フォガティ・イン・ザ・レイン

ハギワラシンジ

小説

21,288文字

「私は理由なんてただの自己弁護だと思うんだ」と彼女は言った。
「モノに理由がある時、それはそれが存在するための自己弁護としか思えないんだ」

 フォガティは家出をする事にした。
 東京から出よう、と思ったのは母が死んでからずっとそうだった。唯一の肉親である父親も大嫌いだったし、彼は何もしてくれなかった。だから、何かをする前に自分から出ていくことにした。持ち物。バイトで稼いだお金と父の財布から抜き出したお金、合わせて十万。ノート二冊。筆記用具。ケータイ。父のナイフ。家族で撮った写真。
 「ロープを持って行こうよ」
 と石ころが言った。
 「ロープは色んな事に使える。繋ぎ止めたり、下に降りたり、人を殺したり、首を吊るのにも使える」
 「間違いないね」
 フォガティはロープを持って行く事にした。
「でもさ、君は少年だよ。義務教育も終えていない世間知らずの少年だ」
「うん」
「行くあてはあるんだろうね」
「穴を見つけるんだ」
「?」
「父さんがそう言ってた」

「父さん。母さんは何処に行ったの?」
「母さんはね、穴の中に居るんだよ。暗い、とても深い所さ」ロープが頑なに身をよじらせる。
「穴?」
「そう穴だ。母さんは何処かにある穴の中に取り込まれ、穴になったんだ」意味も無く、ロープを結び始める。 
「そんなの嫌だ。母さんと一緒がいい」
「父さんも母さんと一緒がいいよ。でも僕では穴の中に手が届かないんだ。深さも直径も分からない。だから石ころを探さないと」蝶結びが父の手の中にあった。
「定規を使えばいいのに」
「定規じゃ駄目なんだ。石を投げ込んで、ヒュウウウウウ。って落ちて行くだろ?そしたら底にぶつかるんだ。すると音が聞こえる色んな音が聞こえる筈さ。元気だよ、愛してる、殺してやる、待ってるよ、助けて、とかかな。もっと沢山あると思うけどね。その中から母さんを探すんだ」そしてすぐほどけた。
「でも、沢山ある中からどうやって探すの?」
「ロープを持っていきなさい」
「?」
「ピーマンは苦いわ」結び目を模索する。

 特急に乗って駅名の端から端まで行けば、流石に街並みもガラッと変わった。南大塚と言う場所らしい。田舎だ。
「良いんじゃない?汚い空気に、汚いやり口。東京よりかましだよ」
 石ころはいつに無く上機嫌だった。確かに澄んだ空気がおいしい。僕もなんだか嬉しくなって、バスを待つ時間が貴重に思えた。
「これから何処に行くの?」
「森さ」
「そいつはいいやこの時期なら落ち葉達が沢山いる。最近会ってないんだ」
「友達かい」
「どうかな。悪い奴じゃないんだけどね」
「潰してしまうと思うよ」
「いいねどんどんやってくれ」
 バスを待っている間、僕は本を読んでいた。短編集で、何度も読み返してしまう物語がある。妻子を人質に取られた大工二人が『二日で空気の階段を造れ』と我が侭な王様に命令された。片方は悩んだ末に、期限を守れずに妻子を殺され国外追放。もう一人は一日目で姿を消す。そんな二人が二十年後、ある酒屋で再会するというストーリーだ。
 ☆
 二十年前、柿崎は小学生五年生だった。
 その日は林間学校の三日目で、東京から地方への長旅でへとへとになった生徒達の愚痴も、すっかり消え去っていた。
「今日はキノコ狩りに行きます」
 という学年主任の言葉から、もう数時間が経とうとしている。柿崎は、一人森の中を彷徨っていた。なぜなら、便意を感じたので休憩している皆に黙って、こっそり列から外れたからだ。案の定すっきりして帰って来たら皆がいない。困惑した少年は、やや暗くなりかけている森へと、がむしゃらに進んで行くのだった。
 暫く歩いていると、いつの間にか、それまでに柿崎の周りを包んでいた日光は消えてしまった。月も分厚い雲に隠れている。幼い柿崎は、お化けとかそういう類が夜に出ると信じていたので、すっかり怖くなってしまった。だから柿崎は、自分を奮い起たせる為に歌を歌い始めた。お化けなんて怖くないー、怖くないったら怖くないー。お化けなんて怖くないー…。

 ガサ。

 柿崎は全身に悪寒が走り抜けるのを感じた。すぐ近くで音がした。身体中の血がニ、三度下がるのを柿崎は今身を持って体験している。金縛りにあったように彼は動かなかったが、勇気を振り絞って音がした方向に錆びた金属のような首を向けた。木と木の間にうすぼんやりと光が見える。柿崎は半ば安心した。きっと他のキノコ狩りに来た人だろう。そう思い、光の後を追いかけた。

 がさ、がさ、がさ。
 ばり、ばり、ばり。
 ぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ。

 光は意外に速かった。と言っても彼の歩幅なので、成人男性の場合ならばどうかは分からない。

 がさ、がさ、がさ。

 ばり、ばり、ばり。

 ぐしゃ、ぐしゃッ。

 はッ、と柿崎は立ち止まった。光が動きを止めたからからだ。丁度崖の上で、いつまで経っても光は空中に縫いつけられたかのように、微動だにしない。
 しかし、柿崎にとってはそれが問題だった。もし光が懐中電灯やら、ランタンなどだったら彼は胸をなでおろして、その主に助けを求めていただろう。しかしそうではない。光そのものが、れっきとして、単体で空中で静止しているのだ。柿崎はそれを、恐る恐る木陰から覗く。よくよく見てみると、きらきらとした羽のような物体が、光の中で核エネルギーのように絶え間無く動いていた。それはひらひらと舞い、柿崎の心を強く魅了した。
 次の瞬間、柿崎は木陰からすっくと立ち上がっていた。ふらふら何かに酔ったように光に手を伸ばす。彼が掌中に確かな感触を感じたと同時に、光は破裂した。無音。幾千にも分かれた光の筋が、柿崎を包む。瞬間的に視力を失った柿崎は、手を振り回して暴れた挙げ句、足を崖から踏み外し、闇の中へと転落していった。

