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びちょびちょトラベル

破滅派25号「児童文学」応募作品

眞山大知

10歳のころ、コロコロコミックの発売日になると近所のスーパーに開店凸して買っていました。当時読んでいたコロコロの作品を思い出し、児童文学としてふさわしい不条理文学を書こうと試みました。対象年齢:10歳以下

タグ: #破滅派25号「児童文学」

小説

11,452文字

「こちらが海外の旅行。こちらは家族でのんびりできる温泉旅行。そして、こちらがびちょびちょトラベルです」

駅前の旅行のお店で受付のお姉さんが、にっこり笑って言った。

お父さんはカウンターに置かれた青いパンフレットを手に取った。

その横では、小学一年生の妹の穂乃花ほのかが、お母さんのうでにくっついている。

びちょびちょトラベル。

小学四年生の僕にもわかる。旅行のお店で、大人がふつうの顔をして言っていい言葉ではない。

「ちょっと待ってください」

僕は、給食でいちごが一個あまったときより手を速く上げた。

「いま、何て言ったのですか?」

「温泉です」

「その次です」

「びちょびちょトラベルです」

お姉さんは、「京都旅行、二泊三日です」と同じ声で言った。

なめらかすぎる。きっと朝の仕事が始まる前に店のみんなで練習しているのだ。

びちょびちょ。

びちょびちょ。

もっと笑顔で、びちょびちょ!

カウンターにはほかにもパンフレットが並んでいた。

国内の旅行。外国の旅行。温泉。古いお城めぐり。おいしいものめぐり。

その中で、びちょびちょトラベルのパンフレットだけが青かった。

見ていると、目の奥まで青くなりそうだった。

表紙には、大人の男の人と女の人、それに男の子と女の子が写っていた。

たぶん家族だろう。全員、ずぶぬれだった。

お父さんのメガネから水が落ちている。お母さんの髪は、顔にワカメのようにはりついている。男の子のリュックからは、ジャージャー水が流れている。女の子は笑顔でピースしているが、スカートのすそから水がふき出している。

もはや家族じゃなくて四つの噴水だ。

表紙には、大きな文字でこう書いてあった。

 

びちょびちょトラベル
 家族の思い出、しぼれるくらい。

 

しかも、表紙の青い「び」の字から、本当に水がたれていた。

ぽちゃん。

しずくがカウンターに落ちた。

しずくは丸くふくらむと小さな青い魚になった。

魚はぴちぴちとはねると、パンフレットの中へもぐっていった。

「いま、魚が出ませんでした?」

僕が聞くと、お姉さんは首をかしげた。

「人気の仕かけです」

「どうした、蒼汰そうた

お父さんがパンフレットをのぞきこんだ。

「さあ、ひと夏の思い出にぜひ」とお姉さんが言う。
嫌な予感がした。

「せっかくだし、行ってみようか」

出た。

せっかくだし。

お父さんは前にも、「せっかくだし」と言って、出張先で緑色のジュースを買ってきた。

家族四人で飲んだら、全員でトイレを取り合うことになった。

別の日には、「せっかくだし」とスーパーで紫色のジャガイモを買ってきて、カレーのなべの中に大魔王のぬまを作った。

お父さんの「せっかくだし」のあとには、ろくなことが起きない。

「父さん、これはやめよう」

「でも、少し変わっていて楽しそうじゃないか」

少し変わっていて楽しそう。

これも、お父さんの危ない言葉だ。

お母さんはパンフレットの後ろにある料金を見ていた。

「新幹線と旅館がついて、この値段なら安いわね」

「お母さん、安さで家族をびちょびちょにしないで」

「いいじゃない。安ければすこしぐらいびちょびちょになっても」

「びちょの時点で安心できないよ」

穂乃花がパンフレットを指さした。

「ほのか、これがいい!」

「よくない!」

「びちょびちょ、楽しそう!」

「楽しいわけないだろ。靴下がぬれるんだぞ」

「かわかせばいいじゃん」

小学一年生は強かった。

お姉さんがパンフレットを開いた。

中から、さっきの青い魚が飛び出した。

魚は僕たちの頭の上を一周すると、またページの中へもぐった。

「こちらが、家族に一番人気の金沢スタンダードびちょプランです」

「金沢なんですか?」

「はい。一日目は、びちょびちょ新幹線、兼六園けんろくえんのびちょ松、近江町おうみちょう市場のびちょ海鮮丼、ひがし茶屋街のびちょ祭り、お泊まりは名物旅館・濡乃屋ぬれのやです」

