四月八日 晴れ
かぐや姫が五人の貴公子を手玉に取って帝まで振ったって話が日本最古の物語なら、どうして同類の話が他にないんだろう。『宇津保物語』は遣唐使の船に乗ったらペルシャに着いて秘伝の琴を習って帰国するってトンデモ話だし、『落窪物語』は継子いじめのシンデレラストーリーだし。『源氏物語』が出てからは亜流みたいな物語しかないなあ。
それにしても大学図書館の裏に下宿できて本当に良かった。授業以外は好きなだけ本を読んでられる。家賃は電気代込みで二万円。庭先のプレハブ小屋だけど大きい窓があるから風がよく通る。もともとは土佐犬の小屋だったらしい。家主の爺さん婆さんは本当は男子学生に来てもらいたかったみたいだけど、犬小屋に住みたがる物好きなんか私しかいないって。刑務所の独房ってこんな感じかな。本読んでられるなら一生独房でもいいな。
五月二十日 小雨
菅原孝標娘は『更級日記』で「あづまぢの道の果てよりもなお奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかあやしかりけむ」って言ってるけど、常陸国なら当時の大国で裕福な生活だったはず。それでも『源氏物語』は京でしか入手できないのか。几帳の陰でひっそりと『源氏物語』を読むって極楽だね。「妃の位も何にかはせむ」って気持ち分かる。プレハブ生活万歳。でも本の収納スペースが足りない。足元のスチールラックはもう一杯で、本が布団に進出している。
六月三十日 雨
焼けた鉄を素手で持って神前に運ぶのって鉄火起請って言ったっけ。神の加護があれば火傷しないとか無茶なことを言ってた。何かの物語で湯の煮えたぎった釜の中の石を取り出すってのもあった。無罪なら火傷しないと。
光源氏が愛した女は、葵上、空蝉、軒端の荻、六条御息所、夕顔、源典侍、藤壺、末摘花、紫の上、朧月夜、花散里、明石、女三の宮、他に召人として中将の君とあと一人誰だっけ? これだけの女をものにしても何のお咎めもないどころか称賛を浴びるのが男。
二人以上の男と寝た女は、空蝉、夕顔、六条御息所、源典侍、藤壺、朧月夜、落葉宮、女三の宮、真木柱、宇治十帖の浮舟。このうち不倫と言えるのは空蝉、藤壺、女三の宮。三人とも婚姻以外の情事を悔やんで出家しているけど納得いかない。寝込みを襲われたり、泣いて頼まれて気の毒になって許してやったら姦通呼ばわりだし。
今日はキズオが来た。『源氏物語玉の小櫛』を持って来てくれた。こないだは美麗な絵巻図版も貰った。眉毛の上に並行の傷があるからキズオと呼んでいるけど、本名はいかにも由緒ありげな家のお坊ちゃまという感じ。広尾の立派な家に住んでいるくせに私の犬小屋を面白がってる。気取ったところがないのが気に入ってるんだけど、この暑いのに何回もやりたがるのはうざい。シャワーを浴びに行くのも面倒。
七月三日 晴れ
為永春水の『春色梅児誉美』、天保年間出版で柳川重信挿絵! さすがキズオ、国文科江戸文学専攻って喜んでたら調子に乗って生でやりたいと言い出した。中で出さないからとか言うけど信用なるか。でももっと良い本をくれるのなら考えてもいい。
セックスってどんなにロマンチックで気持ちよくて罪深くて後ろめたくてめくるめく(ってどんな感じ?)ものかと、あれこれ想像してしていたけど別にどうってことなかった。『源氏物語』の女君たちは、たまにしか訪れない光源氏を恨んで泣いてばかりいるけど、そんなにやりたいものなのかな? 衣食住保証されて書物も読めるのに何が不満なんだろう? ま、キズオ相手だからそう思うのかも。一日でも逢えないと焦がれ死んじゃうほどの男、満開の桜が色あせるほどの美男、魔神に魅入られるほどの桂男なんか本当にいるのかな。『春色梅児誉美』、好きなんだけど、やっぱり色男一人に美女複数の組み合わせだなあ。
九月二十日 曇り
プレハブがヤバい。本が布団の左右に積み上がってモーゼの十戒状態。
初めて鼻太郎が来た。鼻が高いから鼻太郎。独文科の三年生で出身は新潟市。俺、田舎者で、とか言ってるけど新潟って十分都会だろ。
『ニーベルンゲンの歌』、『ニーベルンゲンの指輪』の豪華本。鼻太郎は物語もオペラもなかなか詳しくて、『歌』と『指輪』でジークフリートの妻がクリームヒルトからブリュンヒルデに変わった訳を話してくれた。夢中で喋っていたら押し倒された。なんでワーグナーの話しながら欲情できるんだろ? でもあんまり慣れていない感じだった。ごめんね、なんて謝ってた。次もこんな本を持って来てくれるなら許すと言ったら、次は『トリスタンとイゾルデ』を持って来てくれるって。
そうそう、煮えたお湯から石を取り出すのは『トリスタンとイゾルデ』だった。「盟神探湯」って言うんだね。物語だからイゾルデは火傷せず石を取り出せたけど、トリスタンとは体の関係がなく終わったんだな。キリスト教国の物語は厳密に一夫一婦制の建前を守っていて分かりやすい。結婚後の恋は命懸け。バレたら処罰されるのはもちろん女。
