レプリカと時間

一希 零

小説

5,595文字

今年出した某賞落選作です。最近はサッカーのことしか考えていないので、書くすべての小説がサッカー関連になる、という現象がおきて困ってます。

状況が変化したのは、後半三十分を過ぎた時だった。スコアは一対二。コーナーキックから大貫のヘディングシュートで先制したものの、次第に主導権をアルビレックス新潟に握られ、得意のパスワークに翻弄されると、後半三分に同点、五分後にさらに一点決められ勝ち越しを許した。攻めたい徳島ヴォルティスだが、新潟にボールを持たれ、もどかしい時間が続いた。なんとか一点取るために指揮官が切ったカードは、フォワードの交代ではなく、ボランチの塚地だった。

今シーズン、新加入の若手選手にスタメンの座を奪われた塚地にとって、五試合ぶりの出場だった。彼はドリブルが上手いわけでも、足が速いわけでも、強靭なフィジカルを有するわけでもない。運動量は比較的多いが、スプリントを繰り返すというよりは、全体的に幅広く動き続け、常に適切なポジショニングをとる選手だ。彼は派手な選手ではなかった。「止めて、蹴る」能力の高さ。彼の特長はこれに尽きる。

相手にボールを握られ、奪っても素早いプレスにやられ、すぐに奪われてしまう。再び長い時間振り回される。その繰り返しだった。塚地が入ったことで、この現象が修正される。ボールを奪った後、塚地が最適なポジションをとり、パスを受ける。トラップし、斜めの位置にいる味方選手へ簡単に繋ぐ。パスをした後、今度はボールを受けた選手にとっての斜めの位置に現れ、再びパスを受ける。ツータッチ目でパスを出す。受ける。出す。ボールを保持する時間が増え、リズムが生まれる。

塚地から右サイドの室井へボールが渡る。室井はドリブルを縦に仕掛けるが、抜き切るまではいかない。中央で構えていたフォワードの大貫へパスをする。大貫はワンタッチでボールを落とし、再び室井が受け、今度はゴールへ向かって中へ切れ込むドリブルをする。室井の背後を、彼に取り憑く幽霊のように塚地が追走する。相手ディフェンダーの前で室井が左へ進行方向を変えた瞬間、塚地が斜め右へと走り、裏へ抜ける。反射的に室井は塚地へパスを送る。塚地がボールを止める。そして、蹴る。ゴール左隅へ、正確なシュートがネットを柔らかく揺らした。

塚地はコーナーフラッグ目掛けて駆け出し、両膝を芝生につけてスライディングした。チームメイトたちが彼に駆け寄ってきた。それから塚地は、僕らサポーターの方へ向き、右手を天に突き上げ、ぐるぐると、渦を描くように腕を回した。サポーターは力強く拍手し、フラッグを振った。タムドラムの打音がスタンドの底を震わした。

一連の光景を、僕は目に焼き付けていた。僕は自分の着ているブルーのレプリカシャツの、鳩尾の辺りにプリントされた「8」をぐっと掴んだ。鼓動が強く鳴っていた。この感動は僕が生み出したものではない。他人が生み出した興奮の複製に過ぎない。それでも、確かに僕を強く突き動かした。数カ月前、彼と偶然出会った日のことを思い出した。

 

 

僕はプロのサッカー選手になりたかった。そう願い、努力したつもりだった。今、僕はプロのサッカー選手ではない。長らくボールすら蹴っていない。

小学生の時、僕は誰よりもサッカーが上手かった。一度ドリブルを開始すれば、一人二人抜いて、さらにゴールキーパーすらドリブルで躱してゴールを決めた。徳島市内で僕のドリブルを止められる同年代はいなかった。いつしか「阿波のロナウジーニョ」と呼ばれ、ちょっとした有名選手となった。ロナウジーニョはサンバをこよなく愛し、ゴールを決めた後に踊り出す様子をテレビで見てからは、僕もゴールを決めた後に阿波踊りをゴールパフォーマンスとしてやるようになった。

中学に進学してもサッカー部に入った。中学一年生と三年生では、身体の大きさがまったく違う。小学生の同年代で無双した僕の技術は、上級生の無慈悲なタックルによって砕け散った。努力が必要だ、と痛感した。今は辛くとも、一生懸命練習すれば、いずれプロのサッカー選手になって報われる。日本代表、ワールドカップ、バロンドール。阿波のロナウジーニョから日本のロナウジーニョへ、否、僕は僕として名を、存在を世界に知らしめる。朝早く起き一人グラウンドでボールを蹴った。授業時間をすべて睡眠に充て、回復した身体で放課後の部活動に取り組んだ。居残り練習もした。夜遅くに帰宅し、シャワーを浴びて、冷えた夕飯を電子レンジで温め食べて、眠った。朝早く起きた。幾度となく繰り返した。

