「こちらが海外の旅行。こちらは家族でのんびりできる温泉旅行。そして、こちらがびちょびちょトラベルです」
駅前の旅行のお店で受付のお姉さんが、にっこり笑って言った。
お父さんはカウンターに置かれた青いパンフレットを手に取った。
その横では、小学一年生の妹の穂乃花が、お母さんのうでにくっついている。
びちょびちょトラベル。
小学四年生の僕にもわかる。旅行のお店で、大人がふつうの顔をして言っていい言葉ではない。
「ちょっと待ってください」
僕は、給食でいちごが一個あまったときより手を速く上げた。
「いま、何て言ったのですか?」
「温泉です」
「その次です」
「びちょびちょトラベルです」
お姉さんは、「京都旅行、二泊三日です」と同じ声で言った。
なめらかすぎる。きっと朝の仕事が始まる前に店のみんなで練習しているのだ。
びちょびちょ。
びちょびちょ。
もっと笑顔で、びちょびちょ!
カウンターにはほかにもパンフレットが並んでいた。
国内の旅行。外国の旅行。温泉。古いお城めぐり。おいしいものめぐり。
その中で、びちょびちょトラベルのパンフレットだけが青かった。
見ていると、目の奥まで青くなりそうだった。
表紙には、大人の男の人と女の人、それに男の子と女の子が写っていた。
たぶん家族だろう。全員、ずぶぬれだった。
お父さんのメガネから水が落ちている。お母さんの髪は、顔にワカメのようにはりついている。男の子のリュックからは、ジャージャー水が流れている。女の子は笑顔でピースしているが、スカートのすそから水がふき出している。
もはや家族じゃなくて四つの噴水だ。
表紙には、大きな文字でこう書いてあった。
びちょびちょトラベル
家族の思い出、しぼれるくらい。
しかも、表紙の青い「び」の字から、本当に水がたれていた。
ぽちゃん。
しずくがカウンターに落ちた。
しずくは丸くふくらむと小さな青い魚になった。
魚はぴちぴちとはねると、パンフレットの中へもぐっていった。
「いま、魚が出ませんでした?」
僕が聞くと、お姉さんは首をかしげた。
「人気の仕かけです」
「どうした、蒼汰」
お父さんがパンフレットをのぞきこんだ。
「さあ、ひと夏の思い出にぜひ」とお姉さんが言う。
嫌な予感がした。
「せっかくだし、行ってみようか」
出た。
せっかくだし。
お父さんは前にも、「せっかくだし」と言って、出張先で緑色のジュースを買ってきた。
家族四人で飲んだら、全員でトイレを取り合うことになった。
別の日には、「せっかくだし」とスーパーで紫色のジャガイモを買ってきて、カレーのなべの中に大魔王のぬまを作った。
お父さんの「せっかくだし」のあとには、ろくなことが起きない。
「父さん、これはやめよう」
「でも、少し変わっていて楽しそうじゃないか」
少し変わっていて楽しそう。
これも、お父さんの危ない言葉だ。
お母さんはパンフレットの後ろにある料金を見ていた。
「新幹線と旅館がついて、この値段なら安いわね」
「お母さん、安さで家族をびちょびちょにしないで」
「いいじゃない。安ければすこしぐらいびちょびちょになっても」
「びちょの時点で安心できないよ」
穂乃花がパンフレットを指さした。
「ほのか、これがいい!」
「よくない!」
「びちょびちょ、楽しそう!」
「楽しいわけないだろ。靴下がぬれるんだぞ」
「かわかせばいいじゃん」
小学一年生は強かった。
お姉さんがパンフレットを開いた。
中から、さっきの青い魚が飛び出した。
魚は僕たちの頭の上を一周すると、またページの中へもぐった。
「こちらが、家族に一番人気の金沢スタンダードびちょプランです」