十月九日 晴れ
同学年の子は避けたかったんだけど。でも『ルバイヤート集成』なんか持って来られたらねー。図書館には置いてない珍本。
彼のことはチン太と呼ぶことにした。あれが大きいから。大きいのは嫌だ。炎症起こしちゃったみたい。チン太は初めてだった。本人は自分が大きいことを知らなくて自信なさげだったけど別に教えてやる義理もないし。やたらベタベタくっつきたがるのも嫌。それより『ルバイヤート』のペルシャ語を教えてほしい。
『ルバイヤート集成』は日本語の古今の名訳が対比してあって、詩人の言葉を深読みさせる工夫がいっぱい。これから読むけど眠れなくなりそう。
十月十一日 曇り
来るなら来週にしてくれと言ったのにチン太がまた来た。逢いたくて我慢できなかったんだと。本は持ってきていないけど、代りに『Encyclopaedia Iranica』をくれるというので入れてやった。欲しかったけど高くて買えなかった辞書。
チン太は覚えたてのセックスに夢中であれこれ試したがるけど困る。私が興味があるのはあんたのちんちんじゃなくてあんたが持って来る本なんだけど、と言っても聞いていない。それに布団がチン毛だらけになる。あそこだけ異様に毛深いんだから。剃ってこいって言おう。
マルク王は燕が運んできた長い金髪を見て、トリスタンをアイルランドに差し向けてイゾルデを迎え取った。おかげで無敵の騎士トリスタンと美しいイゾルデの悲劇が起こるわけだけど、燕が運んできたのが陰毛だったらどうしただろう?
十月二十日 晴れ
久しぶりにキズオが来た。お前、えらい繁盛じゃねえかってニヤニヤしてた。それからマジ顔で俺みたいなのはいいけど、純情な奴をからかうとひどい目に遭うぞって言った。さては鼻太郎やチン太にプレハブ犬小屋に行ったらやらせてもらえるってそそのかしたのか、と聞いたら違うよって言って目を背けた。うそつきめ。
でもキズオが持って来たのは超上物。『竹むきが記』に『とはず語り』。私が読みたいものをちゃんと知ってる。本の山を面白がって無造作に本を抜こうとしたのを止めた。一冊抜いたら代わりをあてがわないと崩れてしまう。こんなひでえとこでやる気になんねえなって帰って行った。
十月二十五日 晴れ
鼻太郎に誘われて神田の古本屋街に出かけた。手をつなぎたがって困った。あの店はこう、この店はこの分野、なんていろいろとウンチク傾けたので、感心して褒めてやったら古本を十冊ほど買ってくれた。安くもない本だったのに。お昼もおごってもらった。本当はこの後、ラブホへ行きたかったらしいけど金がなくなったみたい。ちょっと可哀想だったから帰りに寄らせてやった。鼻太郎は話はすごく面白いのに布団の上ではなあ……でも収穫物は『聊斎志異』全訳! 怪奇譚大好き。
十一月三日 晴れ
チン太がうるさい。他の男と付き合うなと言う。本が好きで気が合った人と仲良くして何が悪いって言ったら、そんなに男が好きか、淫乱女って罵るから頭に来てもう来るなって言ったら、青筋立てて拳をブルブル震わせた。ヤバい、殴りかかって来たら防ごうと日本絵巻全集を構えたら、チン太、がっくり膝をついて泣き出しちゃった。何でもいいからまた来させてくれって。なら最初からそう言えばいい。本を持って来てくれたら邪険にはしないよ。
チン太に縋りつかれてせっかくシャワー浴びたのに無駄になった。その上、奴の足が当たって左側の本の一角が崩れた。もう少し強く当たったら左壁が全部崩れるところだった。新しい本はもらえないし本の積み直しで大変だった。
十一月十日 曇り
学校から帰ったらドアの前にビニール袋が置いてあって、中身は『ジャンヌダルク』と『八百屋お七』。キズオかな、律儀に本だけ届けに来たの? でも組み合わせが変。フランスと日本、聖女と犯罪人……ああそうか、二人とも火あぶりで死刑か、クイズみたいなことを。こんなことするのは鼻太郎かな? でもこの頃全然来ていない。チン太も来なくなった。
ま、ありがたく本はいただいておこうっと。これ読んじゃったら新しい本がなくなる。明日は図書館に行こう。
どうしたんだろう。なんか急に揺れた。あーあ、本、きちんと積み直しておくんだった。腰から下が埋まっちゃったよ。困った。
***
十一月十一日の某新聞社会面
十日深夜、北区滝野川二丁目の民家の庭先から火が出て、庭に設置してあったプレハブ小屋が全焼、焼跡から女性一人の遺体が見つかった。このプレハブ小屋で生活していた大学生と見て警察が調査している。また、消火しようとしたこの家の老夫婦が軽い火傷を負った。
Blur Matsuo 編集者 | 2019-01-21 22:55