 僕は森の中にいた。
 昼とは思えないぐらいに森が暗いのは、先程まで少々天気がぐずついていたからだ。雨がいつ降ってもおかしくない。僕は雨が降るのが何より嫌いだった。雨の中、傘を差して学校に行くなんて狂気の沙汰だと思うし、降った日は当然学校を休んだ。
「ねぇ、何してるの?」
 ザク、ザク、と僕は落ち葉を踏みつけている。
「君の友達を細かくしているんだよ」
「酷いなぁ、皆泣いてるよ」
「じゃあ君が助ければ?友達だろう?」
「やだよ」
「どうしてさ」
「助けてと言わないから」
「ここで何をしている」
 はッ、として振り返ると人がいぶかしげにこちらを見ていた。帽子を目深にかぶっていて、顔は窺えない。何年も着続けているようなウィンドブレイカーを着ていて、そのせいか全体的にみすぼらしかった。
「ここは立ち入り禁止のはずだ。興味本意なら出ていってもらおう」
「すみません。もう少しいさせて下さい。助けてと言わないんで」
 ちら、と帽子の隙間から一瞬見えた目は、とても鋭かった。
「妙な奴だな。お前、家は何処だ?」
「東京です」
「東京?ずいぶんと遠いところから来たな。しかしどうしてまたこんな所に?」
「母さんが父さんに殺されたんです」
 僕はとっさに嘘を吐いた。実際、母さんが死んだのは父さんの所為でもあるし、そうすることによって、彼に鎖帷子を着せた。僕はそれに優越感を覚えた。
「…そうか」
 このことに罪悪感を覚えた。
「お前、名前は?」
 さっきより、ずっとまぁるい目だった。
「フォガティです」 変わった名前だな、とその人は言う。
「まぁいいフォガティ。お前これからアテはあるのか?」
「特に」
「よし、なら私の家に来い。茶ぐらい出してやる」
 そう言うと、ザクザクと速歩きで進んで行ってしまった。
「助けてって言ってる」
 ぽつり、石ころはそう言ったけど、構わずに僕は後に続いた。

「粗茶だ」
 本当だった。その証拠に彼女のサイトには無数の糸がかけられており、使用済みのティーバッグが吊るし干しされていた。
「フォガティ、私は酒巻と言う。所謂、まぁ…、ホームレスと言うやつだ」
薄い紅茶の表面に、酒巻さんの顔が映る。
「この森に住み始めてもう二年ぐらいになる。色々嫌になってな、旅をしていてここに行き着いた」
 酒巻さんは、深くかぶっていた帽子を取り去り、髪の毛を払った。そこからは、普通ならありえないくらいの髪が溢れ、彼女の腰までかかった。
「辛くはなかったんですか?」
「辛かったさ。何でこんなに辛いのか不思議で、死にたくなった夜もあったよ」
「何故死ななかったんですか」
 さあな、と彼女は苦笑しながら頬をぼりぼり掻いた。
「最後の一線の部分でどうしても躊躇ってしまうんだ。もしかしたらまだ会わなくてはならない人がいるかもしれない、とか考えたりしてな。君と会った時だって、本当は崖から飛び降りて死のうとしていたんだよ」
「じゃあ、僕は命の恩人って訳ですね」
「生意気言うな」
 ごつ、と頭を小突かれた。
 酒巻さんの住んでいるのは、簡素なテントと、ブルーシートで造られたサイトだった。トイレは特に無く、土の上なら何処でも、だそうだ。その方が土が良く肥えるらしい。火は、薪と落ち葉が主でたまに近くの町に行ってバーナー等を調達するとのことだ。お金はどうやって工面しているんですか、と聞いたら、「金などあるものか」と言って、自分の腕を叩いていた。僕がこうして飲んでいる水は、どうやら近くに井戸があるみたいで、毎日そこから汲んでくるのだそうだ。特にこの時期は水しぶきが跳ねて凍るように冷たいらしい。
「とても冷たいんだ」苦々しげに彼女は言った。「凍傷を負いかねない」今日からそれもお別れだ、と妙に僕に視線をよこすのだった。

「コーヒーでいいかな」
 その一言で柿崎はこの男を嫌いになった。ロープをいじくる姿もそうだ。溢れ出る憎しみで、彼の唇がめくれて牙が露わとなった。
「そんな白い歯を見せられても分からないな。どういう意味なんだい?」
「地獄へ堕ちろってことだ」
 あはは、とキッチンから声が聞こえる。
「僕の息子もね、良くそう言うんだ。昨日出て行かれてしまったよ」
「不憫な息子さんだな」
 そんな事今はどうだっていい、と尾を振った。
「俺はな、あんたをずっと探していたんだ。二十年前からずっとな。俺は、お前を殺して帰るんだ」
 背中の毛が逆立ち、凶暴な犬歯が外気に触れる。柿崎は今にも男に飛び掛って、彼の咽喉笛を食い千切ろうとしていた。
「いいよ」
 ふぅふぅ、とコーヒーを冷ましながら言った。ロープはいつの間にか蝶になっていた。
「早いとこ彼女の所に行きたいんだ。彼女は僕にロープをくれなくてね。君が下ろしてくれるなら大歓迎さ。どんな方法でも彼女に会えれば僕は満足だよ」
 そう言った後コーヒーは波を立てなくなった。柿崎が彼の喉笛に牙を突き立てたからだ。血が勢い良く噴出し、部屋を明るく照らしていたシャンデリアを、紅く濡らした。シャンデリアは血涙を流し、カーペットに吸収されていった。カーペットは瞬く間に朱色に染まっていき、部屋には異臭が立ち込めた。柿崎が、万力のような顎を、くいっと捻ると、ギチギチと嫌な音を立てて、首が九十度に曲がった。無理矢理切り倒された桜の木のようだ。最後に、奥歯の辺りまでがっちりと咥え込み、渾身の力で噛み切った。支えを失った頭は、ぐらりと前に傾き、文字通り皮一枚で繋がっていた男の首は、それに耐え切れず、コーヒーの上に落下していく。
「ごちそうさま」
 噛み切った肉片と一緒に吐き捨てた。蝶はただ見ていた。

 彼は血を落とすべく、風呂場に向かっていた。人間より鼻の効く彼は、むせ返るような血の匂いで、頭がおかしくなりそうだったからだ。紅い口で器用に、風呂場のシャワーのハンドルを回すと、冷水が勢い良く噴き出した。たぎっていた血をなだめるような、その冷たさが心地良かった。出来れば体も洗いたい様だったが、肉球では掴めない。残念そうにシャワーを浴び終わると、ブルブルッ、と身震いをし、水気を切った。そして、まだ水の滴る体で、柿崎は侵入した庭の窓から外へ出た。
「お話できましたか?」
 女が白いテーブルや、椅子のあるテラスに腰掛けていた。
「もちろんさ緑。イエスって言ってた」
「それは良かったです。私は嬉しいです」
 緑と呼ばれた女は、旅行用のトランクから飴玉を取り出し、ガリガリと噛み砕いた。
「今度は何処に行くのですか?」
「森、だな」
「何処の森ですか?」
「それは分からないな」
 膨れっ面。そして足をバタバタ動かして困った表情をする。
「なぁ緑。俺は無駄な二十年を送ってきたけど、いくつか分かったことがあるんだ」
 柿崎は、緑の座っている反対側の椅子に、ひょい、と飛び乗った。
「大きな館があると思ってくれ。そこには気まぐれな主人が住んでいて、沢山の給仕がいるんだ。そこの主人は気前が良くて、給仕一人一人にも部屋を与えているらしい。でな、ある給仕が、本当にありえないことだけど、本を読み始めたのさ。そして偶然にも二十年前、彼女の部屋をぴょんぴょん跳ね回っていた一匹のダニが、彼女の目線と同じぐらいまでジャンプしたんだ。そのままその柿崎ってダニは本の中に吸い込まれ、文字になっちまったんだ。長い長いストーリーの一部になっちまったんだ。結局のところ俺が言いたいのはな、俺には犬って意味しか持てないけど、いつか彼女に読まれる日が来るって事」
「分かりません」
「だろうな」
 緑は始めは熱心に聞いていたが、ふわぁ、と欠伸をしてしまった。
「じゃあ、これなら分かる筈だ」
「なんですか?」
「ピーマンは苦いって事」
「それなら分かります」
 にっこりと彼女は微笑んだ。