「金沢なんですか?」
「はい。一日目は、びちょびちょ新幹線、兼六園のびちょ松、近江町市場のびちょ海鮮丼、ひがし茶屋街のびちょ祭り、お泊まりは名物旅館・濡乃屋です」
名前を聞いただけで服がしめってきそうだった。
「二日目は自由に町を歩いていただきます」
「そこはふつうなんですね」
「もちろん、自由にびちょびちょになっていただきます」
「ぬれない自由はないんですか?」
僕は何度も反対した。
けれど、お父さんは「せっかくだし」と言った。
お母さんは「安いし」と言った。
穂乃花は「びちょびちょ!」と両手を上げた。
気がつくと、お父さんは申しこみの紙に、自分の名前を書いていた。
その横で、パンフレットの青い「び」が、にやりと笑った気がした。
*
旅行の日。
東京駅の広場には、青い旗を持った男の人が立っていた。
旗には、白い文字で「び」と書いてあった。
「皆さま、おはようございます!」
男の人が大声で言った。
「今日、皆さまといっしょに旅をする水沢です!」
水沢さん。名前まで湿っていそうなひとだった。
「では、びちょびちょのかくにんをします! 蒼汰くんと穂乃花ちゃんのご家族!」
「はい」
お父さんが答えた。
「ぬれる心のじゅんびはできていますか?」
「少しくらいなら」
「少しではこまります!」
こまるのはこっちだ。
「今日の目あては?」
「家族で楽しく旅行することですかね」
「ちがいます! 家族で楽しくびちょびちょになることです!」
「びちょびちょー!」
穂乃花が両手を上げた。
「やめろ、穂乃花。向こうの仲間になるな」
新幹線のホームへ行くと、白い車体が入ってきた。
白い車体。
きれいな窓。
かわいたドア。
見たところ、ふつうの新幹線だった。
僕はほっとした。
新幹線まで変だったら、日本はもう終わりだ。
だけどドアが開いたら中から、むらさき色のけむりがふき出した。
「うわっ!」
けむりは黄色になった。
黄色からピンク。
ピンクから青。
青いけむりの中を、小さな魚が何匹も泳いでいた。
その先頭に、パンフレットから出てきた青い魚がいる。
「こちらが、びちょびちょ新幹線です!」
水沢さんが拍手した。
「新幹線の中に魚を泳がせないで!」
「きんぎょ!」
穂乃花は大よろこびで魚を追いかけた。青い魚は穂乃花の手をするりとぬけ、僕の鼻先で一回転した。
「蒼汰、写真を撮るよ」
お母さんは、もうスマホを出していた。
「いまは写真より逃げるほうが先だよ!」
車内へ入ると、座席がしっとりしていた。
びしょびしょではない。
でも、かわいてもいない。
手でさわると、座席が小さな声で言った。
「すわって」
僕は手を引っこめた。
「いま、座席がしゃべった」
「旅行でつかれてるんじゃない?」
お母さんが言った。
「まだ東京駅だよ!」
お父さんが座った。
「あっ」
お母さんも座った。
「あ、これは……」
穂乃花は勢いよく座った。
「おしりが雨だ!」
「雨じゃない。座席だ」
僕も、そっと腰を下ろした。
ズボンを通して、冷たさがじわじわやってきた。
大きなナメクジが、おしりの下で昼寝をしているようだった。
「ただいま、びちょの強さは一です!」
車内に水沢さんの声が流れた。
「一でこれなの?」
「蒼汰、びちょまんじゅう食べるか?」
お父さんが言った。
食べ物を売るカートがやってきた。
「びちょまんじゅうはいかがですか」
「どんなまんじゅうですか?」
お母さんが聞いた。
「中に水が入っています」
「あんこは?」
「水です」
「皮は?」
「ぬれています」
「それは、水を皮で包んだだけでは?」