名前を聞いただけで服がしめってきそうだった。

「二日目は自由に町を歩いていただきます」

「そこはふつうなんですね」

「もちろん、自由にびちょびちょになっていただきます」

「ぬれない自由はないんですか?」

僕は何度も反対した。

けれど、お父さんは「せっかくだし」と言った。

お母さんは「安いし」と言った。

穂乃花は「びちょびちょ!」と両手を上げた。

気がつくと、お父さんは申しこみの紙に、自分の名前を書いていた。

その横で、パンフレットの青い「び」が、にやりと笑った気がした。

 

 

旅行の日。

東京駅の広場には、青い旗を持った男の人が立っていた。

旗には、白い文字で「び」と書いてあった。

「皆さま、おはようございます!」

男の人が大声で言った。

「今日、皆さまといっしょに旅をする水沢です!」

水沢さん。名前まで湿っていそうなひとだった。

「では、びちょびちょのかくにんをします! 蒼汰くんと穂乃花ちゃんのご家族!」

「はい」

お父さんが答えた。

「ぬれる心のじゅんびはできていますか?」

「少しくらいなら」

「少しではこまります!」

こまるのはこっちだ。

「今日の目あては?」

「家族で楽しく旅行することですかね」

「ちがいます! 家族で楽しくびちょびちょになることです!」

「びちょびちょー!」

穂乃花が両手を上げた。

「やめろ、穂乃花。向こうの仲間になるな」

新幹線のホームへ行くと、白い車体が入ってきた。

白い車体。

きれいな窓。

かわいたドア。

見たところ、ふつうの新幹線だった。

僕はほっとした。

新幹線まで変だったら、日本はもう終わりだ。

だけどドアが開いたら中から、むらさき色のけむりがふき出した。

「うわっ!」

けむりは黄色になった。

黄色からピンク。

ピンクから青。

青いけむりの中を、小さな魚が何匹も泳いでいた。

その先頭に、パンフレットから出てきた青い魚がいる。

「こちらが、びちょびちょ新幹線です!」

水沢さんが拍手した。

「新幹線の中に魚を泳がせないで!」

「きんぎょ!」

穂乃花は大よろこびで魚を追いかけた。青い魚は穂乃花の手をするりとぬけ、僕の鼻先で一回転した。

「蒼汰、写真を撮るよ」

お母さんは、もうスマホを出していた。

「いまは写真より逃げるほうが先だよ!」

車内へ入ると、座席がしっとりしていた。

びしょびしょではない。

でも、かわいてもいない。

手でさわると、座席が小さな声で言った。

「すわって」

僕は手を引っこめた。

「いま、座席がしゃべった」

「旅行でつかれてるんじゃない?」

お母さんが言った。

「まだ東京駅だよ!」

お父さんが座った。

「あっ」

お母さんも座った。

「あ、これは……」

穂乃花は勢いよく座った。

「おしりが雨だ!」

「雨じゃない。座席だ」

僕も、そっと腰を下ろした。

ズボンを通して、冷たさがじわじわやってきた。

大きなナメクジが、おしりの下で昼寝をしているようだった。

「ただいま、びちょの強さは一です!」

車内に水沢さんの声が流れた。

「一でこれなの?」

「蒼汰、びちょまんじゅう食べるか?」

お父さんが言った。

食べ物を売るカートがやってきた。

「びちょまんじゅうはいかがですか」

「どんなまんじゅうですか?」

お母さんが聞いた。

「中に水が入っています」

「あんこは?」

「水です」

「皮は?」

「ぬれています」

「それは、水を皮で包んだだけでは?」

「旅先で食べる特別な水です」

お父さんは四つ買った。

「せっかくだし」

