わたしはもちろんその離婚届に署名して役所に持ってく勇気なんかなかったし、なんなら仕事なんかもちろん手につかなくなって、物忘れだって連発して四六時中怒られて、ある会議資料の作成を頼まれてるとき、いや、上司のプレゼンのやつかもしれない、でも、ああそうだ表を作らなくちゃいけなくて、エクセルでセルに罫線を入れてるまさにその瞬間、なんかもうだめだなと思って笑っちゃってさ、たまたまこの前日に病院に行ってて薬がそのまんま鞄に大量に入ってたってのもあって、だから平凡さと自分の社会における価値のなさをバシバシ問うてくるすっからかんのデスクの上に抗うつ剤や眠剤を並べて、順番に放り込んで行った。こんなやつ頭殴ってやりたいほどはた迷惑すぎるってわかってるけどさ、周りはばたばたと忙しそうに歩き回っていたり電話していたり、仕事のことについて激しい口調で口論なんかしちゃったりして(何で皆あんな本気で語れるんだろう? 何で皆、使命感や責任感を持つことができるんだろう?)誰もそんなことをしているわたしに気づかなかった。
わたしは自分がその組織のなかで何の可能性も秘めてはいなかったし、それを気づいていたのに、ちょっとでも努力して自分で変えようともしなかった。わたしはそれを無意味だと自分で勝手に判断したから。偉そうに、何にもできないくせに、この場所を差別していたから。だからわたしはこの空間で、本当に紙一枚、ぺっらぺらの存在感だったから、それをいいことに、薬をどんどん口に突っ込んでいって、っていうかもうあんまり記憶がない、それで目が覚めたら思った通り病院で脇にマシオさんと猫がいてくれたらどんなに素敵だろうと思って白靄がかった瞼の先の光景をじんわり見つめたら、こればっかりは幻でも、夢の中でもなくて、そのライダースと黒のとんがり帽子は紛れもなくマシオさんで、ジミヘンのTシャツの中から耳がちょこんと折れた猫が顔だけ出してガラス玉みたいに潤んだ目でわたしを見つめていたのだった。
「……マシオさん。」喉が詰まって、声が潰れた。
それでも、お、ぉ、い、マ、シ、オ、さ、ん。と、わたしは空気の粒みたいな音を吐き出し続けた。マシオさんは呼び掛けても何も答えなかった。猫を片手で抱きながら、ひたすら天井を向いてサッポロ黒ラベルの350缶をグビグビ喉に通し続けていた。缶が空になるとぁぁ、と言って小さく小刻みに体を震わせ、それから床に空き缶を放り、一度踏みつけ、またプシュゥと次の缶を開けた。
お、ぉ、い、マ、シ、オ、さ、ん。プシュゥ。お、ぉ、い、マ、シ、オ、さ、ん。プシュゥ。
看護師さんがわたしの股にぶらさがってる尿パッドを取り換えにきた時、マシオさんのその有り様を見て「ちょっとあなた! 何してるんですか!」と叱ったけど、それでもマシオさんは飲むのをやめなかった。
お、ぉ、い、マ、シ、オ、さ、ん。プシュゥ。
ついに人がたくさんやってきてマシオさんが病室から連れ出されるその間際になって、「ハルコがこんなんなってもオレは飲んじゃうんだよ、」と言って、だから、わたしはあらん限りの力を振り絞って叫んだ。
「でもマシオさんはまだわたしの旦那さんなんだよ!」病室の外から号泣する声が聞こえて、そんなことはもちろん初めてのことで、それが何分かあって、
「ハルコ、猫にちゃんとご飯あげたから、」という言葉が返ってきた。
*
一週間欠勤して、それからやっと会社に出勤したのはいいものの、当たり前だが誰も話しかけてはくれなかったし、明らかに皆よそよそしくなって、悪い方でわたしはこの空間で意味を持ってしまうことになった。誰にも仕事を回されなくなったから、周りの人間たちが慌ただしく振り乱している中、一日中パソコンの画面を見つめて、飽きたらソリティアをして、定時になったら家に帰った。それを一か月続けて、ちょうど給料を貰える日になったからわたしは自分から辞表を出して本当に申し訳ありませんでした、と頭を下げて、すぐに家に戻った。
*
マシオさんが家にいるなんてわたしはその時思わなかった。どこかへふらりと行ってしまって、またどこかの飲み屋で酔い潰れている、ここから遠く離れた場所で。何かと、もしくは誰かとズタボロになるまで戦って、負けている。どうやっても世界から浮いてしまうわたしたちは、二人でいると余計にその現実がわかって、辛くなってしまうのだから。
猫だけが暖房のついた部屋でごろりとなっていると思っていた。だけど、玄関の扉を開けると華奢な頭が見えて、横になっているそれは肘をついてテレビを見ていて、何か缶が見えたけどどうやらノンアルコールと書かれていて扉を開ける音にそれは気づいた。
そしてマシオさんは「おかえり。」とわたしに声をかけた。
「ハルコの入ってた宗教から電話きたんだけど、やめますっていって、でもなんか無理って言われて、クソ脅したら、結構金返ってきた。やっぱオレ長野のヤンキーでよかったな。あとコンロの上に味噌ラーメンがあります。」
マシオさんはあのいつもの感じで、あのわたしがたまらなく好きなあの様子で、ヘラヘラしながら言った。
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