「旅先で食べる特別な水です」
お父さんは四つ買った。
「せっかくだし」
「せっかくだしで水を買わないで!」
びちょまんじゅうをかじると、口の中に水があふれた。
青。
黄色。
ピンク。
水の色が、口の中で次々に変わった。
目の前に、ピンクのぞうが三頭現れた。
ぞうたちは小さなぼうしをかぶり、新幹線の通路でなわとびを始めた。
「お父さん。ぞうがいる」
「どこに?」
「そこ」
「何もいないぞ」
ぞうたちは僕に向かって手を振ると、シャボン玉になって消えた。
「おいしい!」
穂乃花が言った。
「本当に?」
「うん! 耳の中が青くなる!」
「それを、おいしいと言っていいのか?」
お父さんもびちょまんじゅうを食べた。
しばらく口を動かし、遠い目をした。
「会社の味がする」
「会社って、どんな味?」
「味がしない味だ」
大人は大変だと思った。
毎日、味のしない場所へ行き、夜になると帰ってくる。
お父さんは窓の外を見ていた。
いつもの朝より、少しだけ楽しそうな顔だった。
*
金沢に着いた。
駅の前には、大きな門が立っていた。
「みんな、並んで」
お母さんがスマホを出した。
「蒼汰、ちゃんと笑って」
「これから水にしずめられる人が笑えるわけないよ」
「そんなに大げさな」
僕たちが門の前に並ぶと、門の足が一本だけ動いた。
ずずず、と石の上を歩き、僕たちのすぐ後ろへ来た。
「門が動いた!」
「蒼汰、カメラを見て」
「後ろの門が歩いたんだって!」
写真を撮り終えると、門は何もなかったように元の場所へ戻った。
水沢さんだけが、うんうんとうなずいていた。
「金沢も、皆さまのお越しをよろこんでいます」
「町を歩かせないでください」
バスに乗り、兼六園へ向かった。席にすわったしゅんかん、乗っていた人たちが、いっせいに言った。
「あっ」
バスの席は新幹線よりぬれていた。
車内に水沢さんの声が流れた。
「ただいま、びちょの強さは二です! 座席や道が、しっとりぬれます!」
「もう、しっとりをこえてるよ!」
兼六園に着く。白い雲。緑の木。きれいな池。
今度こそ、ふつうの旅行が始まるのかもしれないと思ったけど、青い魚が池の上を飛んだのを見てしまった。
そのしゅんかん、松の木から水がふき出した。
「うわああああ!」
右の松から青い水。左の松から黄色い水。奥の松からピンク色のあわ。あわの一つ一つの中を、小さな馬が走っていた。
「名物、びちょ松です!」
水沢さんが叫んだ。
「そんな名物はない!」
松の枝が、ぐにゃぐにゃと曲がった。
一本は大きな手。一本は長いへび。
へび松が、僕の頭へ水をかけた。
「松がねらってきた!」
穂乃花は、ピンクのあわを追いかけていた。
「お兄ちゃん、馬が飛んでる!」
「口を開けるなよ!」
僕は折りたたみがさを出した。
水沢さんが飛んできた。
「お客様! かさは禁止です!」
「自分で持ってきたかさです!」
「蒼汰くんだけかわくと、ご家族がバラバラになります!」
「かさ一本で家族はバラバラにならない!」
園内に声が流れた。
「びちょの強さが三になりました! これから靴の中に水が入ります!」
「先に言えばいいと思ってるだろ!」
足元の石のすき間から、水がわいてきた。
ちょろちょろ。
じゃぶじゃぶ。
水は靴の中へ入った。
冷たい。
「靴下が終わった!」
旅行は始まったばかりなのに、最初の靴下が終わった。
「蒼汰、かわりの靴下を持ってきたでしょ?」
お母さんが聞いてきた。
「三足持ってきたよ」
「じゃあ大丈夫ね」とお母さんが言う。
何が大丈夫なんだろう。
*
お昼は、近江町市場の海鮮丼だった。
