「悩んでいる事はそれだけじゃなくてね、」と琴音は眉を顰めた。
「前の男と別れて、この街で一人暮らしをするようになってからも、妙な事が続くのよ。この間なんて、郵便受けに精液入りのコンドームと怪しげな手紙が入っていたわ。」「オエーッ! 気持ち悪いわね、」とナオミは思い切り顔を歪めた。「それからね、駐輪場に止めていたあたしの自転車のサドルが立て続けに五回も盗まれたのよ。自転車が盗まれるならまだ分かるけど、サドルだけよ。」
琴音は神経衰弱の状態が長く続いていた。「まだあるわ、真夜中にチャイムが鳴るのよ。うち、ヨークシャテリアを飼っているでしょ。夜中の二時頃に階段を上がる足音がして、あたしの部屋の前でピタッと止まると、犬が玄関に向かって物凄く吠えるの。何時も誰かに監視されている気分よ。」琴音は不眠に悩まされている事も、ナオミに打ち明けた。「怖いわねェ。サドルなんて一体何するのかしら、」とナオミは眉間を曇らせた。「琴音さんが座ったサドルだからじゃないですか? 変質者が琴音さんのサドルを盗んで舐め回しているとか。」と和也が琴音に言った。
「俺もサドルになりたい。琴音さんのお尻で踏んで欲しいって? そんなのSMの世界じゃない、サドル願望なんて! もうこうなったら琴音は六本木辺りの高級SMクラブの女王様に転職するしかないわね。ボンテージ着て変態ジジイを打ん殴って、大枚をふんだくってやればいいのよ。」ナオミはグラスの酒を飲み干して言った。
「確かに、お金は欲しいけど、あたしは気持ちの悪い人と接するのが厭なのよ。」「やれストーカーだ、変質者だって、琴音も大変よね。あたしは露出狂みたいな格好で毎日フラフラしているけれど、痴漢にすらあった事ないわよ。」「いいわね、アンタ、」と琴音は羨望の眼差しでナオミを見た。
「でも、一度店の帰りに妙な目に遭った事があるわ。昔、あたし公団住宅の前を通って帰っていたでしょ。」「うん、知ってる。ナオミが客にバイアグラ飲まされてぶッ倒れた時に、あたしがタクシーで運んだお部屋だよね、」と琴音が確認した。
「そう、そこよ。店の帰りに泥酔して歩いていたら、行き成り後ろから誰かが抱き付いて来るのよね。顔見知りがあたしを吃驚させようと、ふざけてやっているのかなァ、なんて思って振り向いたら全く知らないハゲオヤジがあたしの尻触りながらニタ~ッと笑っているから、もう物凄い声で叫んだわよ!」
「あ、何か想像出来る、」と琴音が可笑しそうに言った。「でも、それって立派な痴漢だよ、ナオミ。」和也も釣られて笑っている。
「確か、琴音の引っ越して来た部屋ってうちの近所でしょ。あたし、今度パトロールに行くわ、」とナオミは提案した。「うん、助かる、それはお願い、」と琴音が言った。「ねェ、ナオミ……、」と琴音は言い淀み、チラとナオミを見た。
「つい最近、この街で二十四歳の女が殺されたでしょ。」
「そうよ、確か、ウチの近所よ。同じ五丁目。」
「あたし、ナオミが殺されたんじゃないかって急に心配になったわ。今日お店に来たのは、ナオミが生きているかどうか確認の意味もあったのよ。」と琴音は縁起でもない事を口走った。
「物騒な事言うわね。でも、そう言えば、あの事件のニュースがあった日、酒屋のお兄さんやお客さんから『ナオミ、生きているか、殺されていないか?』ってメールがあったわ。他にも数件。みんなあたしが殺されたと思ったらしいわね。」「多分そうでしょ、」と琴音は素っ気無く言った。ナオミは勝手に人を殺すな、と思った。「ナオミはスキャンダル女優だからね!」と琴音は可笑しそうに言った。「琴音だって似たものでしょ?」とナオミは反撃した。
「ゴメンね、あたしは正統派女優だから!」琴音は掌でカウンターを叩き、嬌声を張り上げて笑っていた。