「せっかくだしで水を買わないで!」

びちょまんじゅうをかじると、口の中に水があふれた。

青。

黄色。

ピンク。

水の色が、口の中で次々に変わった。

目の前に、ピンクのぞうが三頭現れた。

ぞうたちは小さなぼうしをかぶり、新幹線の通路でなわとびを始めた。

「お父さん。ぞうがいる」

「どこに?」

「そこ」

「何もいないぞ」

ぞうたちは僕に向かって手を振ると、シャボン玉になって消えた。

「おいしい!」

穂乃花が言った。

「本当に?」

「うん! 耳の中が青くなる!」

「それを、おいしいと言っていいのか?」

お父さんもびちょまんじゅうを食べた。

しばらく口を動かし、遠い目をした。

「会社の味がする」

「会社って、どんな味?」

「味がしない味だ」

大人は大変だと思った。

毎日、味のしない場所へ行き、夜になると帰ってくる。

お父さんは窓の外を見ていた。

いつもの朝より、少しだけ楽しそうな顔だった。

 

 

金沢に着いた。

駅の前には、大きな門が立っていた。

「みんな、並んで」

お母さんがスマホを出した。

「蒼汰、ちゃんと笑って」

「これから水にしずめられる人が笑えるわけないよ」

「そんなに大げさな」

僕たちが門の前に並ぶと、門の足が一本だけ動いた。

ずずず、と石の上を歩き、僕たちのすぐ後ろへ来た。

「門が動いた!」

「蒼汰、カメラを見て」

「後ろの門が歩いたんだって!」

写真を撮り終えると、門は何もなかったように元の場所へ戻った。

水沢さんだけが、うんうんとうなずいていた。

「金沢も、皆さまのお越しをよろこんでいます」

「町を歩かせないでください」

バスに乗り、兼六園へ向かった。席にすわったしゅんかん、乗っていた人たちが、いっせいに言った。

「あっ」

バスの席は新幹線よりぬれていた。

車内に水沢さんの声が流れた。

「ただいま、びちょの強さは二です! 座席や道が、しっとりぬれます!」

「もう、しっとりをこえてるよ!」

 

 

兼六園に着く。白い雲。緑の木。きれいな池。

今度こそ、ふつうの旅行が始まるのかもしれないと思ったけど、青い魚が池の上を飛んだのを見てしまった。

そのしゅんかん、松の木から水がふき出した。

「うわああああ!」

右の松から青い水。左の松から黄色い水。奥の松からピンク色のあわ。あわの一つ一つの中を、小さな馬が走っていた。

「名物、びちょ松です!」

水沢さんが叫んだ。

「そんな名物はない!」

松の枝が、ぐにゃぐにゃと曲がった。

一本は大きな手。一本は長いへび。

へび松が、僕の頭へ水をかけた。

「松がねらってきた!」

穂乃花は、ピンクのあわを追いかけていた。

「お兄ちゃん、馬が飛んでる!」

「口を開けるなよ!」

僕は折りたたみがさを出した。

水沢さんが飛んできた。

「お客様! かさは禁止です!」

「自分で持ってきたかさです!」

「蒼汰くんだけかわくと、ご家族がバラバラになります!」

「かさ一本で家族はバラバラにならない!」

園内に声が流れた。

「びちょの強さが三になりました! これから靴の中に水が入ります!」

「先に言えばいいと思ってるだろ!」

足元の石のすき間から、水がわいてきた。

ちょろちょろ。

じゃぶじゃぶ。

水は靴の中へ入った。

冷たい。

「靴下が終わった!」

旅行は始まったばかりなのに、最初の靴下が終わった。

「蒼汰、かわりの靴下を持ってきたでしょ?」

お母さんが聞いてきた。

「三足持ってきたよ」

「じゃあ大丈夫ね」とお母さんが言う。

何が大丈夫なんだろう。

 

