鎌倉で降りたら

応募作品

大猫

小説

3,778文字

2020年11月合評会参加作品。お題は「ノスタルジア」。
鎌倉は京都ほど大きくなくて、佇んでいるだけでノスタルジーを感じる街です。

東京駅の地下ホームで横須賀線に乗り換えた。ボックス席が空いていたので窓側に二人向かい合って座った。一言も喋らず、目も合わせず、そのまま新橋を過ぎ品川を過ぎ、横浜に着いた。大船を過ぎた頃から車窓の窓が急に狭くなった。北鎌倉の山々が手が届くほどそばに迫っていた。次の鎌倉駅で私が先に降りる。それが別れ。向かいに座って窓の外をぼうっと見ている男には、もはや何の感情も抱いていない気がしていた。

鎌倉駅に近づいて列車が減速を始めた。彼には声もかけぬまま立ち上がりそのままドアへ向かった。彼も窓を見たまま動かなかった。私は列車を降りた。

地下道を通って駅舎を出ると、急に光が燦燦と降り注ぎ新緑の匂いがした。昨日まではずっと雨だったのに、いつの間にか季節が移り変わっていた。鎌倉で降りたものの別に何の予定もない。鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうに行って源平池の蓮の花でも見ようと思い、ロータリーを左に行き若宮大路に入った。

買い物客で賑わう通りに足を踏み入れた途端、背中がざわついた。とても歩き続けることができなかった。後ろを振り返りたくてたまらなかった。彼が追いかけてきているんじゃないか、確かめずにはいられなかった。もちろん誰も追いかけてきてなどいない。

しっかりしろと自分を叱咤して歩き出そうとしても、足が少しも前に出ない。心は一つの想念に迷い込んで行く。きっと彼が追いかけてくる。今まで何度となく諍いをした時のように、後から付いてきて不意に背後から抱き締められる。私を見失わないようにこっそり後を付けてきていて、先回りしてそこの店先に隠れていて、ひょいと顔を出して驚かせようとしているかもしれない。やっぱり別れられない。もう一回やり直したい。とにかく家に帰ろう。いつもの笑顔でそう言って、肩を抱き寄せて……

バカ! バカ、バカだ!

甘い妄想に逃げ込もうとする心を踏んづけるように、無理やり大股で歩き出したら他の人にぶつかった。スミマセンと謝る間もなく、ぶつかった若い二人連れは歩き去った。知らない人が次から次へと早足で通り過ぎて行く。私に注意を払う人などいない。誰も追いかけてはこない。誰も、誰も、誰も。彼は列車に乗っていて、今頃は逗子あたりだろう。

別れを切り出したのは私だ。彼の笑顔や軽口や泣き言に利用され続けてきたと考えたのは私。惰性と馴れ合いの付き合いをこれ以上続けても時間と感情の浪費だと決めつけたのは私。実家に帰る彼と一緒に列車に乗って、鎌倉駅で先に降りたところで終焉と決めたのも私。何もかも思い通りになった。これで良かった。それなのに、身体中にべったり未練が絡み付いて一歩も進めない。

歩かなくちゃ、どうしても歩かなくちゃ。ここから離れなくちゃ。彼とのことは今捨てて来たんだから。

休日の観光客に押し流されるようにしてとにかく前に進んだ。後ろを振り返ったら今度こそ崩れ落ちるから、鉛のような足をひたすら前に運んだ。初夏の街を歩いているはずなのに、闇夜を手探りで歩いているようだった。半ば朦朧とした頭に、後悔の繰り言が渦巻き続ける。なぜ別れを決めてしまったんだろう。なぜ、話し合うためのほんの少しの時間さえ持たず、一方的に別れを告げてしまったんだろう。いいえ、話し合っても無駄だと分かっていた。いっときだけ良くなっても、しばらくするとまた同じことを繰り返す。だからすっぱり断ち切ってしまおうと決めたんだ。私は間違っていない。間違っていない。ああ、でも、どうして一緒に列車に乗ってしまったんだろう。どうして鎌倉で降りてしまったんだろう、どうして、どうして鎌倉なんかで降りてしまったんだろう……

 