 僕はある作家を模倣して、小説を書こうとした事がある。それは暑い夏の日で、気を抜いたら溶けてしまいそうなほどだった。
 僕は初め、その小説家の事を詳しく知らなかったけど、ふと気になり近所の本屋まで行って、一番新しい本を買った。汗だくで家に帰り、あらかじめスイッチONにしておいた、クーラーの良く効いた部屋で、うきうきしながらページを開いた。とても不思議な小説だった。家を飛び出し、自分の心と向き合いながら話は進み、いつの間にか世界を救いまた日常へ戻る。孤立し、嫌いだった世界にだ。僕は読み終わった後、続きを書きたくなった。この世界をもっと面白くしてやろう。僕なら出来るさ「そうとも。君ならできる」シャーペンを手にとって、白紙に書き出してみたけれど、長くは続かなかった。いつの間にか母が死んでいたからだ。

 僕には付き合っていた彼女が三人いた。
 一人目は中学生の時、同級生だった女の子だ。それなりに僕は彼女のことを愛していて、行きたい場所があれば連れて行ってあげたし、欲しいものがあったら買ってもあげた。でも彼女の誕生日のデート後、「あなたは私の内側を見てくれなかった」と泣きながら言われ、一方的に別れた。僕は中学を卒業するまで、女子にずっと無視された。
 二人目は、高校一年生になりたての春、ボードゲーム研究会に所属していた二年の先輩だった。理知的な先輩で、いつも飴を舐めずに、歯の上でごりごりと転がし、削るようにして食べていた。僕らは部室が旧号棟の一番隅っこなのを良いことに、毎日、部活に来るや否や、声を押し殺して肌を重ね合った。とても綺麗な人だったけど、その年の冬、睡眠薬を過剰に摂取して自殺してしまった。高一の冬。
 三人目は、その彼女のお姉さん。彼女のおかげで、その年の二学期期末テストはビリになった。

「なぁ、緑。なんだって俺の為にこんなにしてくれるんだ?」
 俺は今、バンの荷台に寝転がっていた。緑がヒッチハイクをしてくれ、五十がらみの気のいいおっさんが、車を止めてくれた結果だ。
「私も彼に会いたいのです。妹が死んで、落ち込んでいた私を慰めてくれました。私の番です」
「でもなぁ、俺はあいつを殺すぜ。あいつの親と同じように」
 それは困ります、と緑は飴を噛み砕きながら、顔をしかめた。
「じゃあ、競争です。私と柿崎さん、どっちかです」
「ふん」
俺はつい鼻先で笑ってしまった。
「着いたよ、二人と一匹さん」
 バンの運転手はそう言って、最寄の駅の近くでこっそり下ろしてくれた。(荷台に人を乗せるのは違反だからだ)さらに、梅じそ味の飴玉一袋と、二千円をくれた。俺はその優しさに、どう報いようか迷っていると、
「ありがとうございます」
 と緑が、窓からのぞくおっさんの顔にキスをした。主人は目をぱちくりさせていたが、直後、豪快に笑い飛ばし、じゃあなと言って去って行った。
「いい人です」
「ああ。後二十年は生きると思うぜ」
 去り際に、バックミラーから見えた顔がとても若かったからだ。
 どうやら南大塚という駅らしい。そこから出ているバスに乗る為に、俺達はバスが来るのを待った。他人がジロジロ見てきたけど、俺が何もしないと分かると、すぐに興味を無くしまた他人に戻った。クスクス、と笑い声が聞こえたので、緑の方を向くと、彼女は本を読んでいた。いつも彼女は微笑んでいるが、笑っているところはあまり見ない。気になって本を覗こうとしたが、彼女は断固として、笑いながら、それを拒否した。「彼が読んでいたのです」バスの音が聞こえる。

「王様は空気の階段なんて造ってどうするつもりだったんだろう」
 注文したビールを飲みながら僕は言った。
「俺はそんな事もうとっくに忘れたけどな」
 彼は上等なワインを注文した。
「結局のところ意味なんて無かったんだと思うぜ。王の為すことには全て意味がある、って示したかったんだろうよ。それか…」
 彼はそこで言葉を区切り、ワインを口に傾けた。店内のガヤガヤとした、喧騒が良く聞こえる。続きを言ってくれなかったので、僕はすっかり焦れてしまった。
「それか?」
「金ぴかなものが好きだったんだ」
 待ってました、と言わんばかりに、いきなり僕の方に向きなおった。
「こういう言葉がある。『光るものが好きな婦人がいた。彼女は輝くものを全て欲しがり、とうとう(天国の階段)まで欲しがった』」
 僕にはその比喩が良く分からなかった。どう考えても空気は光ってないし、そのような婦人は僕の知人にいなかった。
「分からないのは当たり前さ。空気が光っている訳が無い。『金ぴか』なんだ。自分で光らずに、光らせてもらっているのさ」
 そういう彼は、もう完全に酔っていて、バーのカウンターに突っ伏していた。妻子を失った男にしては、随分と楽そうだった。
「君はどうしてそんなに自由でいられるんだい?奥さんも子供さんも亡くしているのに、彼女達に悪いとは思わないのかい?」
 しかし、その問いに対し彼は嘔吐で応えた。店の給仕が慌てて用意したバケツに散々吐いた後、彼は再度カウンターに突っ伏した。赤ら顔を僕の方に向け、愛しそうにワインのコルクを指先でつつく。
「あいつらは今王様の所にいる。何でも、王様に気に入られて妻にしてもらったんだとさ。そのお礼に毎月俺の懐には、クイーン達から使いきれないぐらいの大金が転がり込んでくるって訳だ」