「素材は琴音の方がホンのちょびっといいかもしれないけれど、あたしは表現力と演出力があるもの。」ナオミは琴音の酒を作りながら言った。「あんた、負け惜しみ? でも、面白い事を考え付くわね。」琴音が煙草の煙を吐き出しながら言った。
「あたしは素材で勝負する女なのよ。人間だってアンタみたいに精製しすぎると、面白味がなくなるからね。それに、本当に美しい人ってのは、顔だけじゃなくて、生命の全てでキラキラ輝いている人の事だと思うわ。顔だけなら整形で何とでもなるものね。」
「フン、言いたい事言うじゃない、」と琴音は瞬く間にグラスの酒を飲み干し、ああ、いい気持ち、とトロンとした目をして言った。ナオミは琴音のピッチの早さに吃驚していた。
「それにしても、前の男には酷い目に遭わされたわ。恨んでも恨み切れない。やっと別れさせてくれたのよ。」と琴音が嘆くように呟いた。「復讐する方法が一つあるわよ、」ナオミは悪戯っぽく眴せした。「何よ、教えなさいよ、」と琴音がせがんだ。
「それはね、跡形も無く前の男を忘れる事よ。記憶の中から葬り去ってやるのよ。愚痴るって事は、琴音も心の何処かで相手に執着している証拠でしょ。男ってのは自惚れが強いから、琴音が未練持っていたりしたら、それこそ相手の思うツボ。矢っ張りこの女は俺がいなければ何も出来ないんだ、なんて思われたらお仕舞いよ。」
琴音は熱を込めてナオミを見詰めていた。
「新しい彼氏と情熱的な恋に落ちて、然も、持ち前の美貌に更に磨きが掛かったりしたら、元彼なんて地団駄踏んで悔しがるわよ。」「そっか、そろそろ、立ち直んなきゃね、」と琴音は寂しげに笑った。突如、ナオミの携帯が鳴り響き、黒田から電話が掛かって来た。ナオミは行き成り店に来られても困る為、渋渋電話に出た。
「おう、ナオミか、暫くだな、電話を掛けても出ないから、心配したぞ。昨日は店も開けていないし。」「何か御用ですか?」とナオミは事務的に訊いた。「冷てェ言い種だな、おい。人が折角心配してやっているというのに。」「それは、どうも、」とナオミは口籠り、会話が途切れた。「今から、店に行ってもいいか?」
「黒田さん、もう、こんな店来ないって言っていたでしょ?」
「それは、あん時だからだよ。TPOに応じて言った迄だ。和也いるか? 話がある。」ナオミは切り返す言葉を失い、臍を噬んだ。
「今から、そっち行くぞ、分かったな。」
電話は一方的に切れた。
「琴音、」とナオミは厳しい顔で呼んだ。「何よ、怖い顔して。」
「あんた、今から帰りな。この街を占めているヤクザが因縁付けに来るのよ。お願いだから帰って。」ナオミは切羽詰った様子で琴音に頼み込んだ。「何よ、ヤクザなんか怖くないわよ。折角遊びに来たのに、帰れはないでしょ!」ナオミはそれを聞き入れず、和也に「琴音を送って帰って、部屋は近所だから、」と頼んだ。和也は席を立ち、「行きましょう、琴音さん、」と言った。
「帰るのはイヤ! 先来たばっかりじゃない。」「店が跳ねたら、酒持って琴音の部屋に遊びに行ってもいいからさ、兎に角電話するから、」とナオミは琴音を宥め賺した。琴音は膨れっ面で和也に送られ、店を出た。
♢
店の扉が細く開き、ナオミはぎくりと身を強張らせた。重いコートを着た、ロマンスグレーの紳士が店に入って来た。
「なァんだ、吉行さんか。」ナオミはホッと胸を撫で下ろした。紳士は穏やかに笑っている。「外は寒かったでしょ。今日はどうしたの?」ナオミは吉行氏のコートをハンガーに掛けながら訊いた。
「今日はこの街で集まりがあったんだよ。その帰りにナオミちゃんの顔を見に来たんだ。」吉行氏はこの街の区役所を定年退職してからもナオミを気遣って、集まりがある度にエトランジェに寄ってくれた。暫くして和也が店に戻って来た。