中学一年生の間は試合に出られなかったが、二年生になるとレギュラーになった。依然として僕のドリブルは誰にも止められなかった。相手の身体の動きを見て、重心の逆を突く。その一瞬に加速する。阿波のロナウジーニョは再び名を馳せたが、中学三年生で迎えたインターハイの県大会を準決勝で敗退し、僕の中学サッカーは幕を閉じた。

私立の高校のスポーツ推薦の誘いをもらい、進学を決めた。裕福ではない家にとって、推薦入学の金銭面での優遇は大きかった。勉強を一切してこなかったため、通常の受験でいける学校は限られた。迷う余地はなかった。その高校のサッカー部は県内でも有数の強豪校だった。僕は再び激しい競争の環境に身を置くことになった。

高校生になって最初の練習試合で、僕は三点決めた。久しぶりに阿波踊りのゴールパフォーマンスを披露した。練習試合とはいえ、ハットトリック達成に興奮していた。僕は力強く踊った。試合後、顧問の教師は僕を部員の前で怒鳴りつけた。唾を撒き散らし、顔を紅に染め、中身の入ったペットボトルで幾度も僕の頭部を叩いた。その日から僕は、公式戦はおろか、練習試合すら出してもらえなくなった。スポーツ推薦の優遇を取り消されるのを恐れ、グラウンドに取り憑いた幽霊のように三年間一日も部活をサボらず取り組んだ。高校を卒業すると同時にサッカーを辞めた。

僕は二十七歳になった。徳島市内の実家に居座り、アルバイトを転々としながら生きてきた。週末、徳島ヴォルティスの試合を観ることが唯一の趣味だった。ホームの試合は必ずポカリスエットスタジアムに足を運び、ゴール裏の席を陣取った。ツイッターで試合の感想を投稿したり、現地の写真をあげたりした。

小学生の頃、僕は同性異性問わず人気者だった。サッカーが上手かったからだ。中学生になると僕よりサッカーが下手でも、顔がいい奴の方が異性からは人気だった。高校生になると居場所を失い、自らの存在を消すことだけに気を遣った。高校を卒業してからは学歴や職歴、年収といった部分で常にコンプレックスを抱くようになった。ガールフレンドはおろか、まともな友人一人いなかった。僕にはサッカーしかなかった。試合に勝てば満たされ、負ければ苛立った。ツイッターを高頻度で更新し続けた。

 

 

生卵を丼の中央に落とし、箸で軽く攪拌してから豚バラ肉を絡め、口へ運ぶ。蓮華でスープを掬い、控えめな音を立て啜る。濃厚な醤油とんこつが口内を満たし、鼻からニンニクの香りが抜ける。今度は憚らず大きな音を立て、麺を啜り続ける。閉店後のラーメン屋、自分で作ったまかないを食べていた。丼を空にすると、店長がこちらにやってきて二枚のチケットを僕に渡した。大塚国際美術館の割引チケットだった。食券機の脇に「ご自由にどうぞ」と書かれたポップと共に置かれたチケットの束は有効期限間際を迎えていた。店長はなぜか得意気な顔で「おう」と言って笑った。僕は「うす。ありがとうございます」と言った。

三日後、僕は徳島駅からバスに乗り、鳴門へ向かった。僕には時間があった。興味も関心もなかったが、やりたいこともなかった。川を渡り、坂道を上り、発車と停車を繰り返し、やがて到着した。世界の国旗が立ち並ぶ奥に、山に埋もれた美術館があった。十二月の風を浴び、ジーパンのポケットに両手を突っ込んだ。名前の知らない小さな虫が僕の目の前をジグザクに横切った。

古代の壁画から現代絵画まで、百九十余を所蔵する陶板名画美術館。約二千年以上、そのままの色と姿で残るという陶板は、劣化を免れないオリジナルに対する記録保存として貢献する、という。館内は広大で、真面目にひとつずつ鑑賞していたら日が暮れる。歩みをあまり止めずに僕は館内を巡った。どこを歩き、どこを歩いていないのか、自分でも曖昧なまま最上階に辿り着き、エレベータに乗って地下三階へと降りた。到着から二時間が経過していた。

最初はわからなかった。偶然、彼が僕の方へ顔を向けた。再び彼が別の方角へ顔を戻した二秒後、彼が徳島ヴォルティスの塚地であることに僕は気がついた。少し悩んで、歩み寄った。「塚地選手、ですよね」と小声で話しかけると、振り向き、「よくわかったね」と言った。周囲のすべての音が消えたみたいに、彼の声だけが明瞭に聞こえた。

三十五歳の彼はチーム最年長選手だった。在籍六シーズン目を終え、最古参の選手でもあった。サポーターからは「塚爺」と呼ばれ、慕われていた。「ファンです」と僕は言うと、「俺の? ヴォルティスの?」と聞かれ、「両方です。徳島のブスケツはあなたです」と答えた。特別塚地のファンではなかったが、そう言うほかなかった。彼は美術館を見終え、帰るところだった。僕も同じだった。僕らはなんとなく、共に歩き出し、正面玄関へ通ずるひどく長いエスカレーターに乗った。沈黙が辺りを満たしていた。