 その後、酒巻さんは僕の為に寝袋を調達しに行ってくれた。もちろん「腕」を使うそうだ。彼女がサイトから出て行った後、僕は荷物をチェックした。大体のものは平気だったけど、ケータイの電池が切れていた。行きに充電するのを怠っていたからだ。半ば自分の意図したとおりだったけど、やっぱり不安はあった。でもそれは糸が切れてしまうのと同じことで、ぷつん、と容易いことだ。僕がケータイを鞄にしまう為に立ち上がると、石ころがぽつりとぼやいた。
「あの酒巻って女気に入らないな」
 僕は驚きを隠しつつ、ケータイを鞄にしまった。意見が食い違うなんて今までなかったのに。
「なんで嫌なんだい?いい人じゃないか」
「とにかく嫌いなんだ。本を読むのに理由がいる?」
 いつになく頑固だ。石ころらしくない。
「本は満たすものだけど、嫌われた人はきっと訳を知りたいと思うよ。何も解決出来ないじゃないか」
「僕は帽子を目深にかぶった女が嫌いなんだ」
 それは最初何かの比喩かと思ったけど、意味が分かると意味が分からなかった。
「目深?」
「そうさ。帽子を目深にかぶって何の意味がある?前は見にくいし、髪形もくしゃくしゃだ。前を見たくないなら太陽でも見てればいいんだ」
 今更?とでも言いたげだった。
「気付かなかったの?もう長いこと一緒にいたのに。やっぱりきみは自分のことしかみていなかったんだね。結局石ころの声には耳を傾けないんだ」
「ねぇ、待ちなよ」石ころは何故かひどく怒っていた。「確かに君が帽子を目深にかぶっている女性が嫌いだというのは今初めて知ったさ。でもそれとこれとは全然違うよ。僕はいつも君の事を意識している。耳を傾けている。今までの誰よりもそうしている。信頼しているんだ。もしかしたら僕の知らないことがまだまだあるかもしれないけど、それはとても良い事だよ。お互い飽きないという事だからね。何か気に触るようなことをしていたら謝る。だからそんなに怒らないでくれよ」
 でも石ころは何も言ってくれなかった。それから僕が何を言っても、何をしても、石のように沈黙するだけだった。仕方ないから椅子に腰掛けて本を読み始めたけど、内容は全然入ってこなかった。ブラックホールに向かって悪口を言っているみたいだ。空気の階段の話を読んでも、二人の男がただ哀れなだけだった。そこからは何も得られない。その事に対しても石ころは何も言わない。あるのは、多すぎて価値が希薄になった落ち葉達だけ。最初はそれらが僕の為に涙を流しているのかと思った。けどそれは違う。葉っぱは泣いたりなんかしないし、落ち葉だったらなおさらだ。じゃあ何だろう。空っぽな宝箱のような頭だったけど、すぐに分かった。視線を上げると、雨が降っていた。落ち葉を蹂躙し、強さを見せ付ける、雨。僕を一人にする、雨。音の孤立。連続するシークエンス。ダンス・マカブル。僕の、嫌いな、雨。

 俺達は穴から生まれてきた。
 俺は四本足で地面と触れ合うようになってから、そう思い始めるようになった。もし、人のままだったら、そうは思わずに、音楽を聴き、八つ当たりをし、それでいて誰かをうっかり愛していたのかもしれない。しかし、それはもう俺の内臓の一部のようなものだった。大きな穴がある。大きさは知らない。でもかなりでかいと思う。その奥底で俺達はまだ形を成していない。穴の一部だからだ。俺達はしっかりと手を繋ぎ合い、空を見ている。その時はまだ空が穴だと思っているんだろうな。そこでロープが垂れ下がって来るのをじっと待つ。蜘蛛の糸みたいに脆くはないから、いくらでも掴むことは出来るが、それは誰もやらない。掴むべき者に譲るからだと思う。もしそうでない者が掴んだら、そいつは一生矛盾して過ごすことになる。塩辛い飴になる。
「しょっぱいのは嫌です」
 雨が降ってきたので、俺達はトンネルで雨宿りしていた。緑は冷たい壁に寄りかかり、少し俯いて後ろで手を組んでいた。俺は、湿った地面に尻を付けたくないから、仕方なく立っている。
「飴は甘くなくてはいけません。固くなければいけないのです」
 俺の馬鹿みたいな話に、彼女はとても真剣に答えてくれた。実際俺もそう思う。生き物は何かで満たされてなきゃいけない。空気みたいに、無味乾燥なものでも潤ってしまう。でも飴は、甘さと味を与えてくれる。大した奴だと思う。
「私は飴が嫌いでした」
 緑は寄りかかったまま、ずるずると座り込み、組んだ両手の手の甲に額を乗っけた。後ろにトンネルで切り取られた景色が見える。
「妹が好きだったのです。飴玉。なぜそんなに好きなのですか。『踊ってくれるからよ』踊るのですか?『そう、舌の上で踊ってくれるの。ワルツや、ラテン、サンバにヒップホップ、ランバダだったいけるし、盆踊りだって出来ちゃうのよ』すごいですね。『ええ、素晴らしいわ。姉さんも一つどう?』ごめんなさい、私は嫌いです。『ふーん。ケーキや金平糖は食べるじゃない。どうして?』悪い奴だからです。『悪い奴?』はい。飴は口の中で転がすと、断り もせずに体の中へと入ってきます。深い深い、誰にも知られたくない部分です。私はそれが嫌いです」
 彼女は薄く笑いながら、エンドレステープみたいに呟いていた。その時俺は初めて緑を見た。ブラックホールみたいにツヤの無い髪。それなのに黒メノウみたいな瞳。すっ、と通った鼻。冬に一枚だけ落ちていた桜の花びらのような唇。ちょっと灼けた肌と対照的な白いコート。
「少し喋りすぎました。疲れました」
 彼女はぺたん、としゃがみこみ、伸ばしている方の足でトントンと地面を叩いた。俺には一瞬、それが実は緑が俺を殺すために用意した、何かの化け物を呼び出す合図に聞こえて、反射的に身構えてしまった。しかしトンネルに響いたのは、犬が慌てて立ち上がる音だけだった。
「行きましょう柿崎さん。森はもうすぐそこです」
 立ち上がった緑はどことなく嬉しそうで、コツ、とトンネルに彼女の勢いが反響した。本当はもっと時間がかかると思うのだが、黙っておいた。俺達はトンネルの出口を目指す。

