~1~
……正装したシャーロック・ホームズは、ヴィクトリア女王の前に跪いていた。
「シャーロック卿……頭を上げよ」
栄誉ある叙勲を終え、ホームズがヴィクトリア女王から御言葉を頂くのを、私ワトソンは感慨深く見守っていた。ふと祝典の間を見回すと、貴族や高官たちの中に交じり由縁ある人々の顔が見えた。シャーロックの兄のマイクロフトが今まで見た事のない笑みを浮かべており、また出来の悪いスコットランド・ヤードの中では最大の協力者で警察高官へ出世したレストレイドが目に涙を浮かべながらホームズを見つめているのも見えた。私の隣ではインドの大藩王がホームズを凝視している。アフガンの事を思い出しそうで私は藩王から目をそらした。
「シャーロック卿、汝がいなければ私の身はもちろん、イングランド、果ては大英帝国、地球の命運すら危うかったかも知れない」
ホームズが今日この場で叙勲されているのは、史上最悪空前絶後の大事件を華麗に解決したからだが、それについて改めて思い起こすには非常に長くなりかつ難解だし、何よりみんな知っていることであろうからここで記すことは止めておく。とにかくもうこれまでに無いほどの苦労があった。無傷で何も失わず生還できたのが不思議なくらいだ。だが全てが報われたのだ……。
「汝の活躍はこの19世紀の全世界の市民が記憶し、以後何世紀経とうとも、例え最後の審判の時が訪れようとも永久にその栄誉が朽ちる事はないだろう」
「……」
「さてホームズ卿よ……」
ヴィクトリア女王は硬い表情を解き、笑顔を浮かべた。
「……貴方が今回相手した事件に比べれば非常に些細なことなのですが、個人的に解決してもらいたいことがもう一つだけあるのです、どうか聞いていただけませんか」
周囲は一瞬困惑した表情を見せたが、次第に笑みを浮かべた。ホームズに負けず、この事件に苦しみながらも耐えた女王陛下の精一杯の安堵の表れ、と捉えられようか。そしてホームズの静かな、だが喜びにあふれた声が聞こえた。
「はい、陛下」
~2~
ヴィクトリア女王と共にお召列車に乗りウェールズへ向かう汽車の旅は非常に快適だった。女王直属のインド人使用人でムンシーと綽名されるアブドゥル・カリームが何もかも手配してくれる。私はウィスキーを空けながら、ホームズと二人きりのラウンジ席で事件の事を話していた。
「解決出来たら一旅行行きたいとは思ってたが、丁度良かった……また仕事付きなのが少し残念だが」
「なあに、君ならあの一万分の一の労力で解決するだろ?」
「ハハハ……ワトソン、あの事件の間ずっと君が死なないか冷や冷やしてたんだ、本当に辛い思いをさせてしまったな、今度の件は君は旅行気分で、カーナヴォン城で休んでてくれ」
「そう言ってくれるのはありがたいが、そういかないのが君に近付いた者の定めじゃないかねえ」
「あれが最後の事件のつもりだったんだが」
同じ列車には王室の主だった者、それに叙勲に居合わせた海外の貴族も乗っている。みんな、ホームズ目当てだろう。私は彼の友人であれることを改めて嬉しく思った。その時、列車が停止した。
「おや」
「コッツウォルズの森林の真ん中で止まるとはな」
「陛下が命令したのかな?」
「良いじゃないかワトソン、しばらく森林浴でも……」
その時、ムンシーが声を掛けてきた。
「シャーロック卿、女王陛下がお呼びです……ワトソン軍医もご一緒に」
「私も?」
「行こう、ワトソン」
車両を移ると、ムンシーと別のインド人の召使数人ほどに挟まれ、そのまま前方に押し込まれるように進まされる。
「やけに物々しいな」
「申し訳ありません、全員が行動を共にする規定なので」
その時、私はホームズが顔を強張らせているのをしかと見た。
「ムンシー、いくつか質問していいかな」
「陛下は急いで来る様にと」
「インド人如きが口答えするな、時間は取らせない」
ムンシーは、あの大藩王と似た、何か遠くを望む様な視線で我々を見つめた。
「スコットランド人の召使が数名いたはずだが、彼らはどうしたんだね」
