柚葉が小学校を卒業する三日まえに母親が自殺した。母親は死ぬ半年ほどまえに統合失調症と診断されており、四六時中、宙にむかってなにごとかをぶつぶつとつぶやいていた。そして、その病気のために会社を休職しているのを気に病んでいた。家のきんじょの山で首を吊って死んだ。遺書はなかったが、まいにち日記をつけていて、それが遺書と言えば言えないこともなかった。働かなければ。かのじょはまいにちそう書いていた。
柚葉は母親の伯父夫婦の家にひきとられた。三十代なかばの夫婦で、叔父は不動産を経営していた。柚葉はとつぜんに裕福になった。中学にあがってさいしょの中間テストで学年一位をとった。二学期の期末テストでは、中くらいの成績におちついた。夫婦はやさしく接してくれたが柚葉は夫婦とのあいだにかべをつくった。
柚葉は部活にはいらず、家にかえってきてからねむりにつくまでのほとんどのじかんを読書にあてた。はじめはマンガが好きだったのだが、いつしか子どもっぽくかんじるようになった。はやりの作家から、明治の文豪まで、さまざまな作家が書いた小説を市民図書館で借りてきては、一日か二日で読みおえた。二年生になると、谷崎潤一郎にめぐりあった。谷崎の書く小説の主人公は、よく母親を愛した。すぐに会える母親であったり、すぐに会えない母親であったり、生きている母親であったり、生きていない母親であったりしたが、主人公たちは母親を愛していた。柚葉はそんな主人公たちのすがたに胸をしめつけられた。
やがて柚葉も小説を書きはじめた。学校帰りに個人経営の本屋に寄って原稿用紙をたくさん買い込んだ。柚葉はお母さんのことを書きたかったが、けっきょく、かのじょがお母さんのことを小説に書くには、それから十五年の月日がひつようだった。
二十七歳になった柚葉はすでに結婚して五年が経過していた。子どもはなかった。柚葉はコープで事務のパートをしていた。夫は大企業につとめていて、まいにちいそがしくしていた。夫は柚葉にあまりきょうみがなかった。柚葉も夫にあまりきょうみがなかった。
柚葉はある朝目覚めて、また小説を書いてみたいと思った。その夜、二十三時すぎになって帰宅してきた夫を玄関先でつかまえて、やりたいことができたからパートをやめてもいいかときいた。夫は、いいよ、と言った。
けっきょく柚葉はパートをやめなかった。しごとに行って、マンションに帰ってきてから自室で小説を書いた。小説を書くことは紙の上にお母さんを現出させるということで、そんなことに一日中つきあっていたのでは、気が変になると思った。気が変になる、という柚葉のイメージには、死ぬまえの母親のすがたがあった。働かなければ、そう日記に書きつけていたお母さん。いつも見えないだれかにむかってなにかぶつぶつ言っていたお母さん。パートをやめて、働きにでなくなると、じぶんもそんなふうになってしまうのではないかと、こわかった。
パートから帰ってくると柚葉は、そうそうに掃除や洗濯をすませて、大学生時代からつかっているノートパソコンにむかった。そうして、あのときお母さんがぶつぶつとつぶやいていたその一言一句をたぐりよせた。それはたいへんな痛みをともなう行為だった。柚葉はまいにちあのころにひきもどされた。柚葉はお母さんがこわくて、よく家を飛び出した。仲良くしていた男の子の家に逃げ込んで、それがためにクラスのみんなから変なうわさをながされた。お母さんのうわさと、男の子とのうわさをながされた。ある日、男の子から絶交を言いわたされた。柚葉はかなしかったが、しかたがないとも思った。
柚葉は男の子のことを思い出した。そんな人がいたことをすっかりわすれていた。ハンサムで、やさしくて、頭も良くて、とてもシャイな男の子だった。高校に入って、携帯電話をもつようになると、ある日、その男の子からメールがきた。中学校三年間のあいだ、いちども口をきいたことがなく、高校もちがった。メールの本文には、友だちからきみのアドレスを聞いた、と書いてあった。すまないことをした、謝りたい、とあった。柚葉は返事を返さなかった。その男の子のことはまだ好きで、仲直りができることならしたいと思っていた。あした返事をしよう。そう思っているうちに高校を卒業した。成人式で彼を見かけたが、なにやらやけに俗っぽい風貌になっていたので、声をかけるのをためらった。それっきり、男の子のことは記憶から消しさっていた。