僕は楽しみにしていた。マグロ。イクラ。カニ。エビ。
朝からびちょびちょにいじめられた心を、魚とご飯で元気にするのだ。
店へ入ると、テーブルの上に、きれいな海鮮丼が並んでいた。
赤いマグロ。オレンジ色のイクラ。白いイカ。
僕ははしを持った。
店員さんが、大きなやかんを持ってきた。
どぼどぼどぼ。やかんの水で海鮮丼はびちょびちょだ。
「何をしてるんですか!」
「びちょ海鮮丼、りゃくしてびちょ丼です」
「魚とご飯がしずんだ!」
「海の中へ帰してあげました」
「食べ物を帰さないでください!」
丼の中で、マグロがゆらゆらしている。
イクラは水の上を流れている。
カニが、じっと僕を見ていた。
「ヤア」
カニが言った。
僕ははしを落とした。
「カニがしゃべった!」
「どのカニ?」
お父さんが聞いた。
「僕の丼のカニ!」
もう一度見ると、カニはただのカニだった。
「水族館ごはんだ!」
穂乃花が言った。
「名前を変えても、しずんだ海鮮丼だよ」
お父さんが一口食べた。
「うすい」
お母さんも食べた。
「うすいね」
僕も食べた。
うすい。
とにかく、うすい。
水を飲んでいると、ときどきマグロが口に入ってくる。
穂乃花は、水に浮かぶイクラを、はしで追いかけていた。
イクラが一つにつながり、赤い魚になった。
赤い魚は丼から飛び出し、お父さんの茶わんを一周し、お母さんの頭を飛びこえた。
最後に、穂乃花の口へ飛びこんだ。
「おいしい!」
穂乃花が笑った。
お母さんも笑った。
お父さんも笑った。
僕も、がまんできずに笑った。
ひどすぎる。
でも、家族みんなで同じひどい目にあっていると、だんだん笑えてくる。
店の窓の外では、青い魚が僕たちを見ていた。
*
午後は、ひがし茶屋街へ行った。
石の道に古い家が並び、ぬれた屋根がきらきら光っていた。
通りの奥から、大きな車がやってきた。
上には、水のけむりを出す機械が乗っている。
車を引く人たちは、「びちょやー、びちょやー」と声を上げていた。
「お祭りにするな!」
「びちょ祭りです!」
水沢さんが胸を張った。
「いばらないで!」
機械から白いけむりがふき出した。
町は、あっという間に真っ白になった。
前が見えない。
右も左もわからない。
「蒼汰、どこだ!」
お父さんの声がした。
「ここ!」
「穂乃花は?」
「ここー!」
「お母さんは?」
「ここよ!」
声だけが白いけむりの中を飛んだ。
僕は手をのばした。
指先が、小さな手にふれた。
穂乃花の手だった。
けれど、ぬれていて、するりとすべった。
「お兄ちゃん!」
穂乃花の声が遠くなった。
僕はもう一度手をのばし、今度は強くつかんだ。
「はなすなよ!」
「うん!」
穂乃花も、僕の手を強くにぎった。
反対側から、お母さんが僕の肩をつかんだ。
お父さんは、お母さんのリュックをつかんだ。
「何も見えない」
お父さんが言った。
「メガネを取ったら?」
「もっと見えない」
小学四年生にもなると、家族と手をつなぐのは少しはずかしい。
でも、今は仕方がない。
これは、はずかしい手つなぎではない。
迷子にならないための手つなぎだ。
白いけむりの向こうで、青い魚が光った。
魚について歩くと、けむりの外へ出ることができた。
けむりの外には、水沢さんが立っていた。
いつものように青い旗を持っていたが、笑っていなかった。
「穂乃花ちゃん、大丈夫ですか?」
水沢さんが、しゃがんで聞いた。
穂乃花は僕の手をにぎったまま、うなずいた。
「ちょっと、こわかった」
「えっ?」
水沢さんは、手に持っていた予定表を見た。
紙には、こう書いてあった。
