まあるとの約束の時刻は十四時だ。柳下崇はまちあわせばしょである水道橋駅ちかくの喫茶店にじかんぴったりに到着した。店のまえにはすでにまあるの姿があった。
「おひさしぶりです」
まあるがそう言った。五年まえ、柳下の店でアルバイトをしていたときも従業員にていねいなことばづかいをする娘だった。声がひくくて、ふつうにしゃべるとことばがつぶれるため、つよく声を張るくせがついていた。それはしかし、メイド喫茶の店員の発声法としてはいくぶん不適切な場合もあった。
まあるは、ブラウンのパーカーにベージュのスキニーパンツをあわせて、肩からシンプルなデザインの白いバッグをかけている。右目の泣きぼくろはとうぜんむかしのままだが、過去の記憶をまぶたのうらに透かしてみても、面接で「秋葉原が好きだからです」と言ったあの娘はもうここにはいなかった。
柳下は、
「あなたの本を読みました。」
という、ここに来るまえに電車のなかでなんども読みかえした、まあるから来たメールにあった一文へとひきもどされていた。
メールは、三日まえ、柳下のブログのメールフォームからきた。件名には「お久しぶりです。まあるです。」とあり、過去にまあるが柳下にかけた迷惑をわびる文章からはじまっており、さいきん水道橋駅ちかくで清掃をしている柳下を見かけたこと、その際に声をかけたかったが勇気が出ずにけっきょくかなわなかったことがつづられていた。そうして文面は「お近くにお住まいのようでしたら、今度一緒にお茶でもいかがでしょうか?」とつづいた。
柳下は、はじめ、そのさそいをことわろうと思った。だが柳下がメイド喫茶の店長だったときのことを書いた本を読んだとうじのかれを知るにんげんから逃げるのは、つけをあとまわしにする行為だと思いなおして、なかば観念するかたちでそれに応じることにした。
まあるはしごとの関係で平日の水曜日しか時間があけられないとのことだった。フリーライターである柳下は約束が何曜日であろうとたいていは融通が利いたが、二十代なかばの女性がそういった就業形態をとっていることにげんざいのまあるの不幸が色濃くあらわれていると見えて柳下は気がおもくなった。
店にはいると窓ぎわの二人席にとおされた。ふたりはともにコーヒーを注文した。
「わたし、きょうはちゃんとくまさんにあやまろうとおもってきたんです。あんなやめかたをしてしまって……」
まあるが口火をきった。あのころ柳下はその風貌から「くまさん」とよばれていた。
「五年も六年もまえのことだ。いまさらあやまるひつようはないよ。それに、ああいうことはよくあることなんだ。まったく気にしてないよ。店をたたんだあと、こうして元気な顔を見せてくれたのはまあるだけで、おれはそれだけでじゅうぶんだよ」
「それでも、ごめんなさい」
まあるはふかぶかとあたまを下げた。
柳下はどんな表情をつくったらいいかわからず、所存なさげにテーブルの下で足をくみかえた。巨漢のかれには、二人席はいかにもせまかった。
「それで、カレとはまだいっしょなの」
という柳下の問にたいしてまあるは目をふせて首をよこにふった。かれはこれ以上たちいらないことにした。
コーヒーがはこばれてきた。
「一杯七〇〇円ほどで、おれの店で出していた値段とそう変わらないけど、こっちはちゃんとコーヒーの味がするね」
柳下はコーヒーを口にしてこの店にくるたびにおもうことを言った。まあるの表情がほぐれた。
「うちで出してたのはコーヒーではなかったんですか」
「コーヒーによく似た色と味がする粉末をとかした飲みものってかんじかな。こういうことは本には書けないけどね」
しぜん、柳下のあらわした本の話題へとうつった。
「くまさん、本のなかでわたしのことを書きましたか」
というまあるの問いには詰問の色がほのかににじんだ。
「書いたとも言えるし、書いていないとも言えるかな」
じゃっかんの沈黙ののち柳下はそう言った。げんに「秋葉原が好きだから」と言ってアルバイトに志願してきた娘はまあるだけではないし、ある日とつぜんマネージャーの男と飛んで二度とかえってこなかった娘もまあるだけではない。だが、該当の記述は、はっきりまあるをおもいうかべて書いたのだった。
まあるのまんまるな瞳が柳下の顔を舐めた。
「……いや、やっぱりきみのことを書いた」
とかれは白状した。
「やっぱり」
と、まあるは言った。なにかしらの糾弾のことばがくると柳下はみがまえた。が、ちがった。
「あの、じつはわたし、小説を書いてるんです」
そのひとことで柳下は、まあるがかれに連絡をよこした理由を理解した。まあるの手があしもとのしかくい入れものにおさまった白いバッグへとのびた。
「きみはあたまがよかったからな」
というのは柳下にとっては、なんの気なしに言ったひとことだったが、これがてきめんにまあるの神経を刺激した。
「やっぱり、見せるのやめます」
まあるの眼からひかりがきえた。まあるは、柳下のなかにある女性蔑視の思想を読みといたのだった。
「ごめん、そういうつもりではなかったのだけど……」
柳下はじぶんが口をすべらせてしまったことに気づいた。そしてこれからどうとりつくろうともまったくの手遅れであることにも。
「くまさんに読んでもらおうとおもって原稿をもってきたんですけど、やっぱりやめます。もういいです」
「そんなこと言わないで、見せてくれよ」
「いえ。もう、ほんとうに、いいです」
こうなると一歩もひかない娘だ。まあるの小説はこれで柳下のまえから永久に闇にきえたのであった。
「でも、ひとつだけおしえてください」
と、まあるが言った。「本を出したら、しあわせになれますか」
柳下はちょっとかんがえた。
「それはしあわせの定義によるね。本を出して、それで、うれしいとおもえば、しあわせだろうね」
「経済的な話です」
「そういう意味では、まあるが見かけたおれの姿がこたえになっている。いまでもおれはまいにち二時間の清掃バイトをやめられずにいる。もちろん、爆発的にうれれば話はべつなのだろうけど、おれなんかではまったく……」
「そっか」
まあるはべつに幻滅しているふうでもなかった。「わたしの不幸を書いて、すこしでもしあわせがかえってくればいいとおもったんですけど。やっぱり、そうですよね」
不幸ということばを深掘りしてはならないと柳下はおもった。
「書くというのは、あるていどは不幸になる行為だよ。こっちにそのつもりがなくても、読むひとによってはうらみを買うこともある。きょうももしかすると、まあるに刺されるかもしれないとおもってここにきた」
刺される、という表現の強さに柳下はじぶんでおどろいた。
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