 

お昼は、近江町市場の海鮮丼だった。

僕は楽しみにしていた。マグロ。イクラ。カニ。エビ。

朝からびちょびちょにいじめられた心を、魚とご飯で元気にするのだ。

店へ入ると、テーブルの上に、きれいな海鮮丼が並んでいた。

赤いマグロ。オレンジ色のイクラ。白いイカ。

僕ははしを持った。

店員さんが、大きなやかんを持ってきた。

どぼどぼどぼ。やかんの水で海鮮丼はびちょびちょだ。

「何をしてるんですか!」

「びちょ海鮮丼、りゃくしてびちょ丼です」

「魚とご飯がしずんだ!」

「海の中へ帰してあげました」

「食べ物を帰さないでください!」

丼の中で、マグロがゆらゆらしている。

イクラは水の上を流れている。

カニが、じっと僕を見ていた。

「ヤア」

カニが言った。

僕ははしを落とした。

「カニがしゃべった!」

「どのカニ?」

お父さんが聞いた。

「僕の丼のカニ!」

もう一度見ると、カニはただのカニだった。

「水族館ごはんだ!」

穂乃花が言った。

「名前を変えても、しずんだ海鮮丼だよ」

お父さんが一口食べた。

「うすい」

お母さんも食べた。

「うすいね」

僕も食べた。

うすい。

とにかく、うすい。

水を飲んでいると、ときどきマグロが口に入ってくる。

穂乃花は、水に浮かぶイクラを、はしで追いかけていた。

イクラが一つにつながり、赤い魚になった。

赤い魚は丼から飛び出し、お父さんの茶わんを一周し、お母さんの頭を飛びこえた。

最後に、穂乃花の口へ飛びこんだ。

「おいしい!」

穂乃花が笑った。

お母さんも笑った。

お父さんも笑った。

僕も、がまんできずに笑った。

ひどすぎる。

でも、家族みんなで同じひどい目にあっていると、だんだん笑えてくる。

店の窓の外では、青い魚が僕たちを見ていた。

 

 

午後は、ひがし茶屋街へ行った。

石の道に古い家が並び、ぬれた屋根がきらきら光っていた。

通りの奥から、大きな車がやってきた。

上には、水のけむりを出す機械が乗っている。

車を引く人たちは、「びちょやー、びちょやー」と声を上げていた。

「お祭りにするな!」

「びちょ祭りです!」

水沢さんが胸を張った。

「いばらないで!」

機械から白いけむりがふき出した。

町は、あっという間に真っ白になった。

前が見えない。

右も左もわからない。

「蒼汰、どこだ!」

お父さんの声がした。

「ここ!」

「穂乃花は?」

「ここー!」

「お母さんは?」

「ここよ!」

声だけが白いけむりの中を飛んだ。

僕は手をのばした。

指先が、小さな手にふれた。

穂乃花の手だった。

けれど、ぬれていて、するりとすべった。

「お兄ちゃん!」

穂乃花の声が遠くなった。

僕はもう一度手をのばし、今度は強くつかんだ。

「はなすなよ!」

「うん!」

穂乃花も、僕の手を強くにぎった。

反対側から、お母さんが僕の肩をつかんだ。

お父さんは、お母さんのリュックをつかんだ。

「何も見えない」

お父さんが言った。

「メガネを取ったら?」

「もっと見えない」

小学四年生にもなると、家族と手をつなぐのは少しはずかしい。

でも、今は仕方がない。

これは、はずかしい手つなぎではない。

迷子にならないための手つなぎだ。

白いけむりの向こうで、青い魚が光った。

魚について歩くと、けむりの外へ出ることができた。

けむりの外には、水沢さんが立っていた。

いつものように青い旗を持っていたが、笑っていなかった。

「穂乃花ちゃん、大丈夫ですか?」

水沢さんが、しゃがんで聞いた。

穂乃花は僕の手をにぎったまま、うなずいた。

「ちょっと、こわかった」

「えっ?」

水沢さんは、手に持っていた予定表を見た。

紙には、こう書いてあった。

 

