自分たちにつながる情報がないか、自分たちがここにいたという証拠がないか、ベッドの裏まで執拗に何度もかくにんし、依子は娘の手を引いてその部屋をあとにした。
「……じゃあ、いこうか」
依子はまだ五歳になったばかりの千重子にむかってそう言った。だがその実、どこにいくというあても依子にはなかった。つぎの町に行き、今晩泊まれるところを探すだけだった。
チェックアウトをすませて、ふたりはホテル前のバス停に立った。
依子はスマートフォンでニュースアプリをひらいた。まさか母子の家出ごときが全国ニュースになることなどないとは思うが、強迫概念に駆られて一日に何度かは確認しないわけにはいかなかった。むろん、振り返れども、振り返れども、迫ってくるのは自分たちの影だけで、あの男のすがたはどこにもなかった。
「何をおびえているの」
千重子が言った。
「お母さんがおびえているように見えるの?」
依子はむっとして訊き返した。
「お母さん、おびえてる」
そう言って千重子は、にぎりしめていた左手を彼女の前に差し出した。それから、これみよがしに開いた小さな掌の上に、依子はシャネルの口紅をみとめた。それは昨晩彼女が荷物を調べたときに化粧のポーチから出てきた、まだ新品のもので、いまはスーツケースのなかに収まっているはずであった。千重子はいったいいつ、これをくすねたのだろう。
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