玄関のチャイムが鳴ったので、
「はい」
と僕は玄関へ向かった。
僕の行動に何もおかしなところはない。誰かが家を訪ねてきて玄関の呼び出しボタンを押した。それで僕は「はい」と言って――もっとも、この「はい」はいらなかったかもしれないが――玄関へと向かった。
繰り返すが、僕の行動におかしなところはない。だが、ドアの鍵を開けようとした瞬間、そのドアの向こうにいる誰かがこう言った。
「鍵を開けてはならない」
何かと聞き間違えたのだろうかと僕は思った。
「すみません、なんと言いましたか?」
「鍵を開けてはならない、と言ったんです」
「あのう……」
「すぐ済むんです。本当に!」
声に聞き覚えはなかった。若いのか年老いているのか、男なのか女なのかよくわからない声だった。なにがすぐ済むのだろう。ドアスコープを覗いても、指先か何かで塞がれていて何も見えない。言葉と言葉の間に、「しゅぼっ」という音が挟まるのが気になった。「鍵を開けては、しゅぼっ、ならない」「すぐ済むんです。しゅぼっ、本当に」といった具合に。自分で自分の耳の穴に指を突っ込んでで、抜いた時のような音だ。そして僕はいつのまにか、本当にそうしていた。つまり耳に指先を突っ込み、抜くを繰り返していた。僕はこの時ばかりは少しおかしくなっていたかもしれない。でもすぐにやめた。しばらく静かだった。外からはなにも聞こえない。もういないのだろうか?
僕は鍵を開けて確かめようと思って再び手を伸ばした。
「鍵を開けてはならない! 本当に!」
ドア一枚挟んですぐそこにまだいる。僕は手を引っ込め、だが、たまらず尋ねた。
「あの、何かしてるんですか?」
「ええ、もちろん!」
爽やかな返事だった。友達の部下に一人くらいはいそうな感じの。だが声以外なんの音も聞こえない。いや、声と、あのしゅぼっという音と。困った。悪戯か何かだろうか。何がすぐ済むのかわからないし、ドアを開けてはならないので確かめるすべがない。
「あのう……」
「はい!」
「僕って、ここにずっといたほうがいいんでしょうか? その、済むまで」
「ええ もちろん!」
まあ、外で何かやられてるのに、部屋に引っ込むのも気持ちが悪い。だけれども相手はこちらに対し、すすんでコミュニケーションをとってくるわけでもないようなのだ。僕は僕の知らない間に知らない何かが「済む」のを待つしかないのか。
「あのう……、何やってるかだけでも、教えてもらえませんかね?」
「それはならない」
「変なことしてるんじゃないでしょうね?」
「失敬な! ちなみに変なことってなんです?」
「いや、わからないけど」
「ねえ! 変なことってなんです! 具体的になんです!」
「あの、わからないけど、落書きとか、放火とか、鍵穴にガムをつめるとか」
「他には?」
「あの、ほんと、わからないですけど、卑猥なこととか……」
「卑猥なこと!」
「あの、性器をドアノブに擦りつけてるとか、精子を溜めたペットボトルの栓を開けて振り回してるとか……」
「うわあ、卑猥ですね」
「うん……。そういう類のことではないんですよね?」
「ええ!」
その時、部屋のほうから携帯電話が鳴り出したのが聞こえた。
「あの、ちょっと離れても……」
「それはならない」
「電話が掛かってきてるんですよ」
「聞こえます」
「あの、大事な用かも」
「ええ、おそらくそうでしょう!」
「だったら」
「それはならない」
「すぐ済むって言ったじゃないですか!」
「ええ、もちろん!」
今日は僕は外に出たかったのに。
了
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