【白いけむりで、家族のきずなを深めます】
水沢さんは予定表を見た。
次に、ぬれて震えている穂乃花を見た。
もう一度、予定表を見た。
「でも、家族のきずなは深まりましたよね!」
水沢さんは、いつもの大きな声を出そうとした。
けれど、声は途中で小さくなった。
「……たぶん」
「水沢さん?」
「いえ。なんでもありません」
水沢さんは、ぬれた予定表をたたんだ。
紙から青い文字が一つはがれ、地面へ落ちた。
き。
文字は水たまりの上で、ぷるぷる震えていた。
水沢さんはその文字を見つめ、青い旗を少し下げた。
「けむりを、もう少し弱くするように本社へ伝えます」
「弱くできるんですか?」
「おそらく」
「いままで伝えてなかったんですか?」
「……本社は、強いほうが思い出になると言っていました」
そのとき、水沢さんの無線が鳴った。
『水沢さん、びちょ祭りは予定どおりですか?』
水沢さんは無線を口へ近づけた。
少しだけ迷ってから、答えた。
「予定どおりです。ただし、次からは子どもがこわがらない強さにしてください」
『そのような設定はありません』
「では、作ってください」
無線の向こうが静かになった。
水沢さんは自分でもおどろいたような顔をした。
すぐに、いつもの笑顔へ戻った。
「では皆さま、次へまいりましょう!」
でも、青い旗の「び」は、さっきまでより少し小さくなっていた。
振り返ると、僕たちの足あとで、石の道に大きな「び」の字ができていた。
道まで仲間になっている。
*
夕方、旅館の濡乃屋に着いた。
着物を着た女の人が、入り口で頭を下げた。
「ようこそおこしくださいました。足元の悪い中、ありがとうございます」
空は晴れている。
でも、旅館の床は水びたしだった。
「こちらは、ようこそびちょです」
「ようこそのやり方がまちがってる!」
部屋の畳もしっとりしていた。
「畳がぬれています」
お母さんが言った。
「はい。びちょ畳です」
「くさりませんか?」
「くさる少し前が、いちばん落ち着くのです」
「落ち着きません」
夕食には、魚、肉、野菜、天ぷらが出た。
そして、全部が水にしずんでいた。
「天ぷらまでぬれてる!」
「こちら、びちょぷらです」
水沢さんが言った。
「最悪の名前だ!」
「カリカリにあげた天ぷらを、わざと水へ入れました」
「何のために?」
「ぬらすためです」
まっすぐな答えだった。
お父さんは、びちょぷらを食べた。
「ふにゃふにゃしているところが、今の僕ににている」
「旅先で悲しいことを言わないで」
お母さんが笑った。
穂乃花が、にんじんを水の中で泳がせた。
すると、にんじんに足が生えた。
皿から飛び出し、部屋の中を走り始めた。
エビの天ぷらにも足が生え、にんじんを追いかけた。
「待てー!」
穂乃花が追いかけた。
お父さんも追いかけた。
僕も追いかけた。
最後は家族四人で、ぬれた畳の上へ転がった。
服はぬれた。
でも、少し楽しかった。
*
夜、僕とお父さんは温泉へ入った。
温泉は、ぬれていて当たり前だ。
ぬれる場所でぬれる。
これこそ正しいぬれ方である。
「ああ……」
お父さんが湯ぶねで息をもらした。
「蒼汰、今日は楽しかったか?」
「ぬれた」
「それはそうだな」
「でも、少しだけおもしろかった」
「そうか」
お父さんは、会社へ行く朝より元気そうに笑った。
「父さんは?」
「楽しいよ。こんなに何も考えず笑ったのは、ひさしぶりだ」
そのとき、湯ぶねの底が開いた。
「うわああああ!」
僕とお父さんは、お湯ごと長い水のすべり台へ落ちた。
右へ。左へ。上へ。下へ。