ふと楽の音が聞こえて来た。目を向けると薄ぼんやりした視界に白いものが動いていた。笛や笙、篳篥のゆったりした雅楽を奏でながら、白装束の神職の人々が練り歩いている。その後ろは婚礼の行列だった。八幡宮の太鼓橋横の緋色の欄干に沿って、黒紋付の花婿と綿帽子姿の花嫁が静やかに動いている。源平池に架かる橋を渡って、本殿への参道を進む一行の頭上は完全な晴天で、花嫁の打掛の白さが目に染み入るようだった。人々が踏みしめる玉砂利の軋む音、糊の利いた仙台平の袴、黒留袖の裾から覗く白い足首、巫女の緋袴。この行列に付いて行きたいと切実に願った。どこか清い美しいところへ連れて行ってもらって、心と体の汚泥を洗い清めてもらいたかった。けれども行列は粛々と遠ざかり、楽音は緩やかに尾を引いて途切れて消えた。追いかけようとして足がもつれ、赤い欄干に縋ってかろうじて体を支えた。白昼夢から取り残された自分の影が擬宝珠ぎぼしに映っていた。

 

そこからどこをどう歩いたのか、気が付いたら鎌倉宮かまくらぐうにいた。白鳥居のあたりに縁起がいろいろと書かれていた。祭神は後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良だいとうのみやもりよし親王だと言う。鎌倉幕府を倒した功績とか足利尊氏・直義兄弟によって暗殺された悲劇について長々と書いてあり、親王が幽閉されたとされる土牢もあったが、それらのものは素通りして神社の裏手へ回った。裏側にはちょっとした竹林があってそれが遊歩道へと続いていた。

よい天気の祝日だというのに、鎌倉宮裏の竹林には観光客は誰一人入って来なかった。私は竹林の中へずんずん入り込んだ。そのうちに斜面に差し掛かり竹が少し疎らになった。ちょうどそこに突き出ていた大石に腰を下ろし、頭を抱え込んだ。早歩きし過ぎで息が切れて少し眩暈がした。頭を低くした弾みで髪がはらりと前に落ち、小さな風が耳元に吹きつけてきた。それを心地よく感じながら、しばらくの間その姿勢のままじっとしていた。

冷たい汗が額からダラダラ流れ落ちて、呼吸が少し楽になった。そうしたら、にわかに風の音が聞こえてきた。竹の葉が鳴っていた。顔を上げると頭上は高く伸びた竹で覆われて暗かった。そこへまた風が吹いて、密生した竹の葉がさっと左右に分かれ、ちらりと青い空が覗いた。風は一筋の通り道を作って竹の葉を掻き分けながら進んだ。細い枝々が撓り小さな無数の葉があちらこちらでさわさわと擦れ合った。風が止むとまた元通りの薄暗い世界に戻った。

私は頭を上げたまま飽きもせず、何度も何度も風が通り抜けるのを眺めていた。涼しい風は竹林を通って私自身にも吹き付けてきて、汗ばんだ背中がゾクゾク震えるほどだった。どこからか小鳥の囀りが聞こえてくる。竹林の外からは数人の人々の話し声も聞こえてくる。どちらものどやかで楽しげだった。五月の午後の太陽を一杯に含んだ柔らかい布団のようだと思った。そこへ身を投げかけて安らかに休むことはもうできなくなった。誰かと笑いさざめき、ふざけ合い、肌を寄せ合って眠ることはもうできなくなった。

心の中で何かが沈殿を始めていた。何かが滴り落ち始めた、と言った方がいいかもしれない。ガラスの表面を無数の水滴が滑り落ちて行くように。沈殿が進むにつれて、心が剥き出しになってゆくのがはっきり分かった。

長い時間石に座っていてお尻が痛くなっていた。立ち上がって歩き出そうとしたら立ちくらみがした。しゃがみ込み、そのまま石にへばりつく格好になった。外界はまだまだ日が高くて、明るい太陽光線を浴びたら火傷をしそうな気がした。表皮を剥いて赤い真皮が見えた皮膚のように、心が生のまま剥き出しになっていた。ありとあらゆる事物が、フィルターなしで直接真皮を刺激するように思えた。薄絹の布地が当たっただけでも、皮膚が裂けて血が噴き出しそうに思えた。

「お姉さん、どうしたの」

頭上から子供の声がした。チリカラと小さな金属音がして目を開けたら、小さな女の子が私をじっと見ていた。その顔は薄化粧をしてあり、頬と唇には紅を付け、額には丸眉がちょこんと描いてある。頭には金の冠を被って赤い紐を顎の下で結んでいた。どこかで稚児行列があるのだろうか。女の子のそばには幾分大きい男の子も立っていて、二人とも白衣びゃくえの上にそれぞれ赤と緑の色違いの狩衣かりぎぬを着て、紫の袴を着け、房の付いたしごき帯を締めている。男の子の方は金の烏帽子を被っていた。