「この停車に合わせていったん外に出ています」
「女王陛下を置いて?」
「……」
ホームズは急に顔色を変え、次の貴賓車両への扉を急いで開けた。そこには、女王始め貴族や高官達、他の白人召使らの首の無い死体があった。そしてその中心であのインドの大藩王と数人のインド人たちが首を持って笑っていた! 彼らは私達に気付くと、笑いながら剣を振り上げ迫ってくる。後ろでも短剣を抜くような音がした。
「ワトソン、隅へ逃げろ……! 」
ホームズはステッキを振り上げ、最初にかかってきたインド人の短剣を捌いた。
「この反逆者どもめ!」
私は車両の隅へ飛び込み、そこから様子をうかがった。貴賓室の床には貴族の首がボロボロ落ちている。トルコの外交官とシャムの大官は見逃されたらしく隅で縮んでいる。ホームズは直接かかってきた大藩王にバリツをしかけたが、儀礼衣装を着て大した身動きも取れないはずの大藩王は軽々とそれを避け、ホームズの首を抑えた。
「なっ、私の……千年のバリツが……グエッ」
「千年? それは凄いな、だが私達には五千年の歴史があるのでね」
大藩王はホームズの首を撥ねさせた。そして、私に全員の視線が集中した。
「君がやれ、君のパンジャーブ始め全インドの復讐はもうすぐ果たされるぞ」
立派なターバンを巻きロシア人外交官の首を片手に持ったシク教徒が短剣を抜いて迫ってきた。
~3~
ロンドンの各地から炎や硝煙があがる。テムズ川に掛かるタワーブリッジの屋上には、壊滅を眺める数人の人影があった。
「ロンドンの状況はほぼ完遂でしょう、後はパリでポーロックがラヴァショルと上手くやり、ヴィッキーの列車に同乗したインド人等が上手くいくかです」
「モラン、君は本当に良くやってくれた」
「報われます、モリアーティ教授」
「諸君……」
モリアーティが振り返ると、アイルランド独立活動家のグリフィスや、社会主義者エンゲルス、ズールー人の廃王子や中国人の元闘士、ジプシーの女性始め協力者数名が感慨深そうに周囲の風景を眺めている。モラン大佐配下の兵士が周囲を占拠しているのが見える。エンゲルスが静かに呟いた。
「マルクス、我々が願った世界がついに出来るのだ」
「あっ」
モランが指さすテムズ川の彼方から、砲艦数隻が迫ってくる。
「クソッ、取り逃したのか、あれは危険だ」
「何、心配はいらないぞ、モラン」
「とんでもない、砲艦に対処出来る備えはまだ……」
「地上じゃなくて別の次元を考えてみたらどうだろうな?」
「え?」
その時、突如水中から強い飛沫が上がり、砲艦数隻は一度に吹き飛んでしまった。そして砲艦があった場所に、黒い影が浮いてきたのだ。皆が歓声を上げる。
「おお! しかしあれは一体……」
「まだ皆知らなかったか、紹介しよう、インドから来られたネモ船長と潜水艦ノーチラス号の皆さんだ」
「ほう!」
ノーチラス号はそのまま浮上し、沿岸で抵抗する旧英軍を一方的に殲滅した。そして橋に近付くと、眼鏡をかけた少年と黒人の少女を傍らに従えたネモ船長が艦橋から手を振った。夕日とともに、ロンドンからかつての面影は消え去っていった。
~4~
黒ずんだバッキンガム宮殿の前に、最後まで執拗に抵抗した旧英軍や貴族の死体が積み上げられた。モリアーティは同志たちを背に、この光景をしわがれた顔の奥の瞳に焼き付ける。
「ジョン、我が息子よ、この光景を見てくれ、安らいでくれ……」
モラン大佐がモリアーティにハンカチを渡した。
「イサンドルワナ、でしたか」
「そうだ、私の息子はあの遥か彼方で、しなくても良い戦争の為に死んだ……工学をやりたいと言うのに工兵隊を薦めた私の愚かさ! 」
「……」
「息子が死ぬ、だけじゃない……あの彼方のズールー人もボーア人も死んでいく、皆、国なんて物の命令一つで他所へ乗り込み死ぬ……歴史上を振り返り、全ての場所で……世界から命と物を奪って築き上げられる繁栄に何の意味がある? 」
モリアーティは瞳を上げた。
