暗い海水の臭気がたっぷり染み込んだ、夜の内臓が破裂するような濁った音をたてて、車体が減速帯の上で跳ねた。運転手がブレーキを踏み込んでハンドルを左に切った瞬間、バスは車輪を焼きながら横滑りして、ガードレールの肩に頭をもたせかけるような姿勢になり、そのまま眠りに落ちるかに見えた。すでに片目だけになったヘッドライトをこすって眠気を飛ばすと、こんどは反対側の縁石に噛みついて、植え込みごと丸呑みにし、急斜面のコンクリート壁に激突してやっと静かになった。空港へ向かう最終のモノレールが、その上を音も立てずに通り過ぎていった。
扉がこじ開けられ、一人の男がバスの垂らした耳漏みたいにステップをよろけながら降りてくる。足をつこうとした場所がちょうど側溝になっていて、男は一瞬、自分が宙に浮いたのだと錯覚した。おれは天使にでもなったのか。しかし、そこはまぎれもなく地上であり、彼は寸分の隙もなくただの人間だった。
やがてサイレンが聞こえてきて、人が集まりはじめたとき、男は誰にも気づかれず、その場所から姿を消してしまった。
出血はなさそうだが、頚椎が痛んだ。頭もくらくらしているのは脳震盪だろうか、だが歩けないほどじゃない。視界の右側に、白やオレンジの光を滲ませている黒い水面の断片が見え隠れしている。地面全体が、河口に浮かんだ巨大な象の背中のように揺れている気がした。急に何人かの黒い影が、大声を出して向こうから近づいてきた。切迫したその雰囲気からするに、彼らは酔っ払いなどではなく、この地域の警察隊か鉄道の係員のように見えた。
「おい、事故を見たか」とそのうちの一人が、すれ違いざまに聞いてきた。
「いや、おれは。見た人間なら、あっちに何人もいるさ」と男は答えながら、曖昧に後ろを振り返り、なんとなく顔を伏せるようにして再び歩きはじめた。ワイシャツのボタンを、またひとつ外した。
頭上では、モノレールの線と交差するように首都高速の高架が空を渡っていて、その真下の暗がりに、不法投棄された粗大ゴミがいくつか小山を築いている。野良猫も寄りつかなそうな、二つの道路に挟まれた狭い雑草地帯だ。昆虫か鼠を追ってうっかり飛び出せば、さっきのカーブとは別の、北側に真っ直ぐ延びる車線から速度を上げて突っ込んでくるトラックにぺちゃんこにされる。もっとも、雑草も枯れかけたこんな殺風景な土地に、昆虫すらいるかどうか、あやしいところだった。
途中、何人もの人とすれ違ったが、誰も彼を気に留める者はいなかった。高架をくぐれる場所まで来ると、男はその下を抜けた。
闇の紗がかかった、一面鉛色のバラック街。死に絶えたように人気がなく、湿気を溜めた夜の底に沈んでいる。
なんの前触れもなく、足から漁網で掬われたみたいに全身の皮膚が粟立つ。目を凝らすと、剥がれてぶら下がったトタンの陰に、男の子が立ってこちらを見ていた。
首のあたりを庇いながら、男はゆっくりと子どものほうへ近づき、「こんばんは」と声をかけた。五つか、まだ六つになったばかりくらいだろうか。幼年期の夢遊病はわりとよくある話だというし、あるいは、騒いだ大人たちの声で、寝かけの目を覚ましてしまっただけかもしれない。
「きみ、家はそこかな? お母さん、心配するから帰りなさい。もう遅いんだよ」
「おじちゃん、バスで来たんだろ」幼いくせに、非難のこもる声だった。
彼は子どもの目を覗き込んだ。目の奥に、タールで翅を洗ったような、黒い蝶が飛んでいるのが見えた。
「何言ってるんだ。さあ、寝言はよして、家に帰るんだ。それ、きみのかい?」
墓場から掘り出してきたような、錆びついた汚いキックスケーターが、子どもの後ろで転んでいた。彼はそれを使わずに、手で引っ張りながら歩き出すと、また急に立ち止まって男のほうを振り返った。
「雨が降るよ。寝るところ、ないんでしょ」
ねぐらなど、あったためしがあるものか。支払う宿賃のことを考え、ポケットに手をやったが、あるはずの財布がなかった。男は子供の後を歩いた。なるほど、おまえの家の納屋でなら、宿代の心配もいらないというわけか。子どもに、こんな場合にふさわしいと思われる短い礼を言うと、すぐに綿飴のような眠りにくるまれて溶けていった。
男は朝早くに起きたつもりだったが、もしかしたら昼になっていたかもしれない。まだ少し、めまいがするようだった。
引き戸を開けたとき、男の目は光に灼かれ、突然、昨夜の衝撃と、あのとき瞼の中に散った火花とリンクした。白銅色のホリゾントに、何人かの男たちが立って男を見ていた。目が慣れると、バラック街は案外遠くまで広がっており、そのさらに先に、首都高速の橋梁が、ニッケルを混入した虹のように重たく低く架かっているのが見える。
「さっそく連れ込んだってわけか」と、男のうちの一人が、嗄れた声で皮肉るように言った。
「あんた、絵万姉んとこの親戚か」べつの一人が粛然として言った。
男はどう答えたらいいかわからず、「いや、おれは」と小さく呟いただけだった。
「それともあれかい、テルの父親なのかな?」
「いずれ、平成人にちがいねえや、平成から来たんじゃ用無しだ、帰んな」
男にしてみれば、そこまで厳しくよそ者扱いされる謂れはなかったにしても、やはりここにいることで、後ろめたさのようなものを感じずにはいられない。ほんの一晩の雨をしのぐためとはいえ、ともかく、おれは見知らぬ土地に紛れ込んでしまったのだ。
「お邪魔してすみません。もう、行きますから」と男は言った。
そのとき、洗濯籠をさげた女が、男の泊まった建物から出てきて、みんなの前に歩み寄った。男は狼狽えた。あそこにはおれひとりしかいなかったはずだ。すると、どこか母屋に抜け道が通じていたのだろうか。
「よしなさいよ、ひとの弟を捕まえて。ぎりぎり昭和なの。そこらの間抜けな平成さんとは一緒にしないで」
女に追っ払われた男たちは、渋い顔をしていたが、誰かが「近親相姦はよくないぜ」と野次を飛ばすと、卑猥な哄笑が起こって、海からの風が黄色く濁った。
"改元難民"へのコメント 0件