柚葉はまず男の子のことを書くことから小説をはじめた。小説の構成はかんがえなかった。最終的にお母さんにたどりつけばよいと思った。しかしその小説は男の子とのことで終始した。あのとき男の子の謝罪をうけいれていたら、という仮定にもとづいて書いた。ひと月ほどで、メロドラマがしあがった。傑作でもなんでもないが、柚葉はこれで男の子とのことがすっかり解消できたと、ひとまず満足した。
つぎに柚葉が小説に書いたのは、かのじょをひきとった叔父夫婦のことだった。書きながら柚葉は、じぶんがこのふたりのことをうらんでいることを知った。車ですぐの距離のところにすんでいながら、お母さんのことを見て見ぬふりをしていたことを、どうあってもゆるしがたく思っているのであった。この小説には、しかし、母親が不在だった。すでに母親が死んでしまったところから物語がはじまり、主人公と叔父夫婦の関係に死んだ母親ののろいが色濃い影を落としているのは行間から読み解けるが、いないことを書くことでそのそんざいの大きさを表現したところで、お母さんを描いた、ということにはならなかった。柚葉はこの小説の最後を主人公の女の子が「おかあさあん」とつぶやいて涙をながすところでしめた。あんまり浪花節がすぎるとかんじて、柚葉はその小説の出来に納得できなかった。
柚葉はカルチャースクールの小説講座にかようことにした。そのことを夫に言うと、いいんじゃないか、と言った。じぶんさがしかな、と嫌味も言ったが、柚葉は意に介さなかった。
授業は毎週土曜の午後二時からで、全六回だった。純文学の賞をとってデビューしたのに、バタバタと人が死ぬミステリー小説ばかりを書いている作家が講師をしていた。柚葉はその講師のことを知らなかった。だが、本屋でひらづみになっている単行本のなかに、その講師のなまえをみかけたことがある気がした。
生徒は、十名ほどだった。柚葉はじぶんが最年少なのではないかと思っていたが、新卒三年目だという男の子もいた。授業中、男の子がちらちらと柚葉のことを見てきた。柚葉は男の子からじぶんへの好意を感じていたし、かわいらしい顔をしているとも思ったが、かれの書くものが好きになれなかった。根っこのところで、この男は差別主義者なのだと柚葉は億断した。
講師は柚葉の書くものをしきりにほめた。書くべきことが書いてあって、書かなくて良いことは書いていない。そんなふうにほめるのであったが、柚葉からすれば書くべきことなどなにひとつ書けていないのであった。
ある日、パートおわりにスマートフォンを見ると、講師から食事のさそいのメールがきていた。柚葉は、夫の食事の準備をしてからなら良い、とメッセージをかえした。それから二時間ほどして、柚葉のすむマンションのまえに講師が運転する黒い車がとまった。柚葉が車に乗りこむと、この車の車種はわかりますよね、ときかれた。しらないとこたえると講師は、アウディですよ、とすこし不服そうに言った。小説を書くのならこういうことにもきょうみをもっておいた方が良いですよ、とも。
柚葉がつれていかれたのは、ちいさな丘の上にあるフランス料理店だった。コース料理が出た。講師は、なにが出たか記憶しておくと良いですよ、と言った。写真には撮らずに、あたまでおぼえておくのです、やがて記憶はことばに濾されて、表現になります。もちろん、柚葉はその日なにを食べたかを記憶しなかった。
柚葉はホテルにつれていかれた。そしてたんぱくに抱かれた。講師の精液をおなかにうけてことはすんだ。抵抗しないのですね。すべてがおわってから、いかにもつまらなそうに講師がつぶやいた。つぎの授業以降、講師はあまり柚葉の小説をほめなくなった。
