Kick me again

合評会2022年01月応募作品

波野發作

小説

5,569文字

本作品には、企業におけるパワーハラスメントの横行を助長、または推奨、あるいは容認する意図はありません。破滅派合評「切れてない蛍光灯」参加作品。

K子センパイが退職すると聞いて、心がざわめいた。

あの人はもうすでにボクの教育係というわけではないし、だいぶ前からチームも違うし、春からは部署も違ったから、ほとんど接点はなかったのだけど、何も聞かされていなかったことがなによりショックだった。同じオフィスビルにいればそれなりにすれ違ったり顔を合わせるチャンスはあると思うのだけど、会社がリモートワークになってからはそういうこともなく、ただ定期的に届く会社のMLで流れてくる入社あるいは退社の情報だけがボクたちの接点だった。完全にオンラインで事が済むボクの業務では、この1年まったく出社の必要はなく、リモートワーク主体に移行してから本社オフィスも4フロアが1フロアに圧縮されて、出社すべき場所自体がすでに失われていたのだから、それも仕方がないことだ。

今の部署にはK子センパイと接点のある人間がいない。K子センパイの動向を知るにはまず部署外の人間にコンタクトを取らなければならないのだが、ボクにはまずそのハードルが高い。入社して5年、最初の3年間はほとんどK子センパイとしか行動を共にしていなかったから、同期の同僚との関係性が築けていない。K子センパイとボクとの共通の知人は何人か代替わりした上司だけだったが、5人とも退社するか、鬼籍に入っていた。だからK子センパイとボクの関係を知るのは、人事担当のM井さんか、その上司だが、確か人事課長は代わっているから直接的にはなにも知らないはずだ。過去の記録をいちいちほじくり返すこともないだろうから、M井さんが覚えていることと、ボクが忘れないことと、K子センパイが忘れたいことだけが、ボクとK子センパイのあの3年間の残滓なのだろう。

今の感じだとたぶん送別会などはないし、同じ部署でないから退職日の花束贈呈やら記念品贈呈やら記念撮影などもない。彼女はただひとり、自宅で名刺を廃棄し、貸与PCを初期化して梱包して人事に送るだけの記念日になるだろう。中途入社のK子センパイには同期らしい同期もいないし、最後の部下であるボクですら隔たりがあるし、今いる部署には部下らしい部下も、上司らしい上司もいないのだから、彼女の退職に関するイベントはほぼないと想定できた。可能性があるとすれば、入館証の返却は郵送ではできないので、最終日のみ出社するということだが、これも緊急事態宣言の発令タイミング次第であるといえた。ここまではすべてボクの想像でしかない。

K子センパイの自宅が変わっていなければ、そこまで行って会うことはできるし、そこで罵倒を受けるなりツバを吐かれるなり、殴られるなり蹴られるなりされることもできなくはないのだろうが、リモートワークに移行して通勤しなくなってもなお都内に住んでいる可能性は低いと思われた。その場合は千葉のご実家まで行かなければならないが、ご実家の具体的な場所までは存じていなかった。真冬、深夜、窓から洗面器いっぱいの冷水を浴びてそれから何時間も立っていたあの夜が懐かしく思えた。意識が薄れて立っているのか倒れているのかわからなくなってもう限界かと思ったときに泣きそうな顔で迎えに降りてきたK子センパイが脳裏に浮かぶ。あんたバカなの? と声を潜めながら金切り声を上げてボクを部屋まで引っ張っていき、凍りかけるほどに冷えてずぶ濡れのスーツとワイシャツとアンダーシャツをはぎとり、下着は履かせたまま湯船に座らせてそこそこ熱いシャワーを頭からかけてきたのを思い出すたびに、ボクの股間はほのかにあたたまる。K子センパイとボクとの3年間は、かけがいのないものなのだ。