「お姉さん、血が出てる」

言われて見てみると右の手首から血が流れていた。知らぬ間に竹の葉で切ったのだろう。女の子は手を見ようと顔を私に近づけた。頭がチリカラチリカラと小さく鳴った。冠は金の輪っかの真ん中に銀の満月をあしらい、周りを金色の透かし彫りの瓔珞ようらくが取り囲んだ美しいものだった。白衣の袖から小さな手が覗いて、血が付いた私の手を取ろうとしたので慌てて言った。

「触らないでね、汚れるから」

女の子ははっと手を引っ込めると首をちょっとかしげた。つぶらな黒い目が思い詰めたように真っ直ぐに見つめてくる。私はついどぎまぎして目を逸らしてしまった。ふと女の子が腕を上げて、袖が私の顔にふんわりとかかった。視界が柔らかな白一色になって微かに白粉の香りがした。小さい手が下りてきて私の額をそっと撫でた。ひんやり柔らかい手だった。

男の子が女の子を促すと、二人は背を向けて竹林の外へ歩き去った。竹の葉のざわめきにチリカラチリカラ金の瓔珞が舞う音が耳にいつまでも残っていた。双の頬をほろほろ伝い落ちた涙を、吹き抜ける風が乾かした。

 

竹林を出たら日が傾き始めていた。この街に暮らしてみようと思っていた。私は鎌倉で降りたのだから。

2020年11月15日公開

© 2020 大猫

これはの応募作品です。
他の作品ともどもレビューお願いします。

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


4.3 (11件の評価)

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

---

"鎌倉で降りたら"へのコメント 20

  • 投稿者 | 2020-11-16 05:56

    横須賀線は今E235系に置き換わってる最中ですがこの車両、グリーン車以外オールロングシートなんです。なのでもうあと数年経つとっこの作品は出だしからノスタルジーとなるわけでよく計算されて作られてるなと感心しました。ボックス席、無くなるんです。

    • 投稿者 | 2020-11-19 21:26

      そうでしたか。横須賀線にボックス席がなくなるのですか。全然知らずに書いていました。せっかくお褒めいただいたのに計算していたわけではなかったんです。
      電車のボックス席って良いですよね。合理化だけでは割り切れないものがあります。ロングシートでは酒を飲めませんが、ボックス席ならビールやワンカップ飲めますし。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-16 10:23

    恥ずかしながら何度か鎌倉には行きましたが鎌倉宮へは足を運んでいませんでした。鎌倉幕府を討った親王がなんで鎌倉に祀られているのかと思って調べてみたら、社自体は明治になってから造営されたんですね。
    現在の観光地化された鎌倉からはなかなかノスタルジーを感じることは難しいですが、記憶に苦しむ主人公の描写は丁寧で読みやすく、するすると最後まで読むことができました。

    • 投稿者 | 2020-11-19 21:30

      鎌倉宮自体はあんまり面白い神社ではありません。土牢とかがいかにもな感じのわざとらしさで。でも鎌倉は自然が良い感じで残っているので好きなんです。地形も海も山も変えようがないので街の形がほぼ昔のままで残っていますね。町名地名とかも良くて。
      今はなかなか遠出ができませんが、鎌倉くらいなら行ってもいいかなあ。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-19 08:04

    こういう人を近くで見ている設定で読みました。こんな怪しい人、挙動が不審な人がいたら大変だなあと思いました。急に立ち止まるし、ふらつくし、白昼夢みたいに歩いてるし、ずっと竹林みたいなところで座って、顔上げたり下げしてるし。血出してるし、ボロボロ泣くし。

    でも、多分鎌倉の地はそういうのを受け入れてくれるのでしょうね。きっと。多分。

    あと最後がずるかったです。最後の一文。いーってなりました。もーって。こんなの書かれたらほれてまうやろーって思いました。

    • 投稿者 | 2020-11-21 21:53

      悲劇のヒロイン状態の人って、はたから見たらかなり滑稽ですよね。そう言うのを受け止めてくれるのが都会なんですが、鎌倉みたいに殺戮や殲滅、内乱放火強盗を繰り返したような都ならなおさら、懐が深いのかもしれません。