【白いけむりで、家族のきずなを深めます】

 

水沢さんは予定表を見た。

次に、ぬれて震えている穂乃花を見た。

もう一度、予定表を見た。

「でも、家族のきずなは深まりましたよね!」

水沢さんは、いつもの大きな声を出そうとした。

けれど、声は途中で小さくなった。

「……たぶん」

「水沢さん?」

「いえ。なんでもありません」

水沢さんは、ぬれた予定表をたたんだ。

紙から青い文字が一つはがれ、地面へ落ちた。

き。

文字は水たまりの上で、ぷるぷる震えていた。

水沢さんはその文字を見つめ、青い旗を少し下げた。

「けむりを、もう少し弱くするように本社へ伝えます」

「弱くできるんですか?」

「おそらく」

「いままで伝えてなかったんですか?」

「……本社は、強いほうが思い出になると言っていました」

そのとき、水沢さんの無線が鳴った。

『水沢さん、びちょ祭りは予定どおりですか?』

水沢さんは無線を口へ近づけた。

少しだけ迷ってから、答えた。

「予定どおりです。ただし、次からは子どもがこわがらない強さにしてください」

『そのような設定はありません』

「では、作ってください」

無線の向こうが静かになった。

水沢さんは自分でもおどろいたような顔をした。

すぐに、いつもの笑顔へ戻った。

「では皆さま、次へまいりましょう!」

でも、青い旗の「び」は、さっきまでより少し小さくなっていた。

振り返ると、僕たちの足あとで、石の道に大きな「び」の字ができていた。

道まで仲間になっている。

 

 

夕方、旅館の濡乃屋に着いた。

着物を着た女の人が、入り口で頭を下げた。

「ようこそおこしくださいました。足元の悪い中、ありがとうございます」

空は晴れている。

でも、旅館の床は水びたしだった。

「こちらは、ようこそびちょです」

「ようこそのやり方がまちがってる!」

部屋の畳もしっとりしていた。

「畳がぬれています」

お母さんが言った。

「はい。びちょ畳です」

「くさりませんか?」

「くさる少し前が、いちばん落ち着くのです」

「落ち着きません」

夕食には、魚、肉、野菜、天ぷらが出た。

そして、全部が水にしずんでいた。

「天ぷらまでぬれてる!」

「こちら、びちょぷらです」

水沢さんが言った。

「最悪の名前だ!」

「カリカリにあげた天ぷらを、わざと水へ入れました」

「何のために?」

「ぬらすためです」

まっすぐな答えだった。

お父さんは、びちょぷらを食べた。

「ふにゃふにゃしているところが、今の僕ににている」

「旅先で悲しいことを言わないで」

お母さんが笑った。

穂乃花が、にんじんを水の中で泳がせた。

すると、にんじんに足が生えた。

皿から飛び出し、部屋の中を走り始めた。

エビの天ぷらにも足が生え、にんじんを追いかけた。

「待てー!」

穂乃花が追いかけた。

お父さんも追いかけた。

僕も追いかけた。

最後は家族四人で、ぬれた畳の上へ転がった。

服はぬれた。

でも、少し楽しかった。

 

 

夜、僕とお父さんは温泉へ入った。

温泉は、ぬれていて当たり前だ。

ぬれる場所でぬれる。

これこそ正しいぬれ方である。

「ああ……」

お父さんが湯ぶねで息をもらした。

「蒼汰、今日は楽しかったか?」

「ぬれた」

「それはそうだな」

「でも、少しだけおもしろかった」

「そうか」

お父さんは、会社へ行く朝より元気そうに笑った。

「父さんは?」

「楽しいよ。こんなに何も考えず笑ったのは、ひさしぶりだ」

そのとき、湯ぶねの底が開いた。

「うわああああ!」

僕とお父さんは、お湯ごと長い水のすべり台へ落ちた。

右へ。左へ。上へ。下へ。

「温泉を乗り物にするなあああ!」

最後は広間の畳へ、水といっしょに飛び出した。

水沢さんがマイクを持って待っていた。

「親子びちょスライダー、いかがでしたか!」

「まず服を返してください!」

お父さんが叫んだ。

僕は笑った。お父さんも笑っていた。

 

