王は腰に下げた、赤地の上、幾何学的に金で装飾が施された鞘から――王国一の鍛冶職人であるパラドによって献上された美しい曲線の片刃を持つ――シャムシールと呼ばれる刀剣の刀身を静かに抜き出し、銀で瓢箪の様に象られた柄を握る右手を頭上に上げて、ぶつぶつとお経を唱え続ける一人の僧の苦行により骨と皮しか残っていないか細い首に向かって真っ直ぐに鋭く研がれた鋼鉄の刃を振り下ろした。赤い血飛沫が舞い、僧が羽織っていた白い袈裟は赤く染まり両手を合わせたままの胴体がどさりと倒れた。灼熱の太陽に長年照らされて縮れ毛となった紺青色の豊かな螺髪を持つ頭の下の表情は、その悲惨な最期を全く予想させない穏やかな慈愛に満ちたものだった。王自身、僧がまるで赤い絨毯の上で上品に寝そべっているかと錯覚するほど極めて安らかな表情だった。
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つけっぱなしにしていた液晶テレビから遠い中東の国の王宮跡で観光客を狙った無差別爆破テロが起きたことを、ライトブラウンの長い髪をポニーテールにした顔の小さいファッションモデルのような容姿の新人女性キャスターが伝えていた。
「現地の大使館からの情報によると、被害者の中に日本人は含まれていない、とのことです」
僕はベッドの枕元で充電中のスマホを手に取って、ライトブルーのアイコンにタッチしてタイムラインを眺めた。大物俳優が違法薬物所持の現行犯で逮捕されたことやアイドルグループのメンバーの自宅に男が押し入った事件が事務所によって揉み消されたことが発覚したことに対する事務所への批判や、ベストセラー作家のインチキな歴史本への批判をおこなった作家が出版社からすでに原稿を送っていた文庫本の発売が立ち消えになった話やらで、件のテロ事件はここではまるで無かったかのような様相だったが、意識してスクロールしてやっとニュース配信サイトの記事を見つけた。その記事をタップすると、画面下に過激派グループの犯行声明を映す動画付きの投稿がぶら下がっていた。黒い布で全身を覆った男たちが機関銃を片手にアラビア語でカメラの向こうにいる僕らに向かって叫ぶように犯行声明を語っている。僕には何を言っているのか全く見当もつかず、ただ暑い夏に祖父母の実家で執り行われた祖父の葬式で初めて聞いた、紫色の袈裟を着た――祖父よりも随分と年を取っているように見えた――お坊さんがブツブツと唱えていた日蓮宗のお経のようにしか聞こえなかった。
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マグマの様に赤橙色に染まった鉄をカンカンとリズミカルな音を響かせながら、パラドは王へ献上する聖剣シンを打っていた。窯元は咽かえる程の灼熱地獄で、パラドのきれいに剃り上げた頭頂から滝のように汗が流れ落ちていた。彼が隣に置いてある石を掘った容器に満たした冷却用の水に刀身を浸すと、ジュッという音が鳴り、刀身が僅かに反り返る。その様子を見ながら、パラドは黒い絹の手ぬぐいを頭に巻いて、ついばみで刀身の最下部をつかみながら真上に持ち上げ、刀身の反り具合を確認する。その繰り返しが無限ループのように続く。まるで永遠にこの聖剣が残り続けることを確信しているかの如く、パラドがその手を休めることはない。弟子のシャナクはじっとその様子を見ている。パラドの無駄の一切ない動きを完全に再現できるまで何度も頭の中でも、夢の中でも、何度も、何度も、何度も……無限ループ、ただ延々が永遠に連なるまで。
シンの刀身の見事な、神の手によって齎されたような曲線美を前にして、踊り子が妖艶に体をくねらせた場面を見るようにシャナクは息をのんだ。彼が蔓の模様を彫り込んだ銀でできた柄を小さな金槌で打ち付けてはめ込む。紅木を削って作った鞘に金紛で幾何学模様を描く。幼い頃から絵画を描き続けていたシャナクにとって、細やかな作業は彼の得意とするところだ。完成した鞘にすっぽりと覆われたシンをパラドは見下ろし、手に取って鞘から抜き出し、刃こぼれがないか入念にチェックして再び鞘に刀身を収めた。こくりと頷いた師匠の後ろ姿を見て、シャナクは胸をなでおろした。
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「もしもし? 今大丈夫? ……あのさ、ご飯でもどうかなと思って。……うん。行ける? ……良かった。何食べたい? ……カレー? オッケー。じゃあ、神保町でいいかな? ……うん。あと1時間もかかんないくらいで着くと思う」