      著者
  • 編集者 | 2020-11-19 16:07

    作中の二人の出来事に、かける言葉は見当たらないが、一歩踏み出せた様で何より。
    二度しか行ったことないが、鎌倉にまた行きたくなった。思えば大猫さんは以前から色々な場所を描写しているが、行きたくなったり腹が鳴ったりする。素晴らしい。

    • 投稿者 | 2020-11-21 21:54

      ありがとうございます。鎌倉に行って、鎌倉ビール飲んで生しらす食べましょう。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-20 22:42

    行ったことのない鎌倉が目に浮かびます。
    ノスタルジアに浸るというよりも、主人公が過去に別れを告げ、なにか新たなノスタルジアを自らに引き入れるというような感じを受けました。

    • 投稿者 | 2020-11-21 21:58

      富山のような雄大で厳しい自然ではなく、温暖でこじんまりしていて、それでいてピリリと辛いところもある山や海ですね。南側の海の青さに驚いた覚えがあります。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-20 23:34

    自分で別れる決意をしながらも未練を断ち切れないという前半部分のシチュエーションは完全に歌謡曲の世界。私の頭の中ではずっと竹内まりやが流れていた(大猫さんは竹内まりやを聴くようなタイプではなさそうだけど)。後半部分はうってかわって鎌倉の文化と瑞々しい自然に主人公が癒やされるさまが描かれる。シンプルな話だけど、筆力で寄り切った! 今回の合評会応募作の中で最も優れた作品だと感じる。星5つ!

    • 投稿者 | 2020-11-22 10:21

      評価いただきありがとうございます。
      竹内まりやは「ピーチパイ」の歌の人としか知らなかったのですが、カラオケに行った時に誰かがすごく情けない歌を歌って、ビールジョッキをモニターに投げつけたくなったことがあります。女心のしょぼいところをよく掴んでるアーティストですね。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-21 20:28

    鎌倉、自分も好きな場所で何度も足を運んでますが、子供らのシーンが物凄く神秘的で強く印象に残りました。

    • 投稿者 | 2020-11-22 10:29

      ありがとうございます。
      神秘的と捉えてもらえて嬉しいです。
      源氏の神様は八幡宮におられますが、仏教に帰依しておられ八幡大菩薩とも称せられて、時として童形に身をやつして衆生をお救いになるとか。
      子供らが現実の人だったかどうかはともかく、鎌倉という地自体に人の心を動かす何かがあるといつも感じます。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-21 23:14

    別れ話から婚礼の行列、そして不思議な子供たちとの出会い、完璧な流れに鎌倉の描写も美しく見事です。川端のお墓参りに行った時に住みたいなと確かに思いました。

    • 投稿者 | 2020-11-22 10:34

      ありがとうございます。
      鎌倉の街の地力というのは確かにありますね。
      地元の友達に案内されて歩くと、観光ガイドには載っていない場所こそが素敵だったりします。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-22 00:10

    鎌倉で暮らすと思ったことで彼への未練はすっぱりと断ち切れたのでしょうか。もしかしたら明日になればまた気持ちが揺らいでしまうのかもしれませんが、竹林での出来事のように悲しみを和らげる場所を見つけたことは、「私」にとってとても心強いものになるだろうなあと思いました。

    • 投稿者 | 2020-11-22 13:48

      仰る通り、人の心は揺れ動きますから綺麗さっぱりというわけには行かないでしょうね。その時々の苦しみを受け止めてくれる場があることで、生きていけるのだと思います。ありがとうございます。

      著者
  • 投稿者 | 2020-11-22 09:34

    創作の好みの問題になりますが、こういう女の人良いですね。うじうじした挙げ句に負傷して、急に鎌倉に住むとか言い出すあたりが良いです。
    何故鎌倉なのかとは思いましたが、言い様のない、夕陽を見た時のような懐かしさを感じました。
    私自身が行ったこともない鎌倉に、そういった印象を抱かせているので、まさにお題の体現ですね。
    読みながら、鎌倉は何となく京都の嵐山のような雰囲気かと思いました。

  • 投稿者 | 2020-11-22 15:09

    優しい子供に対して「触らないでね、汚れるから」と、大人になってしまった私が答える部分が良かったです。戻ることのできない時間の不可逆性を表現しつつ、ラストで「この街に住む」とする、不可逆だからこそ、変化を受け入れ未来へ向かってゆく様が美しく描かれていると思いました。あらゆるIFを想像しては、それでもひとつの道を選ばなければならない、そのことを肯定的に捉え、積極的に選択を楽しむことが大切だと教えてくれました。良かったです。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る