ボクとK子センパイの上司と部下を超えた関係に最初に気づいたのは、そのときボクらのチームのリーダーだったS馬さんだ。入社したてのボクの教育係にK子センパイを指名したのは、当時課長だったY沢さんだったが、半年後ぐらいに実家の農業を継ぐと言って会社を去った。後を着いだY崎課長は、組織変更の荒波に揉まれてもっと稼いでいる部署のトップに栄転していた。次に現れたのは定年直前のT森さんだったが、とくに何をするでもなく、何をしないでもなく、存在感もないまま、花束を抱えて去った。代わりに着たのはG田さんで、彼は今でもボクの上司ではあるが、同時にS馬さんがチームリーダーとして配属された。S馬さんが来たときに3つのチームが合併され、K子センパイはチームリーダー的な地位を失った。ボクとK子センパイだけの小さなチームはS馬さんの大きなチームの一部になり、ボクはK子センパイ以外の人間とも関わるようになったが、K子センパイはボクだけを選んで仕事を割り振っていた。仕切りたいS馬さんと、仕切られたくないK子センパイの軋轢は日に日にμを増していき、S馬さんに媚を売りたいC谷、つまりボクと同期のC谷の、悪意ある密告あるいは親切心からの上申で、ボクとK子センパイの深い関係をS馬が知るところとなり、ボクの黙秘を自分に都合のいいように解釈したS馬さんは、K子センパイの排除にあろうとことかボクを利用した。結果、ボクとK子センパイの蜜月は終わり、彼女はチームを去り、次の異動では別の営業的な部署に配属された。T森さんの訃報やら、リモートワークへの移行やらなんやらが重なっているうちに、K子センパイはどんどん遠くへ行き、ボクも元いた場所からどんどん遠ざかり、今となっては二人の距離を測るすべもない。S馬さんはS馬さんでリモートワークの空虚さに耐えかねて昨年業界を去った。

その後を継いだF藤さんは有能な上司で、チームの運用も丁寧だし、ハラスメント的な行動は一切ない。普通に考えれば、こんなにいい職場もそうそうないのだろうが、K子センパイとの3年間のような、あの燃え盛るようなヒリついた緊張感が恋しくて仕方がないのも事実だった。F藤さんではボクを満足させられないのだろうと思う。5年でボクも成長したし、リモートワークやICTで業務効率はアップ、結果としてライフワークバランスは理想的な状態に落ち着いていた。残業もほとんどなく、持て余す余暇では映画や小説の消費(あるいはゲームとマンガの浪費)は大いに捗った。一方で鈍っていく自分の感性と、そろそろアラサーと呼ばれる年代に差し掛かっての肉体のほのかな衰えが、ボクに焦燥感を押し付けてくる。このままでは心が死ぬ。そう考えていた矢先の、K子センパイの退職の噂だったのだ。

 

まず、メールを送ってみようかと考えたが、すでにメールアドレスが削除処分となっていた場合、おそらくシステム管理者のところに届いてしまう。そうなると第三者にボクからK子センパイにコンタクトを取ろうとしていることが知れてしまう。これは避けたい。かといってプライベートなメールアドレスは知らない。SNSでの接点がないこともないが、なにかアクションをして通知が画面に表示されて、それが例えば彼氏、あるいはご主人(それらの存在の有無に関する情報はない)の目に触れて、K子センパイに不利益がある可能性も否定できない。これはスマートフォンに電話をしたり、ショートメッセージを送っても同じことだ。通信機器によるアプローチはリスキーだ。そうなるとどうしてもフィジカルなアタックに手段が限定されてしまう。直接様子を見に行けば、実際に彼女がどういう状況にあるかもわかるし、直接弁明もできる。やはり、会いにいくというのはよいことなのだ。

なにか口実はないか。ふと本棚に目をやると、ジョジョの奇妙な冒険が乱雑に積まれているのが見えた。いそいで、巻ごとに並べなおす。つい読みふけってやたらと時間がかかったが、結果として第7部スティール・ボール・ランの17巻〜20巻の4冊が抜けていることがわかった。これはK子センパイに貸したものだ。借りパクされているので、その返却を求めるというのは面会の要求理由としては十分なように思えた。が、いわくつきで疎遠になっている男女が改めて接点を求めるには少し妥当性を欠く気もした。数十万単位の金の貸し借りでもあればまだしも、漫画数冊ではコスパが悪い。下心ありと見抜かれることこの上なかった。しかし、他になにか口実を思いつくこともなかったので、2000円分程度の漫画を回収するために片道1500円ほどの交通費を使ってわざわざ女性の自宅まで出向くという異常行動を取ることになったわけだ。

県境を超えて2年ぶりにK子センパイの最寄り駅までアポ無しでやってきた。休日、深夜を問わず呼びつけられて、罵倒され、殴られ、説教され、最後に謝罪された日々がまるで昨日のことのように思い出される。左足が震えるが、右足はどんどんと先へ進みたがった。真ん中の脚は間違いなく高揚していたが、白昼堂々それはまずいのでできるだけ目立たないように上着とサコッシュで隠して進んだ。