「久し振りだね、和也君。元気にしていたかな?」吉行氏はにこやかに訊いた。「お久し振りです。まぁ、元気って程でもないんですけれど、」和也が含羞むように言った。黒田は役所のお客さんが多く来ている日は、店に寄り付こうとしなかった。ここ近年、暴力団組織に対する社会の風当たりも年々強くなって来ている。黒田は役所や行政の権力を本能的に怖れていた。
店の扉が行き成り開いた。招かざる客は傲慢に店の中を見回すと、吉行氏の姿に目を留め、一瞬困惑した表情を浮かべた。
「おう、ナオミ! 来てやったぞ。」
傲岸不遜ではあるが、何時もより若干控えめな態度で黒田は言った。ナオミは吉行氏の存在に淡い希望を繋いでいた。吉行氏がいなければ黒田は、組のトトカルチョに参加しろだとか、偽のブランドバッグや時計を圭子に売り付けようとしたり、新手の商法に出資しろ等と、頻りに吹っ掛けて来る筈なのだ。
ナオミは、飲食代と見ヶ〆料以外の金銭のやり取りは、何があっても固く拒んでいた。今日の黒田は、和也に出所の知れない中古車を押し売るのが目的だ。黒田の組に見ヶ〆料を収めていても、それが役に経った例など、唯の一度も無かった。有事の際、店を守らねばならぬ筈の黒田が、営業を妨害するだけである。ヤクザが暴れるような店なんて、誰が行きたいものか。この街で悪い噂は黒死病のように遍く伝染して行く。
「君はきれいな目をしているね。」
吉行氏が澱んだ沈黙を破って黒田に話し掛けた。「それ、本気で仰っているんですか?」黒田は一瞬たじろいだが、それも照れたような、擽ったいような表情に変わって行った。黒田の芝居染みた無邪気さを、ナオミは忌忌しく思った。「ああ、本当だとも。」吉行氏は大きく頷いている。「そんな事を人様から言われたのは、生まれて初めてで、嬉しいなァ。」黒田は人懐っこく笑っていた。
ナオミはBGMをジャズから、シャンソンに変えた。リズ・コーディの、『パリ祭』がゆっくりと流れている。
「何だ、又シャンソンか、気取り腐りやがって! お前は都々逸でも聴いてりゃ丁度いいんだよ。」すぐ様黒田がクレームを付けた。「いいの、気にしないで、」とナオミは微かに笑った。「ッたく、しょうがねぇ女だな、」と黒田は刺刺しく言い放った。
黒田はナオミに報復する機会を窺っていた。琴音を帰して本当に良かった。琴音は綺麗にデコレーションされた美味しそうなケーキのように黒田の目に映るだろう。例の欲しがりの虫が又騒ぎ始めて、黒田の次の標的は美貌の琴音になる可能性だってあり得るのだから。ナオミは上の空で考え込みながら黒田の酒を作っていた。
「何だ、目の前に客がいるのに、余所余所しい! もっと、水商売の女らしく愛想良く、商売っ気を出せよ。」黒田に怒鳴られたナオミは空気の抜けた紙風船のようだった。「そんな事言われたって、あたし、あんまりやる気ない。」「ッたく、これだよ! 我が儘な女だぜ、」と黒田は吐き捨てるように言った。哀愁を帯びた声で、リュシエンヌ・ドリールの『サンジャンの私の恋人』が流れている。
♢
扉が開き、客が入って来た。この街で代々工務店をやっている鳶職人の新村だ。気風が良く豪快で陽気な彼をナオミは好んでいた。新村はエトランジェの開店当時「ヤクザや変な客が来たら、何時でも助けてやるから俺に言え。」と言ってくれた事があった。強面の見掛けによらず、新村は純情で正義感が強いのだ。
ナオミは黒田と新村が火花を散らすのではないか、と頭を抱えていた。新村は何処かで一杯引っ掛けた帰りで上機嫌だった。
「おう、坊主、元気か?」新村は顔見知りの和也と視線が搗ち合うと、ふらりと席を立ち、馴れ馴れしく和也の肩に手を回した。和也は俯いて、黙り込んでいた。「な~んだ、若いのに覇気が無い。お前は大工やっているんだろう。」新村は和也の頭を軽く叩くと、フラフラと席に戻り、ナオミちゃん、お酒頂戴、と甘ったれた口調で言った。彼女は水割りを作りながら黒田を盗み見た。黒田は気色ばんだ様子で、新村に反撃するように和也を嗾け、ポケットからメリケンサックなる凶器を取り出して強引に渡そうとしている。
