まだ世界が音を失っていなかった頃、人々はただ音楽を聴いて踊るためにここに集まった。音楽家たちが殺されたあの場所は、もともと彼らが観衆から注目されて拍手喝采されるステージだった。弦は切られ、弓は折られ、管は潰され、鼓は破られ、電気は断たれた。静寂の中で彼らは声帯もろとも頭を吹き飛ばされた。
奴らは突然現れた。なんの前触れもなく、音もなく。口にあたる器官を有しない奴らは、人々の頭脳に直接語りかけた。より正確に言え、信号を送った。頭の中で鳴りやまない音に人々は恐れおののいた。《聞こえますか? あなたの頭に直接話しかけています》奴らはどこからか、その定型文をありとあらゆる言語に置換して人々の脳に送りこんだ。発狂して死に至る者が出始めると、世界は一気にパニックとなった。《怖がらないで。わたしたちに敵意はありません。あなたがたを救いに来たのです》異様な姿だった。頭部と言っていいのか、長い首がそのまま垂れ下がったような先に何本もの触角が突き出て動き回っている。身体と呼べる、その黄土色をした部分以外は銀色のカプセルのような物に覆われたまま宙に浮いていた。奴らの姿は全世界で確認され、動画や画像で共有された。銃やナイフで奴らを攻撃した者の頭部が破裂して肉塊と化す映像も同様だった。《この声に答えるように、頭で想像してください。聞こえますか? 聞こえたら、「はい」と念じてください》《はい》というテレパシーが各地から送られた。人々はテレパシーと引き換えに声を失っていった。
《塩取って》ヤナイは母の手元にあった小瓶に目をやった。「口で言いなさい、私はあいつらとは違うし、あなたも言葉が話せる」母は小瓶を手に取ってヤナイによこした。「だって、通じてるじゃん」ヤナイは眉間にしわを寄せて、グリーンサラダの上から塩を振りかけた。「この家ではテレパシーは禁止。お父さんに言われたでしょ」母はマントルピースの上、サックスを持ったスーツ姿のヤナイの父が写る写真立てに視線を向けて微笑んだ。「お父さんはいつ帰ってくるの?」「世界を旅して回っているから、あなたが大人になった頃かな……」《もう死んでるんでしょ?》ヤナイはそう念じそうになってやめた。しょっぱいレタスを口につめ込んだ。「ゆっくり食べなさい、よく噛んで」母は椅子から立ち上がり、陶器のポットを傾けてカモミールティーをカップに注いでからヤナイの前に差し出した。「冷えこんできたわね」母は椅子に掛けたショールを身にまとい、暖炉の火に薪を投げ入れた。
奴らが現れてからほどなくして厚い雲が世界を覆い始め、日が照る時間はなくなった。世界は光も失った。作物は枯れ、動物は死に、深刻な食糧危機がおとずれた。《わたしたちの肉を食べなさい》奴らは自身の触角をちぎり取り、人々に分け与えた。奴らの触角はすぐに再生した。人々は様々な調理方法で奴らの肉を食した。焼く、煮る、炒める、蒸す、すりおろす、生のまま踊り食い……だんだんと人々が慣れ始めたころ、奇病が流行った。大勢が死んだ。人類は半減した。奴らの血肉に順応した者だけが生き残り、人類の形態は奴らに近づいている。もはや、完全にヒトである者は存在しないだろう。
「母さん、食べなきゃだめじゃないか」ヤナイの言葉に母は光を失った白い瞳を開けたまま、毛髪がほとんど抜け落ちた頭を左右に振った。《あいつらの肉をすり込んだのが分かるのか……》ヤナイは茶色い油の浮かんだスープを木のさじで掬って彼女の口元に運んで無理やり飲ませた。すぐに咳きこんで毛布の上に飛び散った。「あーあーあー、大丈夫? すこしは食べないと良くならないよ」ヤナイは布巾で毛布の上を叩きながら母の曲がった背中に手をやって優しく撫でた。ヤナイは口笛を吹いた。それは彼が唯一、父に関する思い出として覚えているメロディーだった。母は静かに眠りにつく。彼女が寝静まったことを確認して、ヤナイはベッド脇から立ち上がった。《いつまであのメロディーを再現できるだろうか》ヤナイはそう考えながら、口元に生え始めた小さな触角にそっと触れた。
「ヤナイ、もっと口を尖らせるんだ」父はそう言って口髭の間からのぞく厚い唇を丸めた。息の漏れ出るだけのヤナイの”口笛”を笑いながら、父は大きくて固い手のひらで彼の柔らかな髪をくしゃくしゃにした。「すぐに上手になるわよ」乱れたヤナイの髪を整えて母は後ろから小さなヤナイの背中を抱きしめた。ステージ脇にいた彼らの視線の先で、父が背中を反って、サックスを力強く吹いていた。ピアノの鍵盤が跳ね、ドラムスのバスドラが震え、ウッドベースの弦が小気味よくはじかれる。とつぜん銃声が聞こえた。スウィングした音楽は悲鳴と喧騒にかき消され、奴らがステージに上がってきたところでヤナイの目の上を母のひんやりとした両手のひらが覆った。それから世界は暗闇と静寂に包まれる。
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