「ねぇ、私のこと愛してる?」

「あぁ愛してるよ」

「これからも愛してくれる?」

「もちろんさ」

 僕達は中学に入った頃に知り合った。僕は地元の小学校から、彼女はもうちょっと遠い小学校からだった。知り合ったと言っても、同じクラスで顔を知っていると言う程度で、初めは意識していなかった。僕らを誘惑するものなんか沢山あったのだ。初めてお互いを意識しだしたのは、中学三年の夏だった。まだ入道雲が張り切っていて、日差しはアスファルトをカンカンに怒らせ、その熱気は僕にも十分伝わっていた。受験を控えていた僕は、学校が主催していた夏期講習を受けることになっていて、その一日目に彼女に誘惑された。 僕は二時間の講習を受け終え、家に帰ろうと自転車にまたがり、やや西側に傾いた太陽を忌々しげに仰いだ。
「ねぇ、君」
 彼女は、丁度体育館の影に腰掛けていて、手でパタパタと扇ぎながら言った。
「悪いけどそのカゴに入っている荷物を取ってくれないかしら?日向に出たくないの」
 と、僕の自転車より三つほど右にあるママチャリを指差した。自転車にくっ付いているカゴの中には、学校指定のカバンが入っていて、やたらストラップが付けられていた。
「何故僕に取らせるのさ。自分で取ればいいだろう」
「言ったでしょ。日向に出たくないの。暑くて適わないわ」
 ふぅ、と暑そうに制服の襟を掴んで、空気を取り込むために、何度もひっぱった。ちらちらと、白い下着が見え隠れする。僕は仕方なくカバンを取りに行き、彼女に差し出した。
「ほら、これでいいだろ」
「ふふ、ありがとう」
 どうでもよさそうに、カバンを無造作に置いた。
「あぁ嫌だわ。今日はとても暑い」
芝居がかった口調で足を組みなおし、蟲惑的な眼差しで僕のことを見てきた。
「こんなに暑い日はむしろ思いっきり汗を掻いたほうがいいと思うの」
「ああ」
 僕の返事は虚ろだった。彼女の少し茶色のうなじを、一滴の汗がつーっと滑り落ち、白いセーラー服が徐々に透けた。
「ねぇこっちきてよ」
 僕は言われるがままに、彼女の隣に座ると、首にゆっくりと絡みつくように手がまわされた。
「見てちょうだい。こんなに汗を掻いてしまったわ。着替えなきゃ」
 見る必要は無かった。僕の肘のちょっと上の辺りは、彼女の鼓動と濡れた生地を感じていたし、彼女は僕の太ももの辺りに手を置いていた。とても熱い。
「分かった」
 僕はそれから五日間、学校で彼女の着替えを手伝った。そして僕らはその夏から付き合い始め、その年の冬に別れた。

 テントの中は乱雑としていた。でも僕にとってこのテントは母であり、僕は胎児だった。両手で膝を抱え僕は泣く。へその緒なんか無い。僕は必要とされない子供だったから。外では雨が降っていた。雨粒がテントを叩くたび、僕は体を震わせなければならなかった。雨は怖い。僕を大声で嘲笑い、打ちのめし、孤独にさせる。音楽を聴いているとき、友達と話している時、ご飯を食べている時、母が死んだ時、セックスしている時、雨はいつも降っていた。僕が浮かれたり悲しんだりしていると、謀ったかのように降ってくる。僕は酒巻さんの寝袋を抱きしめた。彼女が漂わせている雰囲気よりずっと深い匂いがした。
「フォガティ」と背後から僕を呼ぶ声が聞こえた。振り返ろうとしたら、すっと柔らかい手が僕の左頬に触れた。「振り返ってはいけない」酒巻さんはその左手を僕の胸の辺りにまわし、右手は首に絡みつくようにして、僕を起こし座らせた。僕達はテントの入り口に寄りかかるようにして座り、背中は、彼女の乳房の感触と心臓の鼓動が、リアルタイムに伝わってきた。外の景色は見えない。
「君は今まで良く頑張った」彼女は耳元で囁いた。「そして君は私に会う運命だったんだ」 彼女の腕の中は、自分の部屋みたいで不思議と雨音は聞こえなかった。雨が何であるさえ忘れてしまった。「フォガティ」と背後から彼女が呼んだ。
「はい」
「私は理由なんてただの自己弁護だと思うんだ」と彼女は言った。「何かに理由がある時、それはそれが存在するためのただの自己弁護だとしか思えないんだ。そしてそれは時として誰にも分からないぐらい深い所にある。周りが全てコンクリートのようなところだ。死だって一緒さ。あいつらは生を愛している。奴らが全てを朽ちらせるのは、『死ぬほど生が好きなんだ、仕方ないのさ』と自己弁護しているからだ」
「何故僕にそんな事言うんですか」僕には何故彼女がそんな事を言うのか理解できなかった。「僕が雨が嫌いなのは自己弁護だと言うんですか?」
「私にはある性癖がある」彼女は僕の言葉を無視して右手を見せてきた。綺麗な手だったけど、小指の爪が異常に長く伸びていた。「私は長く伸ばした小指の爪を、」と一旦右手を引っ込めた。「人前で噛み切るのに至上の快楽を覚えるんだ」再び僕の視界に入ってきた小指の爪は、とても短くなっていて、ぎざぎざしていた。初めて意識して彼女の爪を意識したと言うのに、それがとても不自然なものに見えた。間違えて別の所に生まれてきてしまった赤ん坊のように。
「噛み切るのが気持ち良いと思うようになったのは小学生ぐらいからだ」酒巻さんの声は少し震えていて、吐息が僕の後頭部より少し上の辺りにかかった。「そして自慰より気持ち良いと思うようになったのは高校生くらいからだ」彼女の腕は、何かから逃げるように僕のことを抱きしめた。とうとう、痛いです、と言おうとした時、急にパンクしたように彼女の体から力が抜けていった。「このように私の性癖はある種の超越した自慰行為なんだ。私はこの『理由』にいささかの不安も劣等感も抱いていない。しかし、君から見たら、異常な性癖を持つことでしかこの世界に依存できない、頭のおかしい女の自己弁護にしか聞こえないだろう」それは念を押しているようにも、予言しているようにも聞こえた。「そんな事ありません」左側から少し見える微笑に、僕はそう言う事しか出来なかった。

「私が欲しいかフォガティ?」
「はい」
 熱望していた。僕の脳や内臓が、酒巻さんを欲しがっていた。
「目を瞑るんだフォガティ」彼女はそう言った。「そのままゆっくり立ち上がれ」僕は言われたとおりにした。風が吹き込んでくる。「着いて来るんだ」と酒巻さんは僕の手を取り、テントの外へと導いてくれた。雨は全く怖くは無い。なぜなら、我が子のように優しく迎え入れてくれたからだ。僕が踏みしめる落ち葉も、雨の支配をうけたのにも関わらず、何故か乾いた笑い声を上げていた。「こっちだ」そう言う酒巻さんの声は、僕が握っている彼女の手より、ずっと遠くにある気がした。少し不安になって手をぎゅっと握り返したけど、僕には温かさが何なのか分からなくなっていた。
「フォガティ」
 と彼女の呼ぶ声が聞こえた。
「目を開けるんだ」
 僕は目を開けた。確かに目を開けたんだ。けれども僕が追い求めた姿は無かった。酒巻さんは何処にもいなかった。代わりに、僕の前には井戸がひっそりと鎮座していた。彼女が使っていると思しき、水汲み用の青いバケツもあった。井戸の中を覗き込むと、奥には黒い揺らぎがあった。干渉を受けるべき場所ではないのに、波打っていた。僕はなんとなくそこら辺に転がっていた石ころを掴み、井戸の中へと投げ入れた。ヒュウウウウウ。音が小さくなっていき、ぽちゃん、と音がした。しかしそれ以外にも僕には色んな音が聞こえた。もし、空気の階段を降りたなら、こういう音が聞こえるのかもしれない。僕は覚悟を決めると、靴を脱ぎ捨て、井戸の中へと飛び込んだ。彼女風に言えば、そうなる運命だったのだ。