「ね~え、新村さん、」とナオミは猫撫で声で囁き掛けた。「お隣のルミちゃんがね、新村さんに会いたがっていたわよ。」
「ええっ! それ本当?」と新村は身を乗り出し、訊いた。黒田がイヤな目付きでじっとナオミを睨み付けている。
「勿論よ! 新村さんみたいに逞しい人がルミちゃんの好みなんだって、ンもゥ、妬けるわねェ。」ナオミは口から出任せを言い、新村を唆した。「へえぇ~ッ! 嬉しいなあ。」新村の厳つい顔があからさまに綻んだ。「あ、思い出した、ルミちゃん、新村さんに何かお話があるって言っていたわ。これを飲んだらお隣に行ってあげて。又近い内に飲みましょう。」ナオミは品を作って、新村に愛嬌を振り撒いた。「ナオミちゃんもタイプなんだけれど、ルミちゃんもグラマーで捨てがたいなァ。じゃ、俺一寸行って来るよ。」
ナオミは苦し紛れに新村を騙し、隣の店に追い出す事に成功した。この街で悪名高い黒田と喧嘩っ早い新村が、此処で揉めたら忽ち警察沙汰になるだろう。エトランジェの二階のゲイバーのマリーは、困った事があったら、何時でもあたしに相談しなよ、と先輩風を吹かせていたが、黒田が関与する事だとマリーも関わりたがらない筈である。黒田が昨年東京拘置所に入ったのは、マリーの店で黒田が右翼と揉めて傷害事件を起こしたからなのだ。
「おう、ナオミ! お前は何で和也が頭叩かれたのに、新村を帰したんだよ。俺はこいつに新村なんか表へ引き摺り出してぶッちめて来いって散々発破掛けたんだぜ!」
逆上せ上がった黒田が、ナオミに吠え掛かった。「もう、いいから、」と和也が消え入りそうな声で言った。「何だ、テメエはだらしがねえ。俺が代わりにケジメ付けて来てやろうか。なァ、ナオミ、あいつ隣の店に行ったんだろ?」黒田は椅子から立ち上がった。
「もう、勝手な言い掛かりを付けるのは止めてよ! いい加減にして。黒田さんが新村さんにケジメを付ける理由なんて何処にも無いじゃない!」ナオミは弾かれたように啖呵を切っていた。彼女は以前のように黒田を龍二さんとは呼ばなくなっていた。
「理由が無いだって? ふざけるんじゃねえよ。新村工務店はなァ、うちの組にショバ代納めていないんだよ。これは正当な理由じゃねえか!」「勝手な御託を並べているんじゃないわよ!」
和也は二人の板挟みになって、葛藤していた。「お願いだから、もう止めて下さい。黒田さん、此処じゃなくて、気分を変えに何処か違う店に行きましょう。」と和也は懇願するように言った。
「そうだよな。こんなクソアマの店じゃなくて、もっといい女がいて、ウハウハ出来る店に行こうぜ! なっ、行こう行こう。」
♢
黒田は和也を眷属に従え、エトランジェを後にした。ナオミは二人を扉迄見送った。「さようなら、和也、黒田さん。」ナオミは二人に永遠の別れを告げた。和也は戸惑うように彼女を見た。黒田はナオミを嘲笑った。「さっ、和也、いい所に行こうぜ!」ナオミは夜の街を彷徨う二人の後ろ姿を見送る事無く、店に戻った。
「最近のナオミちゃんは何だか少し疲れているようだね。」吉行氏が慰めるように言った。「疲れるわよ、あの黒田、気を付けなきゃ駄目よ。この前も店で暴れたのよ。今度は何しでかすか、」と彼女は物憂げに声を落とした。幾ら清濁を併せ呑む気質のナオミとは言え、近頃は些かバッテリー切れだ。
