これまでの人生において、ピンチーがサメに依存しきった生活を送ったことは、今までありませんでした。朝と昼に砂浜に行くと、だいたい三匹ほど魚が暴れていました。サメは背びれをのぞかせる日もあれば、のぞかせない日もありました。
のぞかせる日は、サメとおしゃべりをしました。海底の様子や、生意気な小魚については饒舌なサメでしたが、体がない理由については重く口を閉ざしました。
サバイバルとしては快適と言って良いでしょう。ただ、これが一週間も経つと、自分はサメに生かされているのだ、という気持ちになり、落ちこみました。最初に着ていた服はくさくなり、大人の服で代用しました。ぶかぶかです。仕方なく、結んだり、裂いたりしました。サメはピンチーの着こなしをあれこれ批評しました。たまに見かける海中の人間でも、もっと洒落た服を着ているぞ、と。
「それって、死んでるの?」
「噛んでないからわからない」
サメはぶっきらぼうに答えました。
ピンチーはある質問をしたくてたまりませんでした。でも、それを聞くのはとても勇気がいることでした。
「食いたいなら、持ってこようか」
「いらない!」
「だよな。人間ってクソまずいから」
サメの訪問は不定期でした。三日連続で来る日は話し相手に困ることはなく、とても楽でした。それが一日おきだったり、三日おきだったりすると、もう二度と来ないんじゃないかと不安になりました。どうしてもダメな時は、服を着せた木に話すこともありましたが、すぐに飽きました。
いつしかピンチーの髪はボサボサになり、ファッションも腰巻きで済ませるようになりました。最初はビクビクしていたピンチーも虫を噛みつぶし、ジュースのように甘い汁を出す木の実を割るのも上手になりました。あとは助けが来れば言うことなしです。
「何してるんだ?」
「SOSって砂に書いてる」
「誰が見るんだ?」
「空から」
書き終わると、ピンチーは『O』の真ん中に座りました。
「見えないと思うけどなあ」
そんなことはピンチーにもわかっていました。しかし、他にやれることはなかったのです。
「天国に行ったら、誰かいるよね」
ピンチーの頭は希死念慮でいっぱいでした。
「さあ。行ったことがないから」
「僕のこと食べてよ」
まっすぐ背びれを見つめる目は、本気でした。
「背びれしかないのに、どうやって」
ピンチーは首を左右に振りました。
「本当は下、あるんでしょ。それくらいわかるよ」
サメはしばらく黙っていましたが、背びれを半分海水に浸してこう言いました。
「ばれてたか」
ピンチーは波打ち際に寝そべって、さあ来いと言わんばかりに、握りこぶしを胸に置きました。
「わかったよ。俺とお前は友達だ。友達のリクエストは聞いてやらないとな」
ピンチーは横を向き、背びれが近づくのを見守ります。今か今かと待ち構えていましたが、サメは散歩でもするように上陸してきました。凶暴な歯、厚い胸びれは持っておらず、人間の手足を持ち、きちんと海パンをはいていました。
知らないおじさんなら、「びっくり!」で済んだことでしょう、そのおじさんはなんと、ピンチーのお父さんだったのです。
エロ本を読む現場をおさえられた時でも、これほど気まずい思いはしません。ピンチーはお父さんからのあいさつを律儀に返し、立ちあがりました。
お父さんは背負っていた背びれを投げ捨て、息子を抱きしめます。背びれはその先端が砂地に突き刺さりました。
「どうした、嬉しくないのか?」
「嬉しくないこともないけど」
「お父さんがあれしきで死ぬわけないだろう」
お父さんは笑って、さっきよりも強く抱きしめました。やっぱりサメの方が良かったとピンチーは思いました。
それでも念願の親子の再会です。ピンチーとお父さんは夕日が沈む直前まで語らいました(と言っても八割方ピンチーの質問攻めでしたが)。お父さんは、男らしくなったとピンチーを褒めながら、自分は一切誠実に語ろうとしませんでした。これは男らしくありませんね。
「答えてよ!」
ピンチーはとうとう爆発しました。お父さんはと言えば、つるりとした頭をかき上げて余裕の態度です(言い忘れていましたが、彼はハゲです)。
「明日になったら話してやろう」
「今じゃダメなの?」
「父さん、口下手だから。お母さんにも良く言われたよ。おっと、お母さんのことも明日だ」
頑張っても全く手応えがなかったとわかり、ピンチーはどっと疲れが押し寄せるのを感じました。
「子供は寝るのが一番だ。父さんもサメをやってて、かなり疲れたよ。寝なさい、良い子だから」
抗いもせず、忠告を素直に聞いて、ピンチーは眠りにつきました。お父さんがメイキングした服のベッドは寝心地が良く、あっという間に、深い眠りに落ちていきました。
お父さんはすやすや夢の世界で遊ぶ息子の二の腕を触りました。脇腹を歯でなぞりました。どこが美味しいかな、と考えながら。
もちろんお父さんは冗談で考えています。でも、本気と冗談の区別がつくと自信を持って言える人が、この世の中にどれだけいるでしょうか?
日がすっかり沈んでしまいました。お父さんの夜の行動が気になるところですが、それはまた、別のお話。
〈了〉
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