 俺達はたった今「森」に着いた。割と夜中だ。人の気配は全く無い。俺達が立っている道路は舗装されていて、真横に伸びていた。そしてそれに沿うようにして、飽きもせずに森が続いていた。鬱蒼に生い茂る樹木はまるで要人の家を守る番人のようだった。人の出入りも無い様で、入り口はどこにも無かった。
「どこから入りましょう」と緑は言った。流石に寒くなったのか、白いコートではなく、黒い厚手のコートを着込んでいた。「これでは中にはいれません」
と森の番人とにらめっこしていた。
「しかたねぇな」いつまでもここにいても埒が明かない。「とりあえず一週してみようぜ。入り口が見つかるかもしれない」俺は右に歩いていった。あっ、と緑も小走りで追いかけて来る。
 数分後、それは意外と早く見つかった。人一人が少しかがんで通れるくらいの、「入り口」があったからだ。雑草や木の枝は鉈のような物で刈り取られ、森の奥へと続く道が出来上がっていた。
「誰がこんなことをしたのでしょう」
 緑は悲しそうに言った。
「どうしてこんな事をしたのでしょう」
「そうしなきゃ生きていけない奴がいたんだろ」俺が何気なく言った言葉は、俺の体に染み渡った。「行こう」俺は早足で森へと入って行った。
「柿崎さん」と雑草を踏みしめる音が俺の後に着いて来た。
 森の中はとても暗かった。月明かりは俺達を祝福してくれず、おかげで何回も蜘蛛の巣やら木の根っこに邪魔された。しかもちょっと前まで降っていた雨の所為で、辺りにはすえた匂いが立ち込めていた。この匂いを嗅ぐのも久しぶりだな、と俺は思った。
 暫く歩くと開けた場所に出た。周りに人が住んでいるような、住んでいたような形跡は無かった。でも、森と森の間に見えるものがあった。それは、
「井戸、だな」
 思ったとおりだ。石造りの深い井戸で、すぐ側に青いバケツが置いてあった。そしてまだ温かいスニーカー。それえを前足で踏みつけている俺は、既に確信していた。
「なぁ緑」俺は真剣に言った。
「俺は今からこの井戸に飛び込む。もしかしたらもう会えないかもしれない。お前はどうする?」
「飛び込みます」
 返事は拍子抜けするほどあっさりとしていた。
「私は彼に会います。そしてお礼を言います」
「……そうか」
 俺は暫く悩んだが、結局そう言ってしまった。俺が飛び込むように、誰にも緑を止められない。
「じゃあ一応言っておく。今まで本当にありがとう。お前がいなかったら俺は途中で諦めていたかもしれない。本当にありがとう。じゃあな」
 緑は優しく無言で頷いた。もうこれで未練は無い。俺は黒い穴の中にダイブした。

 町があった。家も、人もちらほらと見受けられる。でもそのどれもが霞がかった空みたく、ぼんやりとしていた。薄く、青白い。バクのようだ。
「すみません」と一番近くにいた人に尋ねた。「酒巻さんという女性を知りませんか?」しかしその人はゆっくりと振り返り(顔なんてなかったけれど)そのまま僕の側を通り過ぎて行き、そしてかき消されるように僕の視界から消える。それでも辛抱強く他の人に尋ねてみたが、結果は全て同じだった。皆僕のことに気付きもしない。地図を失って彷徨っているように見える。
 土がむき出しの地面をあても無くただ歩いていると、ちょっとした広場に出た。真ん中に噴水があり、その周りには色んな花が、「ねぇ、こっちきてよ」と僕のこと見ながら咲いていた。しかしそれより目を奪われる存在がある。
 バーだ。ぼんやりとはしておらず、西部劇にでも使われていそうだった。二階建ての質素な木の造りで、中央の入り口に掲げられている看板には、「BEER!」という文字と共に、泡が溢れ出ているビールの絵が描かれていた。急に酒が飲みたくなった。だから僕はそこに入って行った。
 驚いたことに店内は人でごった返していた。皆それが当たり前のように、机に座り酒を飲んでいる。皆バクだ。そしてまた気付いた。ここは温かいのだ。故郷へ向かう電車の中。そんな温かさだ。僕はなるべく人ごみにぶつからないようににして、誰も座っていない一番右端のカウンターに腰掛けた。
「ご注文は?」
 とすぐに店主が来た。バクでは無い。彼は日焼けしていたし、青白くは無かった。四十代半ばといった風貌で、ごつごつした荒っぽい顔だったけど、彼の絶やさない笑みによって、それは良い方向に修正されていた。「ビールを」僕がそう注文すると、すばやく奥へと引っ込み、暫くしてから、泡の溢れそうなビールと、頼んだ覚えの無いフィッシュ&チップスのようなものが運ばれてきた。「あちらの方からです」と微笑む店主の目線の先を追うと、青白いバクがこっちを向いて、ワイングラスを掲げてきた。僕もそれに習い、こぼれないようにジョッキで乾杯する仕草をした。やったことなんてないけど、そういうものだとなんとなく分かっていた。すると、そのバクは安心したかのように、またワインを飲み始めた。彼の体は透けているので、ワインが胃に溜まっていくのが良く分かった。「人探しに来られたのですか?」
 と店主はグラスを磨きながら僕に聞いてきた。
「どうしてそれを?」
 彼は笑って答える。
「まだ生きている人でここに降りてくるような方は、あまりいませんからね」つまり彼もその一人だということだ。
「酒巻さんという女性を知りませんか?」店主は顔を掻き暗す。「申し訳ありませんが存じ上げません。そして、大変申し訳にくいのですが……」と店主は目を伏せた。「その女性はおそらく亡くなられています」
「亡くなる?」僕は思わず声を上げてしまった。「酒巻さんが死んだ?」
「死んでいます。はい。この場所で誰かを望んですぐに会えなければ、それは総じて死者なんです。死者に会うことは出来ません。私も死んだ妻子に会いたくて、ここで二十年近くバーを営んでおりますが、私は結局会えなかった。
「でも僕は会いたいんです」彼の磨くグラスに僕の顔が映る。「彼女と会って伝えたいことがあるんです」
 そう言うと彼は考え込むように腕を組んだ。それが数十秒続き、やがて重々しく口を開いた。
「やはり会うことはできません。死者に顔はありませんし、お互い認め合うことはできません。しかし『合う』事は可能です」
 難しい顔でそう答えた。「合う?」僕は聞き返す。 
「はい。相手とつり合うものを見つけ、お互いそのものに共感し合うのです」
「それで酒巻さんと話せるんですか?」
「程度によりますね」
 こうしてはいられなかった。景気付けにつまみと、ビールをかきこんだ。そしてポケットから小銭を取り出し代金を支払った。
「しかしどうか気をつけて」僕が身支度をしていると、店主が心配そうに言った。「ここは本来私達がいるべき場所ではありません。長くいると私のようにこの世界に蝕まれてしまいます。水に浮かべたパンのようになってしまいます。上の世界で人が生きるのと同じように、こちらの世界ではバクが死んでいます。もしその彼女に『合えた』として、その先はどうしますか。彼女と共感して生きるのですか?その意味が分かっていますか?」
「それは僕の決めることです」
 店主に礼を言い、バーをでて行った。一刻も早く合うモノを見つける為に。でもそれは、バーの軒下で中断せざるを得なくなった。
「深山君」
 変わっていなかった。黒メノウみたいな髪、ブラックホールのような瞳。白いコート。先輩を模倣した飴を噛む癖。先輩の劣化品。
 緑が笑って立っていた。