会社帰りの明日香が店の扉を開け、漸を追って森君と一見客が訪れた。「ああ、ナオミ。疲れちまったよ。俺、いや、あたしの酒まだ残ってる?」ナオミは棚から明日香のボトルを取り出し、「これだけあるよ、」と言った。ネームプレートの他に熊のマスコットやキティちゃんのシールで飾られたボトルは、まだ三分の一程残っていた。「今日はお客さんと飯食って、軽く飲んできた。営業も楽じゃないわねえ。」明日香は男言葉と女言葉が妙に入り混じった話し方をする。「明日香ちゃん、お疲れ様。」と吉行氏が声を掛けた。「あ~ら、吉行さん、お久し振りじゃない? 今日は一緒に飲みましょう。あたしは今夜、浴びる程飲みたい気分よ、」と明日香が言った。「では、先ずはご一献、」と吉行氏が明日香のグラスに酒を注いだ。明日香と吉行氏は楽しげに語らっていた。
ナオミは和也にやり場のない憤りを感じていた。何故和也は黒田や新村に毅然と意見を述べる事が出来ないのだろう。こういう性格が災いして、何時も人より痛い目に遭う事ばかりだというのに……。ナオミは携帯を握り締めると、和也にメールを打ち始めた。
『和也のバカ! 何で黒田に付いて行くの? あんた、いつからヤクザの手下になったの? もう、知らないんだから。』
ナオミは和也にメールを送信すると、多少溜飲が下がり、酒を飲む気になった。彼女はアッと言う間に明日香のボトルも、吉行氏のボトルも空にしてしまった。「ナオミは相変わらずいい飲みっぷりだよな、幾ら酒があっても、足りねえよ。」明日香が感嘆の声を漏らした。ナオミちゃん、ボトル入れて、と吉行氏が言った。
「ほんじゃあたしも~。」と明日香が言った。
ナオミは明日香の為にBGMをキャンディーズに変えた。途端に明日香が燥ぎ、「あたしたち普通の女の子になりた~い!」と言った。気晴らしに歌でも歌おうよ、とBGMの『微笑み返し』をハミングしながら明日香はキャンディーズ・メドレーをカラオケに入れた。
明日香はその昔、キャンディーズの解散コンサートのチケットを高倍率で入手していたにも関わらず、会社の入社式と重なった関係で行けなかった事を、今でも後悔していた。もう二度とあの時と同じ思いはすまい、明日香は女装道だけは悔いを残さぬよう全力投球しようと心に誓っていた。明日香の自室には、嘗てキャンディーズが着ていたような小悪魔風衣装を着て微笑む明日香の等身大ポスターや、チャイナドレス姿やビキニスタイルのお嬢さん風の明日香のブロマイドが所狭しと貼られていた。
先月、明日香は『みるきー』と言う女装交際誌恒例のフォトコンテストで優勝した。そして、明日香は第二十八回女装クイーングランプリの座を勝ち取った。事実上、明日香は女装日本一と言う事になる。然し、実際は勝ち取ったと言うより買収したのだ。発行部数が少なく、普通の書店では取り扱っていない一冊三千円もするマニア雑誌『みるきー』を明日香は一人で百部も買い占めた。そして、友人知人エトランジェの仲間全てに配り、フォトコンテストの読者投票に応募させた。その結果当然と言えば当然なのだが、明日香は見事優勝し、女装クイーンの座に綺羅星の如く輝いた。
来月の『みるきー』を明日香はウエディング・ドレス姿で華々しく飾る事になっている。「ンねェ、淳様お願い!」明日香は淳に撓垂れ掛かって、グラビアの新郎役をしつこく頼み込んでいた。
「畜生! サラリーマンなんて辞めてえよ。誰が気楽な稼業なんて言ったんだよ。おい、ナオミ、来週から俺をホステスとして雇ってくれ。毎日でもミニスカート履いてお客様の間をヒラヒラしたいわ。本格的に女装道に磨きを掛けるのよ!」明日香の戯言を、ナオミは柳に風と受け流しながら、「毎日ミニスカート履いたら、面白くないじゃない。その内飽きてしまうわよ、」と窘めた。皆、ゲラゲラ笑っている。「このお店はお客さん同士仲良しで、楽しい人が多いですね。」と森君がバーボンを飲み干して言った。
