りをする為のバット。
「ここの管理人の役目、僕と代わってくださいよ」
男は私の事を見下ろしたまま無表情にそう言った。
ああ、そうですか。
私はそう言った。そう言ったしそう思った。ただそう、一言しゃべるだけでも、頭がずきずきと痛んだ。返る波が顔に当たって跳ねてそれが目に入った。目にも鼻にも口にも入った。顔についた砂を波が洗った。じゃぶじゃぶと。しかし砂はついた。波が居なくなる度についた。その度にざらざらとした感触があった。それをまた波が洗う。じゃぶじゃぶと。その繰り返し。ずっと。ずっと、その繰り返し。
私は、
管理人になったつもりは無いし、役目だと思ったことも無い。
ただ、
毎日ここに居たらよかった。居るだけでよかった。
それが、
終わってしまうのか。そう思うと、
なんだか、
惜しい気がした。惜しい気はしたが、
でもそれも、
仕方ないと思えた。
嫌だけど、本当に嫌だけど、辛いけど、辛すぎるけど、本当に辛すぎるけど、ここじゃない所に行くのは、嫌だな。辛いだろうな。恐ろしいだろうな。地獄だろうな。嫌だな。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だなあ。
ああ、
嫌だなあ。
でも、
仕方ないと思った。
寄せては返す波が顔に当たる。目に入る。海水が。痛くて目を閉じた。
再び目を開けた時、私がバットを持って立っていた。
そして、男が波打ち際に倒れていた。
私は驚いてバットを捨てた。バットは波の中に落ちてコロコロと転がり、そのうち波にのまれてしまった。
男は、男も驚いていた。そんな私を見ながら混乱しているみたいだった。
僕が殴ったはずなのに。どうしてだよ。なんでだよ。何だよこれ。男はそんな事をぶつぶつと言っていた。頭から血が流れ出ていた。そこにも波が繰り返し当たる。それでもう血かどうかわからなくなった。
「戻りたくない」
男は私を見ながらそう言った。ここに来る前に居た場所には戻りたくない。もう戻りたくない。元居た場所にはもう戻りたくない。
人を殺したんだと男は言った。でもそれがバレて、だから、もう捕まるんです。でも、その時、偶然、運よく心筋梗塞が起きて、気がついたら手が震えてて。ぶるぶると。その時に思った。またここに来れるって。二回目。二回目の。心筋梗塞で。
男は昔一度、心筋梗塞で死にかけたことがあったそうだ。趣味だった釣りをしていた時にそれは起きたんだという。その時に起きた手の震えを魚が糸をひく振動と勘違いしたのだという。
そして、ここに来た。ここに来てあなたと話をした。あなたと海を眺めながらビールを飲んで。それからロブスターを食べた。美味しかった。なまら。あれはなまら美味しかったなあ。
死んでからも、死んでも、死んでからもこういう所に来るのなら。死んでも無くならずに、無になるわけでもなく、こういう所に来るのなら、こんな所で過ごせるのなら。
もう、
どうでもいい。
死んでもまだ、生きるなら。
何も。生きてる事も。生きるなんて。
どうでもいいじゃないか。
それが、男が人を殺した理由らしい。
「ずるいずるいずるいずるいずるい」
いいなあ。あなたばっかり。いいなあ。羨ましいなあ。いいなあ。この場所。この風景。海。空。いいなあ。ビール。ロブスター。いいなあ。なまらうまいビール。なまらうまいロブスター。いいなあ。いいなあ。
「いいなあ」
何で、あんたばっかり。なんで。なんでだよ。
小屋に救急箱があるかもしれないから。私は男にそう言って小屋に向かった。
その道中、自分の後頭部に傷は無いか触りながら、ふと、北海道の人なのかな。あの人。そう思った。
それから、だから、それで、
厚岸国縫上雷川汲住初登別上湧別旭神歌内下川剣淵和寒厚床長万部馬主来散布来岸倶知安鍛高奔幌戸北兵村南幌抜海幌満力昼寧楽別狩樽真布