 俺は愕然とした。荒れた地にそびえる、一本のバオバブの木に驚いた訳じゃない。
「久しぶりだね柿崎」
 そいつは「カキザキ」だった。二十年前、犬になる前の俺だった。くせのある前髪や細い目。全く変わっていなかった。
「いい加減くたびれてしまったよ。でもこうしてまた会えた事は嬉しく思うよ柿崎」
「何だってお前が出てくる」俺は怒りながら言った。「何だってお前なんだ。お前はもう俺のなかでケリがついてる」カーキ色の大地の上で俺の声が浮き彫りになる。
「だからこそだろ」カキザキは冷ややかな目で俺の事を見てきた。「今まで生きてきたから君は僕に会っているのさ。君はね、もう死んでいるんだ。あの光に吸い込まれた時そう感じた筈だ。君は死にながら生き、僕は生きながら死んでいる。欠けているのさ。僕らはプラスとして生まれて来たんじゃない。二つのマイナスが組み合わさっているんだ」カキザキはため息を吐く。「あの深山って男は死を模索していた。自分の妻に会うためだって。もうピンときただろう?僕達はモルモットだったんだ。不運な道連れさ。もう疲れた」
 そう言うとカキザキは土の上に寝転がった。確かに俺も疲れていた。長い間自分の死を探し続けていたからだ。俺はカキザキと同じように、地面の上に寝転がった。(違う)
「そうさ柿崎、バクになろう。生死を夢のように食らってしまおう」
 俺の真上に広がる空は、カキザキの言う事を正しいって言ってるみたいだった。バク、か。それもいいな(違う)何か新しいものを見つけた気分だ。安堵が俺の体に染み渡って来る。(それは影だ)
「ほらカキザキ。昔を思い出そう。好きだった女の子や、血の匂いを。思い出そう。僕と一緒にそれに焦点を合わせよう」
 俺の体は安堵によってふやけていた。昔が見える。今が見える。下にカキザキがいた。俺を笑って見ている。こいつはこうやって笑うのか。(自分を思い出せ)カキザキの体もふやけていた。俺達は微粒子となって握手した。本来あるべき場所へと還る。(思い出せ)何も思い出せない。
 大地の上に青白いバクが出来た。バクの空は灰色だった。

 緑は笑っている。その笑顔は彼女に張り付いているのかもしれない。あるいは、女がその笑顔に寄生しているのかもしれない。いずれにしろ、それはひどく僕を苛立たせた。
「どうしてあなたがいるんですか」僕と緑は、西部劇に出てくるガンマンのような立ち位地だった。振り返って銃を構えた時、僕達の時は止まる。「どうしてあなたがここにいるんですか」僕が尋ねると、緑は僕の事をじっ、と見つめ答えた。僕は目を逸らした。
「あなたを愛しているからです」
 緑は僕に歩み寄ってきた。そして、僕の頬に手を当てる。
「それが私のお礼です。それだけなの」
 緑は僕の唇に口を重ねてきた。手を後ろにまわしてきた。でも僕は何も感じない。彼女が哀れだった、それだけだ。
「お礼は済みましたか?」そのまま口を動かす。「僕は今忙しいんです。会いたい人がいる。あなたの気持ちは良く伝わりました。どういたしまして」首輪を取るように、彼女の腕を首から外し、唇を手の甲で拭った。「待ってください」立ち去る僕を、彼女は呼び止めた。「行ってはいけません」
 僕は緑を殴った。紅一点。
「いい加減にして下さい」それでも僕の事を真っ直ぐ見る、緑が鬱陶しかった。「何故あなたはいつも僕を止める?あの夜だって、あなたが僕を誘惑しなければ、先輩の自殺を止められたかもしれないのに」僕はまた苛々してきた。全て分かっている、と言いたげな緑の笑顔が僕の心を誘惑してきたからだ。
「妹を亡くして私は落ち込んでいました。私より綺麗な妹。私より何でもうまかった妹。私より両親に愛された妹。だから、正直妹がいなくなって少しほっとしました。でも、それはすごい悪いことです。だから落ち込みました。穴の深い所まで落ちそうでした。でもあなたがすくってくれた。私と寝てくれた。私はあなたを愛するために生まれてきました」 
 緑は僕に大々的に愛の告白をした。彼女は少しはにかんで、つま先で地面を叩いていた。僕にはそれが、他人の小説を奪い取って自己完結させたようにしか見えなかった。とても汚らしい。
「僕は先輩を失って落ち込んでいました。母も亡くして悲しんでいました。だから粗悪な免罪符に救いを求めました。今思うと愚かな行為ですし、未来永劫変わることはないでしょう。だからもう止めにしましょう。僕は新たに愛しい人をを見つけました。あなたには関係のないことです」
 僕は彼女の傍を通りすぎようとした。
「待ってください」
 彼女は僕の腕を掴み言った。
「死者に思いを重ねても何も得られません。石ころを愛でるのと一緒です。私と帰りましょう。帰結しましょう」
 僕は懐かしいワードを聞いた様な気がした。でも、それはすぐに思考の彼方へと飛んで行った。この人は彼女を侮辱した。
「もういい」
 僕はポケットから父さんのナイフを取り出した。
「一人でどうぞ」
 僕は両手でその鍵を掴み彼女の心臓をロックした。途端に彼女は糸の切れた操り人形みたいに、地面に倒れ、荒涼とした大地に彼岸花が咲いた。
「僕はあなたが嫌いです」
「その通りだフォガティ」
 後ろから聞こえた声に驚いて、瞬きをした刹那、世界が変わった。彼岸花は消え去り、バーも消え去り、ナイフも消え去った。灰色の空は夕暮れに変わり、周りには踏み切れない程の落ち葉があった。中心には僕と酒巻さんがいる。