 

次の朝。

布団はぬれていた。

ぬれた布団で一晩ねるのは、ものすごく嫌だった。

朝ごはんのあと、水沢さんが言った。

「今日は自由に町を歩いていただきます!」

みんながよろこんだ。

「ただし、びちょの強さは四です!」

「自由じゃない!」

僕たちは商店街へ向かった。

お母さんはお土産を見たがった。

穂乃花はアイスを食べたがった。

お父さんは言った。

「せっかくだし、全部行こう」

また危ない言葉が出た。

おかし屋へ入ると、水でっぽうを持ったロボットが出てきた。

「イラッシャイマセ、ビチョ」

「最後にビチョをつけないで」

ロボットは、お土産の紙に水をかけた。

「お土産がぬれる!」

「思イ出モ、イッショニ包ミマス、ビチョ」

「何を言ってるんだ!」

次に入ったカフェは、ふつうに見えた。

かわいた木のテーブル。かわいたいす。かわいたメニュー。僕は、かわいた物を見ただけで泣きそうになった。

「ホットココアをください」

お母さんが言った。

「びちょにしますか?」

「かわいたままで!」

しばらくすると、ふつうのココアが出てきた。

温かい。

いいにおい。

僕はカップを持ち上げた。

天井から水がふき出した。

「なんでだよ!」

店員さんが、あわてて顔を出した。

「すみません! びちょびちょトラベルのお客様がかわこうとすると、水が出る仕かけです!」

「そんな仕かけを町じゅうにつけないで!」

お父さんのスマホが鳴った。

 

【蒼汰くんと穂乃花ちゃんのご家族が、かわこうとしています。水を追加します】

 