「温泉を乗り物にするなあああ!」
最後は広間の畳へ、水といっしょに飛び出した。
水沢さんがマイクを持って待っていた。
「親子びちょスライダー、いかがでしたか!」
「まず服を返してください!」
お父さんが叫んだ。
僕は笑った。お父さんも笑っていた。
*
次の朝。
布団はぬれていた。
ぬれた布団で一晩ねるのは、ものすごく嫌だった。
朝ごはんのあと、水沢さんが言った。
「今日は自由に町を歩いていただきます!」
みんながよろこんだ。
「ただし、びちょの強さは四です!」
「自由じゃない!」
僕たちは商店街へ向かった。
お母さんはお土産を見たがった。
穂乃花はアイスを食べたがった。
お父さんは言った。
「せっかくだし、全部行こう」
また危ない言葉が出た。
おかし屋へ入ると、水でっぽうを持ったロボットが出てきた。
「イラッシャイマセ、ビチョ」
「最後にビチョをつけないで」
ロボットは、お土産の紙に水をかけた。
「お土産がぬれる!」
「思イ出モ、イッショニ包ミマス、ビチョ」
「何を言ってるんだ!」
次に入ったカフェは、ふつうに見えた。
かわいた木のテーブル。かわいたいす。かわいたメニュー。僕は、かわいた物を見ただけで泣きそうになった。
「ホットココアをください」
お母さんが言った。
「びちょにしますか?」
「かわいたままで!」
しばらくすると、ふつうのココアが出てきた。
温かい。
いいにおい。
僕はカップを持ち上げた。
天井から水がふき出した。
「なんでだよ!」
店員さんが、あわてて顔を出した。
「すみません! びちょびちょトラベルのお客様がかわこうとすると、水が出る仕かけです!」
「そんな仕かけを町じゅうにつけないで!」
お父さんのスマホが鳴った。
【蒼汰くんと穂乃花ちゃんのご家族が、かわこうとしています。水を追加します】
「見張られてる!」
僕たちは店を飛び出した。
道の両側から水が飛んできた。
花屋のホース。
魚屋の水そう。
郵便ポスト。
自動はん売機からは、青いカエルが飛び出した。
カエルは二本足で歩き、太鼓をたたきながら道を進んだ。
道が波のようにうねった。
家がぐにゃりと曲がった。
信号が鳥になって空へ飛んだ。
赤い鳥。
青い鳥。
黄色い鳥。
三羽は空でぶつかり、大きな「び」の字になった。
「町が全部、変になってる!」
空が暗くなった。
四角い雲が浮かんでいた。
白い豆ふのような雲の横には、びちょびちょトラベルのマークがついている。
「お客様へお知らせします」
雲から声がした。
「びちょの強さを五にします。これより、全部びちょびちょを始めます」
「始めるな!」
四角い雲から、大量の水が落ちてきた。
雨ではない。
滝だった。
道が川になった。
金沢駅の門は足を生やして逃げた。
兼六園の松が空を飛び、水をまいた。
大きな魚が、ビルの間を泳いでいる。
空の「び」の字が、口を開いた。
「ビチョ」
「空までしゃべるな!」
大きな水の流れが、僕たちへ向かってきた。
「こっち!」
お母さんが穂乃花を抱き上げ、店のひさしの下へ走った。
お父さんが僕の手をつかんだ。
水がひざまで来た。
足が地面からはなれそうになった。
「お兄ちゃん!」
穂乃花が、僕のリュックをつかんだ。
いつも笑っている穂乃花が、泣きそうな顔をしていた。
「どこにも行かないで」
「行かないよ!」
僕は穂乃花の手をにぎった。
そのとき、水沢さんが水の中を走ってきた。
青い旗を横にして、流されそうな子どもを引っぱっている。
「皆さん、高い場所へ逃げてください!」
「水沢さん!」
「これはもう、旅行ではありません!」