 バオバブの木の下には、石ころと男がいた。男はロープを弄くるのに夢中で、石ころはただ転がっていた。石ころは孤独から、尋ねた。
「奥さんには会わないの?」ロープはくねくねと踊っていた。「ほどけないなぁ」石ころの言葉は届かない。「まだ彼女には会えない」男は依然として、ロープに夢中だった。彼は気にもたれかかって、ロープに没頭していた。僕も何かに没頭できたらいいのに、石ころはそう思っていた。
 フォガティは今頃何をしているだろうか、石ころには、それが先ほどから気になってしょうがなかった。フォガティは困った時いつも石ころを頼っていた。いじめを受けた時、雨が降った時、彼が初めて泣いた時、石ころはその全てに答えることが出来た。そして、自分を頼ってくれる事が何よりも嬉しかった。だから彼が自分の意志で家出をする、と言った時、石ころはとても満足していた。自分が彼をここまで強くした、自分がいなかったら彼はここまで強くなれなかった。
 でも……、と石ころは溜息を吐いた。今やフォガティは、自分の元から離れていった。あの酒巻という女の所為だ。いきなり現れて、いきなりフォガティを盗んで行った。石ころには出来ないことを、彼女はほとんどやってのけた。しかも彼の目の前で。石ころはフォガティに、彼女と別れるように、遠まわしに勧めたが、彼は石ころの真意を汲み取ることが出来なかった。おそらく、長年の友人が突然おかしくなったとしか思っていないのだろう。そう思うと、石ころは哀しくなった。他の誰よりも石ころを信頼している、という言葉がさらに拍車をかけた。そしてそれが最後になってしまった。フォガティは石ころの存在を忘れ、井戸をへと投げ入れた。その時、どれほど石ころが嫌がっていたのも知らずに。
「ほどけた!」ばっ、と天にすらりとしたロープを掲げ、男は感激していた。
「後は石ころを見つけるだけだ」と男はきょろきょろと辺りを見渡し、地面を這いまわった。程なくして、彼は手ごろな石ころを見つけた。
「うん、これが良い」
 石ころを、何回も汚れた手で撫で回した。「後は投げ込むだけだ」と男は、石ころをポケットにしまいロープを大事そうに抱え、歩き出した。
「助けてくれよ、フォガティ」石ころが泣きながらやっといった言葉も、ポケットの粗い布地に吸い込まれるだけだった。彼女は石である事を初めて呪った。

「その通りだフォガティ」と彼女は言った。
「人とは拒絶する生き物だ。邪魔なら拒絶すればいいんだ」彼女はやはり落ち葉の姿だった。少し残念。「他の適当な姿でも良かったんだが、私に『合う』のは落ち葉なんだ。切り捨てられたんだよフォガティ」酒巻さんは無数の落ち葉となり、僕の周りをクリオネみたいに舞っていた。
「私は本が嫌いだ」そう言った。
「嫌い、ですか」
「ああ嫌いだ。本に書かれていることは全部嘘だ。考えてみてくれフォガティ、本から一体何が得られる?本が戦争を終わらせてくれるか?違う、全くそんなことは無いんだよフォガティ。真実なら全て解決してくれるんだ。私は本が嫌いだよフォガティ。あれは存在する意味がない。何故そんなものが世界に蔓延っているのかも分からない。この世は分からない事ばかりだ、フォガティ。世界中の砂塵の数だって、宇宙の奥行きだって、誰も分かりはしない。ミロのヴィーナスの、失われた両腕に学術的価値があるなんて誰が分かる?もし、別々に展示されれば、芸術としては確立されるかもしれないが、それはお互い相容れない存在なんだ。トーストとオーブンのようなものさ。そしてそれは私達の事を言っているんだよフォガティ」
 彼女が僕の名前を呼んでくれる度、僕は幸せな気分になった。話はほとんど聞いていなかってけど、彼女がペシミスティックなことを言っているのは何となく分かった。だから、何故僕らが相容れないなのか、理解できなかった。
「そんなことはありません。僕は酒巻さんをこの通り愛しています。あなたが欲しいんです酒巻さん。僕達はロープで繋がっているんです」僕は彼女の中で必死にそう言う。
「僕は今まで何人かの女性と付き合ってきましたが、誰も僕の心を満たしてはくれなかった。先輩は好きでしたけど。皆自分本意で利己的なんです。僕のことなど考えもしない。みんな、隙間を埋める為に、僕と繋がったんです。でもあなたは違う。酒巻さんとは、もう手を繋ぐ事もキスも出来ません。でも誰よりも優しいです。だから僕はあなたが好きです。あなたを愛するために僕は生まれてきた」
 僕がやっとのことで告白をすると、暫く彼女は黙っていて、突然笑い出した。周りの落ち葉が全部バラバラになってしまいそうな笑い方だった。
「馬鹿げてるよフォガティ」
 まだくすくす笑っていた。
「なんだろう、君は愚かだな。本より愚かだ。まさか愛の告白が聞けるとは思わなかったな」
思い出したように、またくつくつと笑い始めた。
「君に似合うような言葉を私は知らないよ。憎しみと言うよりも、哀れすぎて親近感が沸くよ」
「で、でも酒巻さんがここに連れてきたんじゃないですか。それは僕が好きと言うことではないんですか?」
 苦し紛れにそう言った。
「好き?ああ確かに好きだよ。落ち葉にラヴコールをするなんて君くらいだと思うな」
「落ち葉?」思わず聞き返してしまった。
「そうだ。見れば分かるだろう?君は多分生きている。生者は死者に会う事は出来ない。しかし『合う』事は出来る。私、『酒巻』の本質を呼び出し、それに共鳴する。そういうことだ。そして彼女の本質は拒絶、つまり私だったと言う訳だ」
 彼女は馬鹿にしたように、僕の周りをひらひらしていた。
「『酒巻』はもしかしたら君の事が好きだったのかもしれないが、本質である私には何とも量りかねることだよフォガティ。君は酒巻には会えない。死ぬまでな。もしそんなに会いたいのなら、今すぐここで死んでみろ。そしたら一瞬で会えるぞ」
 そう言うと、落ち葉は全て地に落ちて、静寂が辺りを埋め尽くした。僕を試しているみたいだった。
「い、いやです」
 怖かった。
「たかだか女一人の為に死ぬのなんてごめんです、僕はまだ生きたい!」
 ホームレスの女にこの身を捧げるなんて最悪だ。何を考えていたんだろう。
「その通りだフォガティ」
 彼女は満足げに微笑んだ。本当に嬉しそうだった。
「やっぱり私はお前が大好きだよ」
 一枚の落ち葉が、僕の額に張り付いた。
       ※
 その後、僕は井戸の側で倒れているのを、水を汲みに来た、近所の老人に発見された。すぐさま救急車で病院に搬送され、一命を取り留めた。衰弱しきっていてとても危ない状態だったらしい。
 僕が眠りから覚めると、懐かしい顔が視界に入ってきた。 
「深山君!」
 そう言って抱きついてきたのは、中学生のとき付き合っていた彼女だった。
「心配したのよ。同級生から聞いたの。森で倒れているって……。もう死んでしまうかもしれないって……」
 僕の腕の中で泣く彼女の姿は、何よりも美しかった。そして何よりも愛しかった。「ありがとう」そう言えたのは、彼女がそのまま寝てしまって、どうやら当分起きそうにない、と分かってからだった。
 僕達は暫くして結婚した。式は東京で挙げ、彼女の田舎の埼玉県にあるアパートで暮らしている。生活は順調で、来月には子供も生まれる予定だ。マイホームも買えるように貯金もしている。そう、何不自由の無い暮らしだ。もう全て忘れた。今の僕には不必要だ。今日もまた、家族を支えるために働きに行こう。
 僕は、雨の中、道を行く。

 
 

2019年12月3日公開

© 2019 ハギワラシンジ

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