六錠あった抗うつ薬が一錠の半分にまで減った頃には、二年とちょっとの時が過ぎていた。
季節は春で、午後、アパートのベランダから外の景色を眺めていると、こちらに手を振る黒いコートの男が見えた。亮介おじさんだった。
部屋に上げると、まず懐の具合を訊ねられた。口から出まかせに、障碍者手帳について考えている最中だと答えたが、おじさんは無視して、ちゃぶ台の上にA4のコピー用紙の束を重ね始めた。見ると、個別指導塾についての紹介であった。おじさんは、来年の春から新校舎をつくるつもりだと言い、つづけて、ぜひ君にそこの塾長になって欲しいと言った。俺は、面食らい、無理だと答えた。
しかし、おじさんは言葉巧みであった。まずアルバイト講師として経験を積んでもらって云々。次に半年間で副室長として経営のイロハを学んでもらって云々。説得は長時間に及んだ。一晩考えて俺は、提案を呑むことにした。
次の年の春はすぐに来た。
修行期間で、しかるべき素質が俺に備わっていないことは僚かであったが、線を踏み超えた時点で、退路は霧に消えていた。
「卒業おめでとう、かな。」
飲み屋のカウンターにつくなり、上司の島田塾長はそう言った。俺は、曖昧に笑った。
「どうだ、山崎くん。これからやれそうですか。」
「やれそうにありませんね。」
そう言ってみたが、はたしてそれは本音であった。
「それはつまり、子どもが好きではないから?」
おしぼりで顔を拭いながら、島田さんは言った。そうして、生二つ、と店員に告げた。
「それもありますね。」
と俺は言った。
「殺したいほどか。」
突飛な質問だった。俺は、「そこまでではないです。」と答えた。
「それなら大丈夫だよ。殺意さえなければなんとかなる。ぼくなんて、毎日殺意だらけでやっているけれど、なんとかなっている。ヤ、君の目から見てなんとかなっていないと思っても、ここはなんとかなっていることにしてくれ。」
と島田さんは笑った。ビールが来た。我々は乾杯した。
「君はこの一年、よく耐えた。実によく耐えた。それで君も骨身に染みて判ったと思うけれど、この仕事は、つまり、辛抱なんだよ。究極的なことを言うと、辛抱でしかない。」
「そう思いますね。」
周囲をうかがって、俺はうなずいた。
「アルバイトの初日にも言ったと思うが、個別塾は、少なくとも今はまだ一応、かろうじて存在価値がある。」
「随分と留保をつけますね。」
「せっかくの門出なのに、こんな言い方しか出来なくて悪いが、本当のことだよ。ぼくが塾に入ったときは、上司から『十五年食っていけるノウハウを教える』なんて言われたものだけどね……。で、それから今年で実に十二年経ったわけだが、それと同じことを君に言ってあげることはぼくには出来ない。」
「十五年後にも個別塾があるとは思えませんからね。」
「そう。ぼくはもう十年ともたない職業だと思っている。その寿命は、ことによると、五年にも満たないかもしれない。塾の形態上、度重なる教育改革に対応出来るとは思えないし、AIの進化も怖い。それに生徒の質に関しても……。」
島田さんの声は、苛立たしげにひびいた。
「だけど、少なくとも今はまだ一応、かろうじて存在価値がありますね。」
と、俺は島田さんの言葉をなぞった。
「そう……。なんと言うか、託児所としてだが。」
「まったく、託児所ですね。」
島田さんは馬鹿笑いした。
「個別塾は発達障害のデパートになっている。もちろんウチはそうだが、しかし全国の塾を見回しても状況はそう変わらないと思う。だとするのならば、それが個別塾の存在意義なのだろう。」
「発達障碍児の増加に関して、俺の精神科の先生は、食品添加物の所為だと言っていました。」
と、俺は話題を変えた。
「そうだね。それは正しいと思いますよ。」
島田さんの目は赤かった。「しかし、そうした原因に対して我々は何も対処することが出来ない。学校の教師も対処が出来ない。どうしようもない。」
そう言って島田さんはビールを一気に半分ほどまで呑んだ。俺も、舐める程度、口に含んだ。そうして、
「島田さん、俺には自信がないんです。」
と言った。
「自信は誰にもないよ。ぼくにもないし、おそらく社長にもない。」
「それは良いことだと思いますか。」
「どういった視点から見てその善悪を判断すればいいかは判らないが、まあ良いことではないな。ほら、なんだったかな、米倉涼子が主演してるドラマの……。」
「『わたし、失敗しませんから』。」
「そうだ。ああいった態度をとれるのが一番だと思うよ。それがプロとしての態度だ。だが一方で、人間がこれまで絶滅せずに生き延びて来られた背景には、『不安』というものの存在が大きいのも確かだ。これはDNAレベルで結わえられた感情であって、まったく取り除いてしまうことなんて誰にもできやしない。いや、誰にも、ということはないのかな。超人であればそれも可能なのかもしれないが……。」
そう言って、島田さんの視線は宙を泳いだ。そうして、
「……要するに、ぼくも君も凡庸だということだ。凡庸ということに対して、善悪の判断はつかない。」
俺は、下唇を噛んだ。
「悪いな、励ましてやれなくて。」
「いえ、あまり俺に期待していないことが判っただけでも、随分と楽になりました。」
島田さんは苦笑した。「期待はしてるよ。君は慎重で辛抱強い。流されることの重要性も知っている。ひょっとしたら、ぼくよりはるかに優秀なのかもしれない。ほどほどに頑張ってくれ。」
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