風のない夏の夜には時間さえもいつもより緩慢に流れるようだった。午前二時すぎだというのにアパートの中は昼間と変わらぬ暑さだ。熱のこもった湿潤な空気がべっとりと肌にまとわりつく。ベランダの軒で青紫色の光を放つ誘蛾灯に羽虫が集まっている。バチッ、バチッという音とともに、焦げたにおいが網戸ごしに入り込んでくる。思わず叫び出したくなる衝動を抑えながら、祐太朗は闇の中で大きく目を見開いていた。隣で眠る若い男の深い寝息だけが彼の心の平静を保っていた。祐太朗は汗で濡れた男の肩にそっと顔を寄せ、甘酸っぱい体臭を胸に吸い込んだ。
アキノくん、と呼んでいるその男の下の名前を祐太朗は知らない。
二人が出会ったのは桜坂にあるサタンタンゴというバーだった。祐太朗が学生時代にオールナイト上映で観たハンガリーの長大な映画と同じ名前の店である。彼が久しぶりにその店に入った夜、アキノくんはカウンターの反対側に立って客の相手をしていた。新入りのアルバイトのようだった。糊の利いた紺のシャツに黒いチョッキを重ねている。動くたびに片耳のピアスがちらちらと輝いた。
バーテンダーのバイトは夏季休暇中だけで、本来は県内にある国立大学の学生なのだと彼は言った。日中は大学の図書館で小説を読んだり古い映画のDVDを観たりしながら過ごし、働くのは夕方から深夜までだという。
「アパートにクーラーがないから、なるべく帰りたくないんですよね」とアキノくんは訛りのない標準語で言った。
内地に帰省すれば少しは涼しいのではないかと訊いたら、彼の実家のある地方はフェーン現象の影響で、海に囲まれた沖縄よりも気温が高くなるのだという答えが返ってきた。
「どこにいたって暑いのは同じです。それに今年はこっちにカノジョができたから、正月までは帰りません」
そう言うと、アキノくんは気恥ずかしそうに微笑みながら視線をそらした。突き出た頬骨が目立つ大人びた顔つきに似合わない、子どものようなはにかみ笑いだった。祐太朗は心臓が高鳴るのを感じた。
「いいね。デートはよくするの?」
「週に一、二回、僕の部屋に泊まりに来るくらいですね。出かけたりすることはあんまないです。あっちもバイトとかで忙しいんで」
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