「見張られてる!」

僕たちは店を飛び出した。

道の両側から水が飛んできた。

花屋のホース。

魚屋の水そう。

郵便ポスト。

自動はん売機からは、青いカエルが飛び出した。

カエルは二本足で歩き、太鼓をたたきながら道を進んだ。

道が波のようにうねった。

家がぐにゃりと曲がった。

信号が鳥になって空へ飛んだ。

赤い鳥。

青い鳥。

黄色い鳥。

三羽は空でぶつかり、大きな「び」の字になった。

「町が全部、変になってる!」

空が暗くなった。

四角い雲が浮かんでいた。

白い豆ふのような雲の横には、びちょびちょトラベルのマークがついている。

「お客様へお知らせします」

雲から声がした。

「びちょの強さを五にします。これより、全部びちょびちょを始めます」

「始めるな!」

四角い雲から、大量の水が落ちてきた。

雨ではない。

滝だった。

道が川になった。

金沢駅の門は足を生やして逃げた。

兼六園の松が空を飛び、水をまいた。

大きな魚が、ビルの間を泳いでいる。

空の「び」の字が、口を開いた。

「ビチョ」

「空までしゃべるな!」

大きな水の流れが、僕たちへ向かってきた。

「こっち!」

お母さんが穂乃花を抱き上げ、店のひさしの下へ走った。

お父さんが僕の手をつかんだ。

水がひざまで来た。

足が地面からはなれそうになった。

「お兄ちゃん!」

穂乃花が、僕のリュックをつかんだ。

いつも笑っている穂乃花が、泣きそうな顔をしていた。

「どこにも行かないで」

「行かないよ!」

僕は穂乃花の手をにぎった。

そのとき、水沢さんが水の中を走ってきた。

青い旗を横にして、流されそうな子どもを引っぱっている。

「皆さん、高い場所へ逃げてください!」

「水沢さん!」

「これはもう、旅行ではありません!」

水沢さんは、ぬれた帽子を脱ぎ捨てた。

「本社は『家族の思い出が深まる』と言いました。でも、怖がっているお客様をぬらし続けるのは、まちがっています!」

水沢さんは首から下げていた青いカードを、僕へ渡した。

「本社へ入るためのカードです。蒼汰くん、水を止めてください」

「水沢さんは?」

「私は、ほかのお客様を助けます」

「会社におこられませんか?」

「お客様を助けておこる会社なら、私が先に会社におこります!」

水沢さんは青い旗を高く上げた。

「びちょびちょトラベルの皆さん! こちらへ逃げてください!」

水沢さんは、水に流される人たちのほうへ走っていった。

青い魚が、僕の目の前を横切った。

魚は、金沢駅の前にある高いビルへ向かって泳いでいく。

そのビルだけが、まったくぬれていなかった。

「母さん、あのビル!」

「びちょびちょトラベル本社って書いてある!」

「行こう!」

僕は叫んだ。

「社長に水を止めさせる!」

穂乃花も、ぬれたこぶしを上げた。

「社長、びちょれ!」

 

本社の自動ドアは開かなかった。

ドアの横に文字が出た。

【びちょびちょのお客様は入れません】

「あなたの会社のせいだろ!」

僕は水沢さんから受け取った青いカードを、機械へ当てた。

ピッ。

ドアが開いた。中の床は、ぴかぴかにかわいていた。

僕たちが歩くたび、水たまりができる。

「床がぬれます!」

受付のお姉さんが悲鳴を上げた。

「ぬれろ!」

お父さんが叫んだ。

完全に別の人になっていた。

エレベーターで一番上へ行った。

ドアの向こうには、大きな部屋があった。

社長が、かわいた机の前にすわっている。

髪も、服も、靴下も、全部かわいていた。

「君たち、どうやってここへ来たんだね」

「水沢さんがカードをくれました」

社長の顔がきびしくなった。

「水沢くんは会社を裏切ったのか」

「お客さんを助けただけだ!」

僕は叫んだ。

「町の水を止めてください!」

「止めることはできない」

「どうして!」

「家族が同じようにぬれれば、みんな仲よくなる。私はそう思って、この旅行を作った」

「だったら、自分もぬれればいいだろ!」

社長は、自分のかわいたくつを見た。

「私は、ぬれるのが大きらいなんだ」

「自分が嫌なことを、お客さんにさせるな!」

社長室の奥には、ガラスの箱があった。

中には白いレバーがある。

レバーの上には、こう書かれていた。

 

【金沢の水を止める】

 

「あれだ!」

僕がレバーへ向かうと、部屋でベルが鳴った。

ビーッ、ビーッ。

 

【かわこうとするお客様を見つけました】

 

「何だ、これ!」

 

【お客様かわき防止そうちを動かします】

 