僕は沙姫にいつものように突然の連絡で無理やり約束を取り付けた。沙姫がそんな僕の悪癖に対してイヤな表情を見せたことはこれまでに一度もない。今の電話だって、底抜けの明るい声で応える彼女の表情は手に取るように脳裏に浮かんだ。彼女との関係はとても曖昧だ。性的な関係はないが、僕は彼女に並々ならぬ好意を抱いているし、彼女は僕と二人でご飯はもちろん、お酒も飲むし、映画も一緒に観るし、美術館での展示にも出かける。嫌われてはいないのかもしれないが、彼女はサバサバしているし、僕のことを何とも思っていない可能性は高い。去年、同棲していた彼氏と別れたことを飲みの席で聞いた。僕らの関係はその前から続いていたし、僕はあの時きちんと気持ちを伝えるべきだったのだろう。結局今まで通りの宙ぶらりんな関係が三ヶ月ほど続いていた。
神保町の駅を出ると、真上に昇った太陽に照らされた白いコンクリートで舗装された歩道が眩しく光っていて、僕は顔をしかめた。手に持ったスマホが振動したので、僕は黒い合皮のカバーを開き画面を覗いた。沙姫からLINEのメッセージで少し遅れるという文字と苦笑いに汗を垂らした顔文字が黄緑色のフレームの上に映し出されていた。僕は「了解」という文字と親指を立てた絵文字で返事を送ろうとして、ふと考え、「気をつけて」という文字と笑顔の絵文字を付け加えて送った。
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カイルの祖先は王家御用達の鍛冶職人だったと、幼い頃から聞かされていた。現在では石油関連の日本企業の現地職員として働く父から聞かされるそんな話は、影で父が異教徒の犬として罵られ続けていることを知るカイルにとって、惨めにしがみついている過ぎ去りし日の些細な自慢話として聞き流す以上の価値は無かった。そんなカイルにとってインターネットから世界に発信される、黒装束の男たちが異教徒の首を刈り取る映像は同じ国の人間とは思えないほどに眩しく映った。――いつか彼らの組織で俺も異教徒との聖戦に立派な男として命を捧げる――苦悶の表情でぼとりと地面に転がった異教徒の頭を見ながらカイルの若い血潮は滾っていた。
一週間後、カイルは家を出る覚悟を決めた。スマートフォンでパルミラの遺跡近くで異教徒を狙った自爆テロが起きたことを知り、すぐさま同胞のチャンネルを開いた。
「治安部隊は戦争を止めぬ異教徒を標的とした。偉大なる神のお力添えを持って、我が兄弟同胞は異教徒どもの心に恐怖を投げ込んだ……我が兄弟同胞たちを殉教者として神がお受け入れになり給うことを請い願う」
黒装束の戦士たちがカラシニコフを携えて堂々たる犯行声明を発していた。カイルは神の眠る聖地に向かって正座し、頭を深々と下げてその場にひれ伏した。カイルは同胞から手に入れた手榴弾を一杯に詰め込んだベストを羽織り、母親と父親が寝静まっている寝室の前を忍び足で通り過ぎて赤紫色に明けようとしている夜空が広がる外へ出た。昼とは違い、冷え込む空気に身体を震わせたが、滾る血潮とあいまりそれは武者震いであると自身に言い聞かせて父親の書斎で十分に下調べをした目的地へと足を向けた。
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真っ白な布地の礼装のパラドとともに同じく礼服を纏い、シャナクはシンを皮ベルトで肩から背中に下げて二頭のラクダに乗って砂漠を渡り王の待つ宮殿へと向かった。空にはシンの刀身を思わせる三日月が煌めく無数の星たちと共に輝き、不毛の大地を優しく照らしていた。月が砂漠の向こうに沈み、万民の頂点に立つ王の御姿を思わせる赤橙の太陽が足元をさらう砂粒を照らしながら昇り始めた頃、パラドたちは巨大な白い石柱が立ち並ぶ王宮に辿り着いた。ラクダを王宮の前で座らせ、皮ベルトを取り外してシャナクはシンを頭上高く掲げてパラドに続いて王宮に敷かれた赤い絨毯の上を歩いた。地上から三メートルか四メートルほど上がった階段の上で、金の装飾が施された椅子にどかりと腰を下ろした王の表情は階段の下で頭を下げていたシャナクには全く窺い知れなかった。長い柄の先に菱形の矛先を持つ槍を持った衛兵が二人、階段下の両端で真正面に視線を固定したまま突っ立っている。パラドはシャナクの手からシンを両手で掴み取り、頭上に掲げて膝をついた。王は椅子から立ち上がり、ゆったりと階段を降りてシンの鞘を左手で掴み、その場で抜き出した。
「ご苦労。これが聖剣シンか……美しい。試し切りしたいのう。適当な者はおるか?」
「……恐れながら、ワジアイド川の河口でこのひと月ほど菩提樹の下、瞑想を続けているという僧の噂を聞いたことがございます。農奴たちが妙にありがたがっているという不穏な噂もまことしやかに囁かれておりますので、丁度よろしいのではないでしょうか?」
黒々とした口髭を蓄えた大臣がシャナクの後ろから王に提言した。「なるほど。それは丁度良い。神の思し召しだな、シャハハハハハハ」王は豪快な笑い声を上げてシンを鞘に納めた。
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