今日はノースロンドンダービーだ。外に出て、喧嘩中のカップルの寝室みたいに重く湿った空気を肌で感じながら数メートル歩いた時、ふと、左右で異なる靴を履いているような違和感を覚えた。足元に視線を向け、いつも履いているローファーであることを確認した。違和感は右足にあった。昨日までパズルのピースみたいに僕の足にぴたりとはまっていたそれは、一歩踏み出す度に右足から離れようとした。常に親指に力を込め、繋ぎ止める必要があった。天を見ると、厚い灰色の雲が空を覆っていた。
靴紐を結ぶのが苦手だった。頭で理解し、イメージした動きを手先で再現しようとした途端、靄がかかったみたいに一切が不明瞭となって、どうしても上手く結べないのだ。一応形として結べても、数十分もすれば解けてしまった。紐の靴を避け、スリッポンかローファーを履くようになった。ローファーは形が最初から完成されており、自らの足を靴にフィットさせるしかない。昨日までフィットしていた靴が、なぜ突然合わなくなったのかわからない。僕は違和感を携えたまま地下鉄の駅に潜った。
黄ばんだ光を放つ自動販売機は唇をぶるぶると震わせ低く唸っていた。改札口はスマホをかざされる度に、ぴり、と電子音を鳴らした。名前の無い音が飛び交う地下を歩いた。名前の知らない人々の靴が、地下の底に印を付けるみたいに音を響かせた。僕の靴のみが愛想笑いを発し、それが愛想笑いだと誰もが気づいていた。駅のホーム、四号車の位置で立ち止まった。
We hate Tottenham and we hate Tottenham! We are the Tottenham haters!!
隣からスマホの振動音が聞こえた。震源地は一メートル隣に立つ男の、スーツのジャケットの胸ポケットの中だった。皺も埃も無いブルーのスーツに身を包み、品の良いシルバーの腕時計を左手首に巻いていた。朝、ポールスミスの試着室からそのまま出て来たようだった。彼は風見鶏みたいに立っていた。
電車がホームに近づくにつれ、地下全体が揺れた。耳を澄まし、心電図を見守るように捉え続けたスマホの振動音も、数多の音の波に飲まれ、わからなくなった。訪れ、停止した電車に乗り込み、背負っていたバックパックを正面に回した。扉の外に目を向けると、男は未だそこに立ち続けていた。しゃっくりをしている外科医に手術されることへの絶望が表情から滲んでいた。唇をぶるぶると震わせ低く唸っているように見えた。絶望ではなく、怒りかもしれない。電車が動き出すと、離れゆく彼の足元にはサッカーボールが、左手には発煙筒が握られていた。発車する電車に煽られ、風見鶏は勢いよく回転し始めた。
電車は走行と停止を繰り返した。呼吸みたいに人々が降りたり乗ったりした。神谷町駅で僕は降りた。地上に出ると、至る所で工事が行われ、再開発が進められていた。駅の近くにあったツタヤが無くなっていた。かつてツタヤがあったと思われる場所を行ったり来たりした。左足の解けた靴紐を右足で踏んで体勢を崩し、歩道をごろごろと転げた。背負っていたバックパックが放り出され、中からパズルのピースが溢れ出した。名前の無い音が頭上で飛び交っていた。
靴紐を結べないからこんな目に遭うのだな、と思った。FCバルセロナ所属のサッカー選手のガビは、靴紐が結べないことで有名だったが、彼は素晴らしい才能の持ち主だった。僕はバルセロナではなく、イングランドのアーセナルFCを応援していた。今日はノース・ロンドン・ダービーだ。子供の頃、僕はサッカー部だった。よく靴紐が解け、転んで膝を擦り剥き赤い血を垂らし、笑われた。顧問の先生が僕にアーセナルのユニフォームをくれた。昨夜、彼女と喧嘩をした。喧嘩の理由も仲直りの仕方も理解していたが、上手く実行に移せないまま家を飛び出して来た。ローファーを履いたはずだった。左足がフィットしていなかった。
おろしたてのポールスミスのスーツが汚れ、膝の辺りの布が破け、赤い血が滲んでいた。ノースロンドン・イズ・レッド。からりとした空気を吸い込み、しゃっくりが身体のあちこちから漏れ出た。しゃっくりは止まらないが、外科医はやって来ない。全身が心臓になったみたいに鼓動を感じ、停止した心電図の音が煩かった。どうしても上手くいかない。まるで靄がかかったみたいに。胸ポケットの中でスマホが震えているのに気づいていた。雲ひとつない秋の青空を眺めた。広く、遠かった。そうだ、違和感は右足にあったんだ。僕は思い出した。全てが本当の世界で、その違和感だけが、本物のように思えた。
Hello! Hello!! We are the Arsenal′s boy! If you′re Tottenham fan surrender or die!! We all follow the Arsenal!!
スマホの画面をタップすると、大砲を放った後みたいな無言が向こう側から聞こえた。僕は彼女に「COYG」と言った。彼女は僕に「COYS」と言った。互いに笑い、通話は終了した。立ち上がり、一歩踏み出した時、右足の違和感は綺麗に消え去り、完璧に靴と足がフィットしていたが、僕はそれに気がつかないまま神谷町を歩き始めた。フライドチキンを食べ、それからペプシを飲もう。遠く離れたロンドンのエミレーツ・スタジアムの歓声を想像し、少しだけ早く歩いた。
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