天井と床が開いた。

青、黄色、ピンクの水が、いっせいにふき出した。

部屋の奥まで、深い水が広がった。

水の上には、大きな「び」の字がいくつも浮かんでいた。

「そんな仕かけを会社につけるな!」

社長は机にしがみついた。

「その装置は、私にも止められない!」

「社長なのに?」

「作った人が会社をやめてしまったんだ!」

「先に止め方を聞いておけ!」

青い魚が僕たちの前へ飛んできた。

水の上を一周し、レバーのほうへ向かった。

「私が道を見る!」

お母さんが、かべに浮かび上がった案内図を指さした。

「右側は流れが弱い。父さん、蒼汰を支えて!」

「わかった!」

お父さんが水へ入った。

「冷たっ!」

僕も足を入れた。

かわりの靴下は、もう一足しか残っていない。

ここで入ったら、また靴下が終わる。

嫌だ。

本当に嫌だ。

けれど、窓の外では町が水にしずみかけている。

穂乃花は僕の服をにぎった。

「お兄ちゃん」

「大丈夫」

僕は水へ入った。

靴下が一気にぬれた。

「靴下が終わったあああ!」

僕の叫びが社長室にひびいた。

「左へ!」

お母さんが声を上げた。

お父さんが先へ進み、僕の手を引いた。

穂乃花は、お母さんに抱かれてついてきた。

浮かんでいる「び」の字をふむと、ぐにゃりとしずんだ。

水の流れが強くなった。

僕の足がすべった。

「蒼汰!」

お父さんが僕のうでをつかんだ。

お母さんがお父さんの服をつかんだ。

穂乃花がお母さんの首につかまった。

家族四人が、一つの長いだんごになった。

青い魚が右へ曲がった。

「魚についていって!」

穂乃花が叫んだ。

魚のあとを追うと、流れの弱い道があった。

部屋の一番奥に、白いレバーが見えた。

でも、最後の水は深かった。

「蒼汰、父さんが行く」

お父さんが言った。

「だめ。父さん、メガネが何も見えてないでしょ」

「たしかに」

レバーは僕のすぐ前にある。

水は胸の近くまで来ていた。

ぬれたくない。

でも、ここまで来た。

「穂乃花、手をはなすなよ」

「うん!」

家族と手をつないだまま、僕は一歩進んだ。

もう一歩。

水をかき分け、レバーへ手をのばした。

「これ以上、勝手に家族をぬらすな!」

僕はレバーを引いた。

ガコン。

ビル全体がゆれた。

窓の外で、町の水が空へ上り始めた。

川になった道が、元の道へ戻った。

空を泳いでいた魚たちは、青い紙になって折りたたまれた。

曲がった家は、くしゃみを一つして、まっすぐになった。

空の「び」の字は、くるくる回り、小さなしずくになった。

社長の頭へ、ぽちゃんと落ちた。

「つ、冷たい!」

「それが、びちょびちょです」

社長は、ぬれた頭をさわった。

「なるほど。これは嫌だな」

「いまごろ気づいたんですか!」

社長は深く頭を下げた。

「申しわけありませんでした。これからは、お客様がぬれる量を自分で決められるようにします」

「ゼロも選べるようにしてください」

「もちろんだ」

社長室のスピーカーから、水沢さんの声が流れた。

「町の水が止まりました! 皆さん、もう大丈夫です!」

社長がスピーカーを見上げた。

「水沢くん……」

「水沢さんは、お客さんを守ったんです」

僕は言った。

「社長も、少しは見習ってください」

 

 

帰りの新幹線は、ふつうだった。

座席はかわいている。

僕はおそるおそるすわり、息をもらした。

「ああ……」

おしりが冷たくない。

何も起こらない。

それだけで泣きそうになる。

窓の外を、夕焼けにそまった町と山が流れていく。

お母さんは、スマホの写真を見て笑っていた。

お父さんは、びちょまんじゅうをもう一度買えないか調べている。

穂乃花は「お兄ちゃん、楽しかったね」と言ってきた。

「楽しくはない」

「じゃあ、何だったの?」

僕は少し考えた。

松から出たピンクの水。

水にしずんだ海鮮丼。

けむりの中でにぎった穂乃花の手。

お父さんと水のすべり台を流れたこと。

どれもひどかった。

でも、どれも、たぶんずっと忘れない。

「家族事件」

「じけん?」

「家族旅行じゃなくて、家族事件」

お父さんとお母さんが笑った。

穂乃花も、よくわからないまま笑った。

そのとき、お父さんのかばんから、小さな青い魚が顔を出した。

魚は僕にウインクすると、夕焼けの窓へ飛びこんだ。

赤い空を、青い魚が泳いでいく。

僕は見なかったことにした。

もちろん、びちょびちょトラベルには二度と行かない。

……けど、ほどほどのびちょなら、少しだけ考える。

© 2026 眞山大知 ( 2026年8月2日公開

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