「私はあの日、真理を知った……我々が崇める政府などと言う物は我々を苦しめ、世界の分断を深めるだけだと……我々の足元を変え、そして植民地やら白人の責務なんてものは捨ててしまおうとな、広げるべきは植民地ではなく革命、全地球が相対し混じり行く混沌なのだ! 」
「教授、何と長い道のりだったか」
「ああ、だが私は犯罪王と呼ばれる不名誉を被ろうとも、全ての学術的地位も名誉も捨てて、この瞬間まで戦ってきたのだ」
グリフィスがうつ向く。廃王子が父のメダルを眺めながら涙を流す。中国人の元闘士は空の彼方を見つめた。その時、数十騎が近付いてきた。
「パーヴィ王!」
「ヴィクトリア及びその周辺は完全に始末した! 我らの復讐の第一段階を無事に果たしたぞ!」
パーヴィ王の一行は貴族の首が入った袋をぶちまけた。そこには女王に加えホームズの頭も混じっていた。
「ホームズめ、お前らが解決したと思い込んだのは非常に些細な事件でしか無かったのに」
一同は涙もふき取って歓声を上げ、その後、宮殿に入り一応の祝賀会が始まった。
「貴方に出会わなければ私はただの腐敗した軍人でしかなかった、だがこうして全ての戦争を終わらせるための軍人になれたのです!」
「そうだなモラン……私にとっても、これは……全ての事件を終わらせるための事件なのだ! 」
「我らの解放者、モリアーティ万歳!」
「ここに、全大英帝国における君主制の廃止と、全平民による共産共和制の復興、全植民地解放及び権益の廃止を宣言する!」
モリアーティは指導者として護国卿の地位につき、王政廃止及び権益の放棄を宣言した。ブリテン島南部を占拠し、アイルランド全土で蜂起が始まり、さらにこの反乱で貴族を大量に殺害しヨーロッパ各地で混乱と反乱を誘引しつつあるとはいえ、全てが終わったわけではない。だが、必ず解決する!
宮殿のテラスの彼方に広がる大地と、反乱に賛同し集まってきた下層民衆に、モリアーティはその信念の拳を掲げた。
(終)
藤城孝輔 投稿者 | 2017-12-16 14:32
モリアーティが信念を持った革命戦士のままで終わるのがどうもピンとこない。もっと皮肉を前面に出して『動物農場』みたいに「革命には成功したけどその先には……」というところまで示すと面白くなるのではないか? この作品にも皮肉は意図されているのかもしれないが、帝国主義とそれに対する反乱という単純な構図しか見えてこなかった。
斧田小夜 投稿者 | 2017-12-17 16:39
最後一捻りあるかと思ったらそのまま終わったのでOh…モリアーティ…と思いました。ホームズとワトソンを使っているのでバディもののミステリーのようですが、実際は事件が起こるだけで謎解きもホームズとワトソンのやりとりも特にないので、モリアーティ一人勝ちのクライム・サスペンスになってしまっているような…モリアーティきらいじゃないんで結末に特に不満はないですけども。
九芽 英 投稿者 | 2017-12-19 02:37
やはり、ホームズを登場させたのは安易だったのではないでしょうか。安易なモチーフであるならば相当の質が要求されます。ホームズがインドの王様の違和感に気づかない訳がないですし、使用人が暗殺者であることも見抜くでしょう。仮にモリアーティがそれを出し抜いたのであれば、その策略が見せ場となるはずですが、本作にはそれがない。
もちろん革命的部分が本作の主題でしょうから、ミステリー要素は脇に置いておくとしても、当時の世界史を知っている前提で次々と新しい登場人物が出てくるのは衒学的で読者に対して不親切だと感じました。
全ての事件を終わらせるためには、貴族を処分するだけでは不十分で、革命家も下層民衆も全て始末なければ、結局新しい支配階級が生まれるだけなのではないでしょうか。
ともあれ、世界史フィクションとしては魅力的な題材だと思うので、もう少し練りこめばハリウッドで映画化して大ヒットすることは間違いないでしょう。
高橋文樹 編集長 | 2017-12-21 11:38
国家転覆ポルノとして楽しく読めた。しかし、ホームズが割と早々に死んでしまったのと、謎の提示が特になかったので星3つ。