外に出ると、幾つもの国旗が風に煽られ、上流を泳ぐ魚みたいに細やかに揺れていた。塚地は表情を変えず、正面を見据えたまま、左隣に立った僕に「ちょうど、渦が見られるタイミングなんだ。行く?」と言った。「うす。行きます」と僕は言った。

 

 

「大塚国際美術館、結構好きなんだ。オフの日に一人で来て、気ままに巡る」

渦の道へ行くのかと思ったが、千畳敷が目的地だったようだ。手頃なベンチを見つけ、僕らは腰を下ろした。

「少し、話をしてもいい?」彼は言った。「聞きたいです」と、僕は言った。

「サッカー好き?」

「昔やってました。今はサポーターとして」

「サッカー好きな奴の多くは、サッカーやっていた奴だ。その中の少なくない人間は、サッカー選手になりたいと一度夢見たことがある。違う?」

僕は何も言わなかった。

「俺はサッカー選手になることを目標にし、実際サッカー選手になった。俺は目標を失った。このままではまずいと思い、日本代表に選ばれることを次の目標にした。けれどそれは達成できなかった。二十代前半のうちは、毎日練習をしたり、試合をしたりして、上手くいったり、いかなかったりを繰り返し、その中で成長をしている実感があった。二十七歳頃、伸び幅が小さくなっていることを自覚した。三十を迎え、下降に突入したのを認めた。不可逆的に一方向へ、サッカー選手の死へと向かう時間に絶望した。大塚美術館で二千年変わらない陶板を見て、羨ましいと思った。劣化する本物なら、永遠の偽物の方がいい。本気でそう思った。俺はいつまでもサッカー選手でいたかった」

僕はサッカー選手になった自分の姿を想像しようと試み、失敗した。彼は話を続けた。

「若手の規範にならなければならないし、常に子供たちの夢でなければならない。他方で、己の夢を語る虚しさを感じ始めた。いつか、のために努力を続けても、いずれ、消えてしまう。将来を考えるのが難しくなっていった。だからやめた。その時、ようやく理解した」

ベンチに座った僕らの視界には、長く伸びる白い大鳴門橋と、橋の下の海面で発生と消滅を繰り返す渦潮とが映っていた。

「時間とは、過去から今、未来へ、といった一本道によく例えられる。橋のように。今ここから、未知のあちら側へ。俺もずっとそう捉えていた。三十を超えて、衰えを認め、しばらく経つと、どうやらそれだけでもないことに気がついた。確かに二十代前半の頃のようにはいかないことが増えたが、二十代の時には見えなかったことが見え、考えられなかったことを考えられるようになった。その部分において、またひとつ、成長が開始していた。時間とは一直線ではなく、渦のようなものだと理解した」

僕らの視線の先には未だ、橋と渦があった。橋は数分前と何ひとつ変わらない。渦はきっと、数分前からいくらか変わっているに違いない。

「大塚美術館の楽しみ方も変わった。前は不変への憧れとして、今はレプリカの魅力に惹かれる。サッカー選手のユニフォームって、本物にはあまり意味が無いんだ。ビブスと然程変わらない。けれど、サポーターが買うレプリカは違う。レプリカこそ、その人にとってたった一枚の大切な本物になる」

周囲から羨望の眼差しを向けられた、子供の頃の自分を思い出した。僕のドリブルは僕にしかできなかった。僕の自信で、誇りだった。みんな僕のドリブルに憧れていると信じて疑わなかった。試合に出られなかった高校時代、あるチームメイトは「お前のドリブルの凄いところは、完璧にロナウジーニョを再現していることだ」と言った。当時の僕にとって、その言葉は不快だった。間接的に、お前は凄くない、と言われたように感じたからだ。彼はそれに気づいたのか、続けて言った。「そんなことができるのは、お前だけだ」。

塚地はゆっくりと腰をあげた。何も言わずに踵を返し、僕に背を向けた。聞きたいことが本当は色々あった。なぜこんな話をしたのか。なぜ僕だったのか。すべて飲み込んだ。彼の背中が遠ざかろうと動く直前に、僕はひとつだけ言葉をぶつけた。

「来シーズン、塚地さんのレプリカ買います。応援してますから」

遠くから、ホイッスルの音が聞こえた気がした。過去の記憶の音かもしれないし、未来からやってきたのかもしれない。何かが始まり、終わった。渦に飲み込まれ、沈み、海面には一瞬凪が訪れる。気づけば別の渦に、僕は身を投じている。

2022年10月9日公開

© 2022 一希 零

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"レプリカと時間"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る