最後の曲がり角からそっとのぞき込む。あまり時間をかけると不審者として通報されること請け合いなので、可能な限り短い時間で、K子センパイの自宅ベランダを視認する。物干しには何もかかっていなかった。カーテンはある。夜来れば、在不在がわかりやすかったのにと一瞬この時間帯にやってきたことを悔いた。しかし、日暮れ後の訪問はさすがにまずかろうという判断もあったので、それは間違いでもないだろう。白紙のメモを見て、近隣住民へ家を探しているフリをアピールしながら、さらなる接近を試みる。階下のポストをちらりとのぞくが、とくに郵便やDMなどは溜まっていなかった。少なくとも誰か在室はしている。今どき表札は出てないからU藤K子がここに住んでいるかどうかまでは、この時点では判断できない。なるべく足音を立てないように階段を上がる。この階段の上で蹴り飛ばされて半分ぐらい落ちたことも、今となってはいい思い出だ。K子センパイの部屋の前で正座したのを思い出す。あの時は隣室の老女が警察に通報して面倒なことになった。死ねばいいのにと思っていたが、今は空室のようなので、本当に死んだのかもしれない。ご冥福をお祈りしたい。K子センパイの部屋はキッチン脇の小窓から少し中が見える。なんとなく気配があるから、誰かいるようだ。それがK子センパイなのかどうかは、わからない。目の前にある、呼び鈴のボタン1つですべての事象は確定して、ボクとK子センパイのエンタングルメントは収束するのだ。だから押す。

一瞬気配が途切れて、返事をする声がした。女の声だ。

「あの、わたくしペンネジャパンのRと申しますが、こちらはU藤さんのお宅でよろしかったでしょうか」

鋼鉄のドアの向こうで素っ頓狂な声がした。

「Rくん? どうしたどうした?」

ああ、いつもの、あのK子センパイだ。2年経っても変わっていない。どうしたを繰り替えして、ボクを追い詰めてくるあのK子節だ。下腹部の高揚を抑えられない。チェーンを乱暴にガチャガチャと鳴らして、バチンとロックを外して、ボクらを隔てている玄関ドアが開放された。前に来ていたときのような、化粧っ気のないジャージ姿のK子センパイを想像していたのだが、そこに現れたのは今からちょっと銀座あたりにお買い物に行くかのような少し盛って着飾ったセンパイだった。

「来るなら連絡ぐらいしてよね。これから出かけちゃうとこだったんだから」マスクをつけながら言う。

「すみません。いろいろ考えているうちにここまで着いちゃった感じで。いなかったら諦めようと思っていたので」

「そっか」

「あの、会社辞めるって本当ですか?」

「辞めるっていうか、もう辞めちゃったよ先週で」

そうなんですか、とボクは俯いて、彼女の顔を見れなくなった。

「やっぱりボクのせいですよね」ボクのせいで彼女はパワハラで処分されて閑職に飛ばされたのだから、恨まれて当然なのだ。何発か殴られることを覚悟してここまで来たのだ。いや、まずは胸ぐらから掴んでほしい。掴みやすいようにネクタイもしてきたのだ。さあ。

「待って待って。全然そんなことないよ」

「違うんですか?」

「当たり前じゃん。Rくんにはむしろわたしが悪いことしちゃったんだし。……仕返しに来たとかじゃないよね?」

冗談めかしているが、結構本気で警戒しているのかもしれない。

「まさか、そんなことありえないです」

「ならいいけど」

ようやく、笑顔を見せるが、このK子センパイにさほどの魅力はなかった。

「そうだ。漫画借りてたのどうしようかと思ってたんだけど、今渡していい?」

「あ、はい。そういえばそうでしたね」

「来週引っ越すから、いいタイミングだったよ」

「どこに行くんですか?」

K子センパイは、内緒、って言って貸していたジョジョをヨックモックの紙バッグに入れて渡してくれた。最後にそれで横っ面を張り倒して欲しかったが、今のような穏やかなK子センパイにそんなことを要求することはできなかった。切れてないU藤K子などに用はない。心底萎えきったボクはもうこの場を去りたかった。今すぐ彼女をキレさせそうな余計な一言が10パターンほど脳裏をよぎったが、どれも口から飛び出すまでには至らなかった。K子センパイの方も中途半端に成長して無能なばかりでもなくなったボクにさほどの興味もないのだろう。そういう穏やかな目をしていた。ボクはボクたちの蜜月が完全に終了していたことを確実に把握した。来てよかった。残念だけど時間は巻き戻せない。彼女とのかけがえのない3年間を心に大事にしまって余生を過ごすことにしよう。曲がり角で振り返ると、K子センパイはボクに罵声と水をかけたのと同じ窓から、まったく違う笑顔で手を振っていた。さようならボクのK子センパイ。駅前にブックオフがあったので、漫画本は売り払って、ボクは手ぶらで帰った。