柚葉はその全六回の講座で、百枚の中編小説をしあげた。母親のことを書くつもりだったが、けっきょく、夫とのことを書いた。つきあいはじめの、うまくいっていたころのことを中心に、うまくいかなくなって、それでも惰性で結婚生活をつづけていくしかないという、ぬるま湯じみたなげきでしめた。講座終了後、一週間ほどして、添削された原稿が家にとどいた。「永遠に続くかに見える結婚生活のその先を書かないと、小説ではないのではないでしょうか?」とコメントがあった。
その小説は、地方文学賞の特別賞をうけた。大賞は該当作なしとのことで、授賞式で登壇したのは柚葉だけだった。あまりうまくは書けませんでした、じつはほんとうに書きたいことがあるのですが、そのことは書けず、でもこんかい書けなかったのは、技術的に未熟なのはもちろんのこと、まだそのときではなかった、ということなのだと思います、そのときがくるまで、書くことをとめず、そのときがきたら、それに適した力で小説にしあげたいです。そんなふうに柚葉は、じぶんにだけわかることばで、スピーチをした。
このとき、柚葉はあたまがまわっていなかった。すっかり小説にとり憑かれて、前日もその前日も深夜まで執筆にあてていたのだ。どれだけ書いてもお母さんにたどりつかないことに無間地獄をかんじ、あせっていた。このときも、授賞式なんぞそうそうにきりあげて、自室にこもりたかった。
柚葉に小説の投稿をすすめたのは夫だった。どうせ書いたのだから、どこかに出してみればいい、と言った。せっかく、ではなく、どうせ、ということばをつかったところに夫の性格がでていた。柚葉は小説家になりたいわけではなかった。「文学新人賞」と検索して、締め切りがつぎの週だったことから、地元の地方新人賞に出した。夫は、接待ゴルフがあると言って、授賞式にはこなかった。
授賞式には、カルチャースクールでいっしょだった、授業中に柚葉をちらちらとみてきた男も参加していた。主催している新聞社につとめていると言って、柚葉にちかづいてきた。記者の方だったのですか、と柚葉が問うと、文化欄を担当している、とほこらしげにこたえた。そのながれで電話番号の書かれた名刺をわたされた。帰ってすぐにすてた。
授賞式会場では、男以外からも何人かから名刺をもらった。選考委員をしていた、柚葉よりひとまわり以上年が上の女性作家は、いまちょうど名刺をきらしている、と言ってスマートフォンをとりだした。その場でメッセージアプリのQRコードをよみとった。死にたくなったら連絡して。そう言って、女性の作家は去っていった。
はたしてその一か月後に柚葉は死にたくなった。まよなかの執筆中、とつぜんにお母さんのところにいきたくなったのだ。女性の作家のことを思い出したのは、じぶんの手首にカッターナイフのきっ先をあてたしゅんかんだった。メッセージアプリの音声通話機能というところをタップすると、二回の発信音で、女性作家がでた。なさけないことに、良い歳をしてリストカットをするところでした。そう柚葉がきりだすと、それはあなたのクセなの、と冷静な声で問われた。中高生のときはクセでした。そう言って柚葉は生まれてはじめてリストカットをしたときにひきもどされた。中学一年生の夏だ。
どこでまなんだのか、手くびを切ったくらいでは死なない、という知識がはじめてリストカットにおよぶまえにはすでにあった。だから、死への渇望よりはきょうみ本位で柚葉はカッターナイフを手にとった。切ったしゅんかん、熱い、とかんじた。
ぞうきんをしぼったように、自室の床に血がたれた。その後水滴になっていつまでもとまらなかった。おもったとおり死ななかったので、このくらいならたまにやってみてもいいとおもった。