水沢さんは、ぬれた帽子を脱ぎ捨てた。
「本社は『家族の思い出が深まる』と言いました。でも、怖がっているお客様をぬらし続けるのは、まちがっています!」
水沢さんは首から下げていた青いカードを、僕へ渡した。
「本社へ入るためのカードです。蒼汰くん、水を止めてください」
「水沢さんは?」
「私は、ほかのお客様を助けます」
「会社におこられませんか?」
「お客様を助けておこる会社なら、私が先に会社におこります!」
水沢さんは青い旗を高く上げた。
「びちょびちょトラベルの皆さん! こちらへ逃げてください!」
水沢さんは、水に流される人たちのほうへ走っていった。
青い魚が、僕の目の前を横切った。
魚は、金沢駅の前にある高いビルへ向かって泳いでいく。
そのビルだけが、まったくぬれていなかった。
「母さん、あのビル!」
「びちょびちょトラベル本社って書いてある!」
「行こう!」
僕は叫んだ。
「社長に水を止めさせる!」
穂乃花も、ぬれたこぶしを上げた。
「社長、びちょれ!」
本社の自動ドアは開かなかった。
ドアの横に文字が出た。
【びちょびちょのお客様は入れません】
「あなたの会社のせいだろ!」
僕は水沢さんから受け取った青いカードを、機械へ当てた。
ピッ。
ドアが開いた。中の床は、ぴかぴかにかわいていた。
僕たちが歩くたび、水たまりができる。
「床がぬれます!」
受付のお姉さんが悲鳴を上げた。
「ぬれろ!」
お父さんが叫んだ。
完全に別の人になっていた。
エレベーターで一番上へ行った。
ドアの向こうには、大きな部屋があった。
社長が、かわいた机の前にすわっている。
髪も、服も、靴下も、全部かわいていた。
「君たち、どうやってここへ来たんだね」
「水沢さんがカードをくれました」
社長の顔がきびしくなった。
「水沢くんは会社を裏切ったのか」
「お客さんを助けただけだ!」
僕は叫んだ。
「町の水を止めてください!」
「止めることはできない」
「どうして!」
「家族が同じようにぬれれば、みんな仲よくなる。私はそう思って、この旅行を作った」
「だったら、自分もぬれればいいだろ!」
社長は、自分のかわいたくつを見た。
「私は、ぬれるのが大きらいなんだ」
「自分が嫌なことを、お客さんにさせるな!」
社長室の奥には、ガラスの箱があった。
中には白いレバーがある。
レバーの上には、こう書かれていた。
【金沢の水を止める】
「あれだ!」
僕がレバーへ向かうと、部屋でベルが鳴った。
ビーッ、ビーッ。
【かわこうとするお客様を見つけました】
「何だ、これ!」
【お客様かわき防止そうちを動かします】
天井と床が開いた。
青、黄色、ピンクの水が、いっせいにふき出した。
部屋の奥まで、深い水が広がった。
水の上には、大きな「び」の字がいくつも浮かんでいた。
「そんな仕かけを会社につけるな!」
社長は机にしがみついた。
「その装置は、私にも止められない!」
「社長なのに?」
「作った人が会社をやめてしまったんだ!」
「先に止め方を聞いておけ!」
青い魚が僕たちの前へ飛んできた。
水の上を一周し、レバーのほうへ向かった。
「私が道を見る!」
お母さんが、かべに浮かび上がった案内図を指さした。
「右側は流れが弱い。父さん、蒼汰を支えて!」
「わかった!」
お父さんが水へ入った。
「冷たっ!」
僕も足を入れた。
かわりの靴下は、もう一足しか残っていない。
ここで入ったら、また靴下が終わる。
嫌だ。
本当に嫌だ。
けれど、窓の外では町が水にしずみかけている。
穂乃花は僕の服をにぎった。
「お兄ちゃん」
「大丈夫」