 

END

2022年1月24日公開

© 2022 波野發作

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"Kick me again"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2022-01-25 23:45

    波野發作さん
    何と言いますか、確かにそのうち名前はカタカナ表記なりで統一されそうな感じしますね。若干特定を避けられるという意味で。
    少しカタイ印象を受けました。

  • 投稿者 | 2022-01-26 00:42

    「キレてないケイコ・ウトウ」は一本取られました。個人的にキレやすい女性は全力で避けています。avoided at all costsです。

  • 投稿者 | 2022-01-27 13:59

    いつもの波野さんよりちょっと抑え気味な感じがしますが、それがまた良いですね。
    「今となっては二人の距離を測るすべもない」に至るまでの流れ、「つい読みふけってやたらと時間がかかったが」をさらっと流しちゃう感じがすごくいい。
    切れてない、でこちらの意味の切れてないを連想した人は多いと思いますが、おそらくみんな長州小力あたりで止まってしまったでしょう。ここまで突き抜けたのは天晴れです。

  • 投稿者 | 2022-01-28 18:16

    K子パイセン何なの!?

    暴行振るってた時は自分もストレスたまってて、それがそういう行為に昇華されてボクに向いてたの?プレッシャーとかやったるわいみたいな感情が?

    で、それが無くなったら穏やかになってしまったんですか?

    そんな勝手許されるんですか?

    それで新しい自分と出会った人はどうしたらいいんですか?あれが、その期間が蜜月だって言ってる人いるんですよだって。

    本当に忘れられるんですか!?寝て起きたらまたされたいでしょうよ。きっと。

  • 投稿者 | 2022-01-29 00:51

    もはや蛍光灯じゃないやん、と途中で突っ込んでしまいましたが、面白かったです。
    アルファベットがやたらと乱立するのも楽しかったです。良い変態的関係の話でした。相手は勝手に大人になってしまうんですよね……。
    変態的関係で言うと、脳味噌がデリバリーされるUber Eatsを思い出しました。

  • 投稿者 | 2022-01-29 17:19

    構成、描写、お題の取り入れ方、すべてが申し分なく素晴らしかったです。字数をちょっと超えてしまったのが残念ですが。
    何しろ細かい描写がいちいちツボに入るし、職場の人々のややこしい紹介ももはや笑いを取るためとしか思えないし、書き進めるにつれてK子センパイと語り手の関係が分かって行ってあっと驚かされ、タイトルの妙味に笑わされ。極めつけはU藤K子って。ひどすぎます。

  • 投稿者 | 2022-01-30 10:56

    完璧な作品! ボクが「深い関係」「蜜月」と認識している関係と現実とのギャップが秀逸に描かれている。「燃え盛るようなヒリついた緊張感」という言葉の二重性や「声を潜めながら金切り声を上げて」といった撞着語法を巧みに用いてそのギャップを表現しているのも、いちいちニクい。単なるダジャレで終わらせずに傑作を生みだしている。ああ、星五つ!

  • 投稿者 | 2022-01-30 21:34

    出題者の意図がどうとかは別にして、テーマの見事な読み替えにやられました。
    登場人物の名前がアルファベットで表示され、かつ必要であるのかどうかわからないくらいに多くの名前が出てきますが、それらは一種の代替可能性みたいな印象を受けました。LEDにとって替わられる蛍光灯の代替可能性、余剰性のようなものの表現なのかなと思いました。
    あと、ジョジョは借りて読むK子の姿勢には同調します。昔、1部から5部の少しまで(4部は飛ばす)借りて読みました。スタンドやキャラの名前に欧米のロックバンドの名前が跋扈していて、そこが刺さりましたが、途中でギブアップしました。蛇足でした。ジョジョが好きな方、ごめんなさい。

  • 編集者 | 2022-01-30 22:48

    M男部下がS女上司への渇望と、倫理観と葛藤しながらも結局欲望に引きずられていく感じ、再会し瞬時に醒める男の愚劣さが素晴らしかったです。こんな形でテーマが収束するという計算されつくされた構成も完ぺきでした。

  • 投稿者 | 2022-01-31 09:48

    最後まで読んで「切れてない蛍光灯」どこいった? と考えたらK子先輩のことかと納得。アルファベット表記の登場人物を不思議に思っていましたがある種の叙述トリックですね。M男の悲運、これから彼はより一層M男として成長していくと思います。面白かった。

  • 編集者 | 2022-01-31 19:43

    U藤K子、その手があったか。確かにこれは蛍光灯である。昔の、ちょっと黒ずんできた頃の蛍光灯かな。

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