柚葉はきずをかくすことをしなかったので、すぐに学校でしろい目で見られた。もとから友だちはいなかったが、あきらかにさけられているのを肌でかんじた。ある日、担任の男性教師から空き教室に呼ばれた。手くびのそれ、どうしたんだ。趣味です、と柚葉はこたえた。親御さんも心配されてるぞ、と男性教師は言った。柚葉は、なぜおじさんとおばさんはわたしに直接そのことをきかないのでしょう、と問うた。教師はことばにつまった。とにかく、なにかなやみがあるのなら、先生に言いなさい。なやみなんてありません、ただの趣味です。
クセというより趣味でした。げんざいの柚葉はスマートフォンにむかってそう言った。それがおとなへのはぐらかしかただったのね、と女性作家は言った。体温のない声だった。はい、と柚葉は言った。ほんとうの趣味は、読書でした。小説を書きはじめたのはいつだったの、と女性作家が問うた。中学二年生の春やすみでした。ずいぶんむかしから書いていたのね。大学にはいってしばらくすると書かなくなりました。それはなぜ。恋人ができたからです。
柚葉のさいしょの恋人はあたまの良い人だった。いっそ狡猾だった。骨と皮くらいに痩せていて、眼光するどく、いかにもちかづきがたいふんいきをかもしだしていたが、ほんとうはとてもこころやさしく、そのことに気づいているのは柚葉だけだった。そう柚葉は思っていた。そう思っている女が柚葉の他に三人いた。四人はおたがいにじぶんだけを愛してくれていると盲信していた。さいしょの恋人は柚葉のためらいきずにふれて、きれいなピンクだ、と言った。柚葉にはそれだけでじゅうぶんにかんじられた。
恋をしたらなにも書けなくなるの、と女性作家は柚葉にきいた。きょうみが小説から恋愛にうつったんだと思います。失恋したときは。失恋したときはつぎの恋にうつりました。そのあとは。つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、恋にあきたので結婚しました。で、いま小説にもどってきたのね。そうです。小説があなたの帰るばしょなのかな。わたしの帰るばしょはお母さんだと思っています、と口にだして柚葉はじぶんに虚をつかれた。すこしして、なみだがあふれてきた。口をひらくと嗚咽がもれそうだったので、スマートフォンからかおをはなした。リストカットの衝動にかられて、よなかに電話をかけて、いまさらなにを恥じることがあるかと思ったが、こればかりは他人に見せたくないすがただった。女性作家はなにも言わなかった。しばらくして柚葉は、あなたの小説をよみました、とスマートフォンにむかって言った。そう、ありがとう。恋をして、失恋して、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつって、つぎの恋にうつる女の人が主人公の小説でした。そうね、それだけの小説ばかりを書いている。その主人公は帰るばしょが見つからないようでした。そうね。賞でわたしの小説を推してくれたのがあなただけだったと知って、なにかわかった気がしました。それからすこし会話がつづいて、女性作家との通話をおえた。
ある日、柚葉はパート先にかかってきた電話にでた。つい三十分まえに母が亡くなったので配達をとめてほしいと、酒やけをおもわせる女性の声で言われた。退会の手順を説明しながら柚葉は、母が死んだ三十分後にコープに電話をいれる女性を奇異に感じた。電話をきって、その女性の母親のデータをかくにんした。母親の足がよわってきている、と書かれている。その家族のことはなにもわからなかった。コープとのあいだにこれといったトラブルもなさそうだった。
夕方になってドライバーたちが配達からかえってきた。柚葉はかれらがさしだしてくる配達記録が書かれた紙にはんこをおしていった。わかい男の子のドライバーが柚葉のかおをのぞき込んで、小説をよみました、と小声でいった。それから、もしさみしいのなら……、と下卑た表情でつづけた。柚葉は、うしろがつまっているからはやくいって、と言って追いはらった。