僕は水へ入った。
靴下が一気にぬれた。
「靴下が終わったあああ!」
僕の叫びが社長室にひびいた。
「左へ!」
お母さんが声を上げた。
お父さんが先へ進み、僕の手を引いた。
穂乃花は、お母さんに抱かれてついてきた。
浮かんでいる「び」の字をふむと、ぐにゃりとしずんだ。
水の流れが強くなった。
僕の足がすべった。
「蒼汰!」
お父さんが僕のうでをつかんだ。
お母さんがお父さんの服をつかんだ。
穂乃花がお母さんの首につかまった。
家族四人が、一つの長いだんごになった。
青い魚が右へ曲がった。
「魚についていって!」
穂乃花が叫んだ。
魚のあとを追うと、流れの弱い道があった。
部屋の一番奥に、白いレバーが見えた。
でも、最後の水は深かった。
「蒼汰、父さんが行く」
お父さんが言った。
「だめ。父さん、メガネが何も見えてないでしょ」
「たしかに」
レバーは僕のすぐ前にある。
水は胸の近くまで来ていた。
ぬれたくない。
でも、ここまで来た。
「穂乃花、手をはなすなよ」
「うん!」
家族と手をつないだまま、僕は一歩進んだ。
もう一歩。
水をかき分け、レバーへ手をのばした。
「これ以上、勝手に家族をぬらすな!」
僕はレバーを引いた。
ガコン。
ビル全体がゆれた。
窓の外で、町の水が空へ上り始めた。
川になった道が、元の道へ戻った。
空を泳いでいた魚たちは、青い紙になって折りたたまれた。
曲がった家は、くしゃみを一つして、まっすぐになった。
空の「び」の字は、くるくる回り、小さなしずくになった。
社長の頭へ、ぽちゃんと落ちた。
「つ、冷たい!」
「それが、びちょびちょです」
社長は、ぬれた頭をさわった。
「なるほど。これは嫌だな」
「いまごろ気づいたんですか!」
社長は深く頭を下げた。
「申しわけありませんでした。これからは、お客様がぬれる量を自分で決められるようにします」
「ゼロも選べるようにしてください」
「もちろんだ」
社長室のスピーカーから、水沢さんの声が流れた。
「町の水が止まりました! 皆さん、もう大丈夫です!」
社長がスピーカーを見上げた。
「水沢くん……」
「水沢さんは、お客さんを守ったんです」
僕は言った。
「社長も、少しは見習ってください」
*
帰りの新幹線は、ふつうだった。
座席はかわいている。
僕はおそるおそるすわり、息をもらした。
「ああ……」
おしりが冷たくない。
何も起こらない。
それだけで泣きそうになる。
窓の外を、夕焼けにそまった町と山が流れていく。
お母さんは、スマホの写真を見て笑っていた。
お父さんは、びちょまんじゅうをもう一度買えないか調べている。
穂乃花は「お兄ちゃん、楽しかったね」と言ってきた。
「楽しくはない」
「じゃあ、何だったの?」
僕は少し考えた。
松から出たピンクの水。
水にしずんだ海鮮丼。
けむりの中でにぎった穂乃花の手。
お父さんと水のすべり台を流れたこと。
どれもひどかった。
でも、どれも、たぶんずっと忘れない。
「家族事件」
「じけん?」
「家族旅行じゃなくて、家族事件」
お父さんとお母さんが笑った。
穂乃花も、よくわからないまま笑った。
そのとき、お父さんのかばんから、小さな青い魚が顔を出した。
魚は僕にウインクすると、夕焼けの窓へ飛びこんだ。
赤い空を、青い魚が泳いでいく。
僕は見なかったことにした。
もちろん、びちょびちょトラベルには二度と行かない。
……けど、ほどほどのびちょなら、少しだけ考える。
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