口から勝手に水カンのシャクシャインが出てきた。それからずっとシャクシャインを口ずさみ続けた。
小屋に向かっている間も、小屋の中を見回っている間も、救急箱も何も無くて男の元に戻る間も、
ずっと、
私はシャクシャインを歌い続けた。歌いながら早足踏みをしたり、ちょっとしたステップを踏んだり、くるっとターンをしたりした。背伸びをしたり縮んでみたりした。飛んだり跳ねたりした。クルクルクルクル回ったりもした。
波打ち際の男の元に戻ると、男は居なくなっており、男が着ていた衣服だけが落ちていた。その衣類にはズワイガニやらホタテ、赤海老が絡みついていた。
あと、先ほど海に投げ捨てたバットが砂浜に戻ってきていた。その横で腹の膨らんだ鮭が一匹跳ねていた。
それらを全て男が着ていた衣類に結び付けて、それを持って小屋に戻った。
小屋の中を探すと炊飯ジャーが出てきた。冷蔵庫の下段、野菜室に米が入っていたので、炊飯ジャーを使って米を炊いた。ラジカセに水カンのジパングをセットしてシャクシャインを流した。一曲だけを何度も流した。小屋の中から木魚とバチが出てきた。シャクシャインを聞きながら木魚を叩いた。
鮭の腹を包丁で割くとイクラが山のように出てきた。
タラバガニを鍋で茹で、ホタテの身を取り出して、赤海老は殻をむいた。ビールを飲みながら悪戦苦闘しつつも鮭をさばいた。冷蔵庫のドアポケットの所に大葉、ネギ、海苔、醤油、わさびが入っていた。丼を探し出してそれにご飯をよそい、海鮮丼を作った。
箸と海鮮丼を砂浜に置いた椅子の上に置き、シャクシャインを流したままラジカセに電池を入れて椅子の側まで運び、椅子に座って海鮮丼を食べた。
「うまい」
うまい。
ビールも。
うまい。
なまらうまい。
海鮮丼を食べ終わると椅子の脇の砂の上に座ってしばらくの間、チャイルドポーズをした。ヨガ。バーラーサナ。海に向かって。両膝を地面につけ、おでこを地面につけ、最初のシャクシャイン十回分、手を伸ばし、次にシャクシャイン十回分、手を両脇にしまって。私はただ、無心でチャイルドポーズをした。
それが終わると波打ち際で木魚を叩きながらシャクシャインを歌ったり踊ったりした。踊りなんて全然知らない。でも、とにかく体を動かした。足に波がじゃぶじゃぶあたる。でも、私は、私の体はそんなの意に介さない。全く意に介さなかった。
それを気持ちが途切れるまで続けた後、椅子に座ってまた海を眺めた。海を。浜辺を。波打ち際を。空を。海風が強い。中天には陽が照っている。
そうしているうちにふと思った。
阿部祥。
名前、あの人、阿部祥って言ったよな。
確か。
阿部祥。
アヴェショー。
霧の中の少女。映画観た。Huluで。アヴェショー。かつてリゾート地として賑わった山間の田舎町で事件が起こる。
一人の少女が消える。
小屋に戻ってバットを確認する。血は付いていないかどうか。血は付いていなかったが、なんとなくまた波打ち際まで持って行って波でじゃぶじゃぶと洗った。
空を見上げ、
海を見つめ、
砂浜を見て、
小屋を見た。
いつか、
私もここを離れる時が来るのだろうか。
おそらく、
来るんだろうな。
と。
そう、
改めてそう思うと、ものすごく悲しくなった。
ものすごく。
悲しく。
なったが、
しかし、
そういう気持ち、感情、心持ちで見る、見える。見る海、空、浜辺は、
一段と、
また一段と、
ああ、
「綺麗だなあ」
綺麗に見える。
見えた。
綺麗に思える。
思えた。
美しく。
美しさが増した様にも、思える。
思えた。
陽の光に照らされて、海が、きらきらと、波が光って。
その波が白くなって、私の足に当たる。
じゃぶじゃぶと当たる。
何度も。何度も。
何度も何度も。
繰り返し。
幾度となく。
終わることなく。
幾度となく。
終わることなく。
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