場所・都内近郊にあるスターバックスコーヒー。テーブル席に中年の作家が座っている。彼の手元にはコーヒーが並々と注がれたマグカップがある。
作家 いつもは雑談のために来るスタバだが、今日は違う。つい先日仕上げた短編小説――、三年ぶりだか五年ぶりだか、まあ、十年ぶりということはないだろう――、とにかくすごくひさしぶりに書いた短編小説の感想を担当編集者の島崎から聞くのだ。あのボンクラからまともな意見が聞けるとは思えんが、そのまともじゃない視点に、心を砕かれないとも限らない。ボツならボツで、一言、ボツと言ってくれさえすれば良いのだが、どうもあいつは、生殺しを楽しむところがある。それが嫌なのだが、まかり間違って採用ということもないとは言い切れないし……、ああ、落ち着かない。
中年の作家よりは五歳は若いと見える、丸眼鏡をかけた男が来店してくる。作家は、その男に手を振る。丸眼鏡の男が作家に近づく。
丸眼鏡の男 先生、おひさしぶりです。
作家 ああ、ひさしぶり。と言っても、二ヵ月とか、そのくらいか。なんでも良いから、きみ、何か飲み物を買ってこいよ。(と言ってコーヒーに口をつける)
丸眼鏡の男がうなずき、レジに消えていく。しばらくして、紙カップを持った男が作家のもとに戻って来る。
丸眼鏡の男 ソイラテにしました。
作家 なぜいちいち報告するんだ。きみが何を飲もうと私には関係ない。いいから早くそこに座りなさい。
丸眼鏡の男 よいしょっと。……なんというか、この感じ、ひさびさで緊張しますね。
作家 ひさびさというのは、二ヵ月ぶりのことを言っているのか? それとも、私が書いた小説について云々することを言っているのか?
丸眼鏡の男 もちろん先生が小説をお書きになったことを言っていますよ(カバンの中をあさって、A4サイズのコピー用紙の束を取り出し、テーブルの上に置く)。……さて、何から話しましょうか。
作家 とりあえず、それが雑誌に載るのかどうかだけ単刀直入に教えてくれ。ダメならダメと言ってくれ。良いか。一言、「ダメ」だけだぞ。
丸眼鏡の男 当然、これは採用ですよ。
作家 そうか。それは良かった。(コーヒーに口をつける)その言葉に嘘はないな。
丸眼鏡の男 先生との打ち合わせで、そんな嘘は吐きませんよ。先生に恨まれたら、何されるか判りませんから。
作家 何されるって、一体、私が何をするというんだ。私が非力で、文壇でも何の力もない小説家だということは、きみもよく知っているだろう。……いや、もう、私は小説家でさえないのかもしれない。一番最近書いた文章のタイトルを知っているか? 『文豪・桑田佳祐』だぞ。おおよそ誰も知らないような、昨日今日出来たばかりの音楽雑誌に書いた。
丸眼鏡の男 あの原稿に関する評判はよく聞いていますよ。それに、桑田佳祐だって捨てたもんじゃありません。紫綬褒章を受けてます。
作家 ああ、悪かったよ。別に桑田佳祐の悪口を言うつもりはないんだ。それに、悪口を言えるほど彼のことを知らない。「ダーリン、ダーリン」ってやつは、あれは桑田佳祐か?
丸眼鏡の男 それはミスターチルドレンですよ。『TSUNAMI』とごっちゃになってるんじゃないですか。
作家 『TSUNAMI』はミスターチルドレンじゃないのか。じゃあ、『HANABI』は、サザンで合ってるか?
丸眼鏡の男 それもミスターチルドレンですね。そんなんでよく桑田佳祐について書けましたね。尊敬しますよ。
作家 ああ、尊敬してくれ。君の前に座っているのは、偉大な作家なんだ。知らないことについてだって書ける。悪い作家だよ。
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