紋切り型からの逃走

二十四のひとり(第12話)

藤城孝輔

小説

5,293文字

作品集『二十四のひとり』収録作。

私たちの思考は紋切り型、あるいはクリシェに縛られている。風が吹いて儲かるのは桶屋、猫にはつい小判をやってしまうし、渡る世間はやっぱり鬼ばかり。「いただきます」のあとには「ごちそうさま」、「ありがとう」には「どういたしまして」、食事の前には手を洗うし、女の子との食事代を払うのは男の子、そしてキスのあとには何が来るか誰でも知っている。神秘的な儀式を執り行うかのように私たちは決まった状況で決まった呪文を唱え、型にはまった振りつけで踊り続ける。それでいて自分たちがこの謎の儀式に加担していることに少しも気づいていない。

このままでは駄目なのだ。一流の文章を書くためにはクリシェを捨てて、雨粒が小さな手を伸ばしたりするような斬新な表現を生産できるようにならなければならない。この生産の苦しみは作家にとって時には致命傷にもなりかねない。だから三島も死んだし、ヘミングウェイも死んだ。ポウもカポーティも芥川龍之介も作家でさえなければもっと長生きしたかもしれない。それでも作家になりたければまず命がけでクリシェから脱出するしかない。クリシェな言語、クリシェな価値観、クリシェな生活様式、クリシェな趣味やら特技やらから自由にならない限り、自分独自の作品を生み出すことなどできるはずもない。

クリシェのひそやかな横行は私たちの社会生活全体を脅かしている。コンビニの店員はほとんどの場合クリシェに侵されているし、友人やクラスメイトも案外信用できない。若いからといってクリシェと無縁だとは限らず、詩を語る集いだと誘われて参加してみたら酔っぱらったクリシェたちがひざを突きあわせて最近文壇デビューした知りあいの悪口ばかり言っていたなどということもよくある話だ。

七月のある日にもクリシェが私の部屋に奇襲をかけてきた。NHKの集金だというのでしぶしぶドアを開けたら朱色の顔をしたクリシェだった。そのクリシェは「ごめんください」というクリシェな挨拶とともにするりと侵入してきて玄関の板の間にどっかり腰を下ろした。そして、五つある目で私を見据えてテレビを設置している家はどの家も受信料を支払わなければならないと決まり文句を述べた。

「おあいにくさま」私は笑顔で答えた。「この部屋にはそもそもテレビがないんです。このあいだ捨ててしまったものですから」

日夜クリシェを発信して人びとを洗脳しようと画策しているのは他ならぬマスメディアである。だから私はまっさきにテレビを捨てた。新聞の購読はやめたし、インターネットにも接続していない。FMラジオはごみに出した。

クリシェは五つの目をぐるぐる回しながらどう答えたらよいか思案しているようだった。クリシェは想定と異なる状況に出くわすとすぐに立ち往生してしまうのだ。確認のために部屋の中を見せてもらいたい、とクリシェは言った。朱色の顔を腫らし、猫のうなり声みたいな音を立てて苦しげにあえいでいる。

もちろん何も隠すことがない私はクリシェを部屋の中に案内してやった。居間だけでなく、台所やトイレも見せた。ベランダにも連れ出して衛星放送のアンテナがこっそり設置されていたりしないことを確認させた。クリシェはますます戸惑っている様子だった。朱色の顔には血にも似た朱色の汗がにじみ出る。それをハンカチで拭きとりながら、冷たい飲み物を要求してきた。もちろんクリシェなので「冷たい飲み物が欲しい」という直接的な言いかたはしない。「今日も暑いですね」と言いながらシャツの襟をこれ見よがしにパタパタと振って、五つの目のうちの左端の一つで私に意味ありげな目くばせを送ってきた。こういう慣習的な仕草をするだけで私に察してもらえることを期待しているのだ。説得もレトリックの妙もあったものではない。

2019年5月3日公開

作品集『二十四のひとり』第12話 (全24話)

二十四のひとり

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© 2019 藤城孝輔

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