破滅派14号での『一休、応仁の花だより』を読んで、大変感銘を受けました。とても古典に精通されてるのだなとこの作品でも感じました。女性が男性を悪気なく弄ぶという古典へのアンチテーゼも考えさせられました。
個人的に最後は少し短絡で、残酷すぎるかなと感じました。
Fujiki 投稿者 | 2019-01-24 21:43
「三人とも婚姻以外の情事を悔やんで出家しているけど納得いかない」「バレたら処罰されるのはもちろん女」と、東西の文化における不倫に対する男女間での不平等に対して本作のヒロインは意識的に批判を繰り返す。それだけに彼女がその不平等に打ち勝つことなく最後に性の放埓の罰を受けるのが悲しい。突き放すようなあっけない結末は『軽蔑』のラストで不倫相手と交通事故死するブルジット・バルドーを思わせた。男性作家が女性の物語を描くときのような残酷さがある。
長崎 朝 投稿者 | 2019-01-24 22:12
一見、犬小屋における本好きの少女(更級日記にのっとって、知と文学を追い求めるキャラクター)の読書と情事日記の体裁をとっているが、不思議な物語だ。少女は男が本を与えてくれる見返り(だけのため)に機械的といっていいほどシンプルに体を男たちに提供しているように見える。彼女にとっては、男=本を献上する者である。セックスはあくまで、本との交換によって成立する。社会経済の主役が貨幣であるように、この物語の主役は本でもある。
対称的な交換条件の崩れたところに存在するのが仮に愛と呼ばれるものだとすれば、徹底して等価交換(と思っている?)の中に身を置く少女は、何かを拒絶しているようにも見えるけれど、それが単純に愛なのか何なのか、自分の読みでは読みきれなかった。かといって作者の男女観が投影されているわけでもなさそう。
さらっとしているようで難解な作品だと思う(話自体が読みやすいから、逆に深読みに誘われてしまっただけかもしれない)。
ラストで火あぶりの処刑という暗号が提示され、自分で積み上げた本に埋まり、焼け死んでしまうというのが寓話性を帯びていてとてもよい。
一希 零 投稿者 | 2019-01-25 14:00
ラストのオチは、むしろ古典っぽさがあって僕は上手いなあと思いました。それぞれの登場人物の「キャラ感」も流石ですし、風刺っぽさも見事です(風刺っぽさ、という表面しか捉えられていないのは、僕の未熟な読解のせいです)。
新潟市出身の鼻太郎に僕は感情移入してしまいましたが、いやあ、鼻太郎の新潟男子感はすごいです。新潟は、女性がしっかりしていて強く、男性はイマイチ頼りない、という県民性が少なからずあるらしいので。
退会したユーザー ゲスト | 2019-01-27 15:17
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牧野楠葉 投稿者 | 2019-01-28 20:07
犬小屋に住む読書好きの子の日記形式というのはなかなか思いつかなかった。読んでいてワクワクします。
キズオに対して
「この暑いのに何回もやりたがるのはうざい。シャワーを浴びに行くのも面倒。」
と言うのがドライ(リアル)でいいですね。
本を持ってくるから生でやらせろとはキズオはクソ男ですね……笑
男性が思ってるより女性におけるセックスがあんまりファンタジーじゃないと明確に書かれているのが良いです。
多分それは、キズオ相手だからなんだろうけど。
そして名付けるのがあからさまにテキトーなのがいいですね。
興味なし。って感じで。
でもキズオも鼻太郎も多分結構なインテリですよね。
私ならもっとドアホに書きます。
チン太をしょうがない、愛らしいやつにするのではなく、こき下ろしますね。笑
谷田さんのとも迷いますがこちらもお題に対するアンサーとしてとても面白いです。
やっぱ犬小屋でセックスしまくる話を書けばよかったなあ……笑
でもなぜオチで死んでしまったのでしょう?
日記の続きにしなかったのですか?
これは当日聞きたいところです。
古典の教養がないのでわかりませんが、それに沿っているのでしょうか?
波野發作 投稿者 | 2019-01-28 23:33
失火なのか放火なのか気になりますが、まあ最後の2冊を持ってきたヤツがホンボシってことで捜査を進めます。
Juan.B 編集者 | 2019-01-29 02:14
古典で一通り話だけ聞いたので題名の先入観から言うと、更級日記を「源氏物語(創作)にハマって身辺を疎かにした女の反省日記」だと解釈するなら、この終わり方はある意味それに通じているのだろうか。本でセックスが成立すると言う観点が素晴らしい、が、それを考えると犬小屋の外の世界はすごくヤバそうだ。南妙法蓮華経。
高橋文樹 編集長 | 2019-02-26 18:58
虫愛づる姫君的なお話かと思ったが、思ったよりも残酷な展開だった。古典のパスティーシュとしてよくできている。