変わらぬ風景

千葉 健介

小説

1,817文字

ブンゲイファイトクラブ落選作。どうか生暖かい目で御覧くださいまし。

三畳の部屋は露草色に満たされる。早朝の香り、野鳥の歌、それらがぼくの眠りを外側からくすぐるものだから、今日も目が覚めてしまった。眠っている間に誰かが粗大ごみを棄ててくれたらどんなに幸せだろうと思う。

 

 

ぼくの生活は排泄に始まる。どんなに美しい人だって、生きていれば排泄からは逃れられない。ぼくからすれば排泄なんてものはまさしく生の実感であり、資本で築いた宮殿や高級ブランドの服などよりもよっぽど美に近しいと思う。ほら、耳をすませば、狭い箱いっぱいに生命の躍動する音が響く。さあ、朝食の時間だ。

 

 

「いただきます」
米、味噌汁、焼き魚へ感謝のいただきますは忘れない。食事中は誰もが生を感じる刹那であると信じている。まさか、自分が生きているのか死んでいるのかもわからないで、何で出来ているかもわからない謎の食品で腹いっぱい食べようなんて思っている輩はいないはずだ。朝食は「まだだ」という神の言葉であって、それを聞きながら飲み込む命こそ至高の食事である。

 


 

しかし焼き魚を食べると毎度のこと、テレビのチャンネルが勝手に切り替わって、何度も見たドキュメンタリー映画が放送される。かつて生きていた身体にずぶずぶと異物を挿入して器用に動かす。切り離されたそれの一部をゆっくりと口に運ぶと、ドキュメンタリーの主役になった気分になった。生を取り込む者と生を捧げる者。生を維持する為の営みに、いくつの花が供えられたのだろう。

 

 

食事を終えると決まってぼくは新聞を広げる。で、ただ文字を目で追っている。内容が頭の中に吸収される感覚のない、何の意味もない目の運動。網膜へビジョンとなって現れる言葉の、その小さな欠片がいくつか集まると、ラジオが次の番組へ移った。ある仏教徒が淡々と喋るだけの番組で、その様は暗闇にこだまするお経である。ぼくはこのラジオ番組が嫌いだった。ここに居ない仏教徒は、死を見つめろとぼくに言う。なんて後ろ向きで暗いやつなんだろう!ぼくのふたつの水晶玉が捉える景色はこんなにも生に溢れているのに、どうして意識して死なんてうら寂しいものを見つめなければならないのか。そんなに死にたいなら殺してやる。ぼくは電源をたったひと押しで殺した。そこにあるのは音のでない角張った箱だけだった。

 

 

数ヶ月前と比べると、だいぶ髪が伸びた。だらしなく伸びた髪を手で払うと、チクチクする感覚が手の甲に数箇所現れた。
「触れてよ。ねえ、触れておくれよ」
手の甲の言葉かもしれない。もしくは髪、いや、神?求めに応じてぼくは手の甲をもう片方の手で触れる。こうしてぼくではないぼくと会話していると、やはりこの肉体が生きていて、生を望んでいる様に思う。ぼくではないぼくと別れる日はいくかやってくる。そのときぼくは何を視て、何を聴いて、何を味わって、何を嗅いで、何を想うのだろう。漆黒の三畳間からは外の景色を見ることは叶わなかったが、高みに御座す窓から一筋のブルーが差し込まれている。アア、最期に聴くのはこんな夜の、ドビュッシーのピアノの旋律が良いなあ。ぼくは泥の様な微睡みの中で恍惚とした。

 

 

週に三度、専用の運動施設で外気に触れることが出来る、この瞬間がぼくは大好きだった。遠い昔に亡くした母親に抱かれた気分で、格子に覆われた空間を泳ぐ。生きとし生けるものは皆、太陽と接吻して澄んだ空気を遊泳して、花鳥風月に語らう権利を持って産み落とされる。他者の死なんて知ったことか。ぼくらは生を感じる為に、容易に他者の生を奪える。ドキュメンタリー映画の中で見たぼくは、尊い生の中に在る為に数多の生き物を生の中から引きずり出した。ぼくにだって静寂の中、生に包まれて眠ることを許されている筈なのだ。その為に必要なことなら、仕方なかったのではないだろうか。そうしてぼくは何回も殺した。日々の生活の全てが「次はお前の番だ」と囁いてきて、聞き苦しくて、思わず涙が溢れる。世界と接続された空間に、力の限り、出せる限りの声でぼくは叫ぶ。
「死にたくないよ」
白縹色の水にゆっくりと沈んでいく。立ち昇っては届かない距離にまで行ってしまった泡は、見知った顔や景色を映し出して散っていった。何も見えないぐらいの水底に沈むまで、あとどれぐらいの時間が掛かるかをぼくは知らなかった。

2019年9月26日公開

© 2019 千葉 健介

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