「みんなが何時も和気藹藹としているのがあたしの理想なの。あたしの仲間はお客さんは気持ちが優しい人ばかりだからみんな大好き!」
「こんな状態が、長く続くといいよね、」と吉行氏がぽつりと言った。「ナオミ、今度は年下の男の子入れてって、あれっ、今日は珍しく和也がいないじゃない?」明日香がハッとして訊いた。「今日は疲れて眠いんだってさ、後で来るかもだって、」とナオミは適当に誤魔化した。明日香は暫く怪訝な顔をしていたが、カラオケのイントロが流れ出すと、頭にネクタイを巻いて、激しく踊りながら熱唱していた。マナーモードにしている携帯に、何度も和也から電話が掛かって来た。ナオミは携帯の電源を切った。森君は流暢な英語でジョン・レノンの『イマジン』を歌っている。会社の若い社員を連れた一見のお客さんがP・P・Mの『パフ』を遠慮がちに歌った。森君が拍手しながら、フォークソングっていいですね、と話し掛けた。学生時代にギターを練習したけれど、あんまり上手くならなかったんですよ、と彼が苦笑していた。
一見さんの後輩の男の子は今頃の流行歌を選曲した。
「最近の歌は愛恋愛恋ウォーウォーイェーイェーで分かりゃしないわ。あたしがオッサンだからかもしれないけど、何を聞いても喧しいだけで同じに聞こえる。あたしの時代はフォークソング全盛だったけど、今聴いてもとてもいいわよ。最近の若い歌手の歌う薄っぺらな愛って一体何なのよ、」と明日香がぼやいた。
「ンねェ、ナオミ、ブラジャー買って、サイズは八〇のA、駅前の下着屋で可愛いヤツ売っていたの、」と明日香が甘ったれた口調でおねだりした。「自分で買いに行けばいいじゃない。店員さんには彼女にあげるとかうまい事言ってさ、」とナオミは煙草に火を点けながら言った。「そうじゃないの。プレゼントして欲しいのよ。それに、あの下着屋、あたしは常連だから、そんな小細工必要ないわよ。」「別に買ってあげてもいいけど妙ねェ。女のあたしが男の明日香ちゃんにブラジャーをプレゼントするなんてね。」ナオミは煙を吐き出しながら笑っていた。
「いい事考えた。明日香ちゃん、今度はビシッと営業スーツ着て、アタッシュケース片手に持ってお店に行ってみれば? そしたら、何処の下着屋行っても怪しまれないわよ。憖じっか女装していくよりスーツだと、下着メーカーの営業マンが新製品のサンプルを持って来たと思われるんじゃない?」とナオミは可笑しそうに言った。「失礼ね。あのお店の売り子さんにも『みるきー』を配っているんだからね。今ではあたしの良き理解者よ。今度女装した時、一緒にここに連れて来るんだから。」ナオミはハイハイと聞いていた。「今度は昭和歌謡特集をやりましょうよ! あたしは藤山一郎で行くわ。入社したての頃部長のジジイが宴会でいっつも歌っていたから仕方なく覚えちゃったわよ!」日頃押さえていた箍が外され、明日香は一人で大騒ぎしていた。「では、私は美空イバリの『悲しい酒』。」と吉行氏が曲を選んだ。「僕は『東京花売り娘』を歌います、」とジタンを斜めに銜えた森君が言った。「じゃあ、僕はちあきなおみの『喝采』をお願いします。」と新顔さん、その連れの男性は、「山田課長、僕は昔の歌は余り知りません、」と言った。「何とか頑張りなさいよォ!」と明日香が檄を飛ばした。「全く、最近の若いお兄チャンは~! まあイケメンだから許すけど。」ナオミは明日香の台詞に笑い崩れた。「じゃあ、『亜麻色の髪の乙女』を歌います、」と彼は含羞みながら言った。「そうよ、それでいいのよ。立派、立派!」と明日香が彼を褒めちぎった。「ナオミちゃんは、眠れない夜は何をしているんだい?」とロマンチストの吉行氏が尋ねた。ナオミは一寸考え込み、「そうね、歴代の恋人の顔を思い浮かべながら眠るの、」と言って、ウフッと笑った。
"妾が娼婦だった頃(7)"へのコメント 0件