まよなか、小説を書いていたらインターホンがなった。モニターをのぞくとわかい男の子のドライバーだった。柚葉は身の危険をかんじた。どうじに、これが小説家になるということかと、すこしだけ感心した。夫がおきてきて警察をよんだ。男の子は包丁をもっていて、やってきたわかい警官が刺された。もうひとりの警官と夫が男の子をおさえつけて、なんとかその場はおさまった。あとできいたところによると、男の子は統合失調症をわずらっていたとのことだった。
ひさしぶりに柚葉は夫に男をかんじた。つぎの日の晩、柚葉と夫は抱きあった。柚葉は妊娠した。日ましにおなかがおおきくなっていくのがわかった。柚葉はじぶんが母親になるという自覚をいっこうに得ることができなかった。夫はうわきをしているらしかった。そのことにきょうみはなかった。
ある日、女性作家から連絡がはいった。朗読会のおさそいだった。会場は、地方文学賞の授賞式があった市民ホールだった。じぶんの小説を朗読するの、あなたもなにか朗読しなさい、と言われた。開催日までちょうど一か月あった。柚葉は新作を書いてそれを朗読することにした。
ときおり、おなかのこどもがからだのうちがわから柚葉をけった。柚葉はじぶんのなかにもうひとりにんげんがいる、ということに恐怖をおぼえた。じぶんがのっとられると思った。死ぬことに恐怖はなかった。ただ、なにかとんでもないものを宿してしまったとひどく後悔した。じぶんを紙の上にうつさないと。そんな使命感から柚葉はしきりにキーボードをたたいた。
そうやって柚葉はお母さんのことを小説に書いた。身がけずれる、という感覚がよくわかった。柚葉はじぶんがお母さんのことを死ぬほど憎んでいることを知った。死ぬほど愛していることを知った。そして、やはり、お母さんこそが柚葉の帰るばしょなのだった。
朗読会の日がきた。女性作家は柚葉のおなかをみて、おめでとう、と言った。これで寿命がのびたわね、となぞかけじみたことも言った。何人かの朗読がおわって、柚葉の番がきた。小説ができたのはとうじつの朝で、朗読の練習をするじかんなどなかった。柚葉は書いた小説のさいごのところを朗読した。じぶんの書いた文章を目で追い、つっかえつっかえ声に出して、それをじぶんでききながら柚葉は、じぶんの書いた文章が起き上がって対立してくるのをかんじた。読みおわり、拍手をうけながら、ふかい徒労をかんじた。やっぱりだめだった、と思った。
かえりしなに会場の入口で女性作家に呼びとめられた。よかったわよ、と言われた。柚葉はお礼を言って、でも、ぜんぜんへたでした、小説も、朗読も、と言った。そのことに女性作家はなにも言わなかった。かならずこどもを生みなさいと強く言った。それから柚葉のまえに右の手のひらをひろげて、きょう朗読した原稿を見せて、と言った。柚葉はカバンから小説が印刷されたコピー用紙をとりだした。女性作家はそれをうけとり、その場でこまかくひきさいた。柚葉はあっけにとられた。女性作家は柚葉の目をじっと見つめてつぎのように言った。あなたはまずこの小説をあきらめなさい、あなたのお母さんをあきらめなさい、そして小説家になりなさい。
小学校の卒業式を三日まえにひかえた柚葉はふとんのなかで目覚めた。柚葉をかこむ空間にほかの人のけはいはなかった。柚葉が寝しずまってからお母さんがどこかに出かけることは、これまでになんどもあった。お母さんは、夜のまちを徘徊して、じぶんにかたりかけてくる悪魔をふりはらおうとしているのだった。そこには、あしたこそは、というある種のまえむきさがあった。夜をぬけて黄金の朝をくぐるのだという祈りがあった。ふとんのなかで柚葉は、きょうはなにかがちがう、と思った。お母さんが死んだのだ、と確信した。とたん、なみだがあふれでた。柚葉はここにいないお母さんの記憶をたぐり寄せた。いろんなお母さんを抱きしめた。わたしはお母さんをわすれない。そしていつかもう一度お母さんと再会するのだ、と思った。柚葉はまだこどもで、まだその方法を知らなかった。
"柚葉抄"へのコメント 0件