「こちらが海外の旅行。こちらは家族でのんびり温泉旅行。そして、こちらがびちょびちょトラベルです」
駅前の旅行のお店で受付のお姉さんが、にっこり笑って言った。
お父さんはカウンターに置かれた青いパンフレットを手に取った。
その横では、小学一年生の妹の穂乃花が、お母さんのうでにくっついている。
びちょびちょトラベル。
小学四年生の僕にもわかる。旅行のお店で、大人がふつうの顔をして言っていい言葉ではない。
「ちょっと待ってください」
僕は、給食でいちごが一個あまったときより手を速く上げた。
「いま、何て言ったのですか?」
「温泉です」
「その次です」
「びちょびちょトラベルです」
お姉さんは、「京都旅行、二泊三日です」と同じ声で言った。
なめらかすぎる。きっと朝の仕事が始まる前に店のみんなで練習しているのだ。
びちょびちょ。びちょびちょ。
もっと笑顔で、びちょびちょ!
カウンターにはほかにもパンフレットが並んでいた。
国内の旅行。外国の旅行。温泉。古いお城めぐり。おいしいものめぐり。
その中で、びちょびちょトラベルのパンフレットだけ青かった。
表紙には大人の男の人と女の人、それに男の子と女の子が写っていた。たぶん家族だろう。全員、ずぶぬれだった。
お父さんのメガネから水が落ちている。お母さんの髪は、顔にワカメのようにはりついている。男の子のリュックからはジャージャーと水が流れている。女の子は笑顔でピースしているが、スカートのすそから水がふき出している。もはや家族じゃなくて四つの噴水だ。
表紙には、大きな文字でこう書いてあった。
びちょびちょトラベル
家族の思い出、しぼれるくらい。
しかも、表紙の青い「び」の字から、本当に水がたれていた。
ぽちゃん。
しずくがカウンターに落ちた。
しずくは丸くふくらむと小さな青い魚になった。
魚はぴちぴちとはねると、パンフレットの中へもぐっていった。
「いま、魚が出ませんでした?」
僕が聞くと、お姉さんは首をかしげた。
「人気の仕かけです」
「どうした、蒼汰」
お父さんがパンフレットをのぞきこんだ。
「さあ、ひと夏の思い出にぜひ」とお姉さんが言う。
嫌な予感がした。
「せっかくだし、行ってみようか」
出た。『せっかくだし』。
お父さんは前にも、「せっかくだし」と言って、出張先で緑色のジュースを買ってきた。家族四人で飲んだら、全員でトイレを取り合うことになった。
別の日には、「せっかくだし」とスーパーで紫色のジャガイモを買ってきて、カレーのなべの中に大魔王のぬまを作った。
お父さんの「せっかくだし」のあとには、ろくなことが起きない。
「父さん、これはやめよう」
「でも、少し変わっていて楽しそうじゃないか」
少し変わっていて楽しそう。
これも、お父さんの危ない言葉だ。
お母さんはパンフレットの後ろにある料金を見ていた。
「新幹線と旅館がついて、この値段なら安いわね」
「お母さん、安さで家族をびちょびちょにしないで」
「いいじゃない。安ければすこしぐらいびちょびちょになっても」
「びちょの時点で安心できないよ」
穂乃花がパンフレットを指さした。
「ほのか、これがいい!」
「よくない!」
「びちょびちょ、楽しそう!」
「楽しいわけないだろ。靴下がぬれるんだぞ」
「かわかせばいいじゃん」
小学一年生は強かった。
お姉さんがパンフレットを開いた。
中から、さっきの青い魚が飛び出した。
魚は僕たちの頭の上を一周すると、またページの中へもぐった。
「こちらが、家族に一番人気の金沢スタンダードびちょプランです」
「金沢なんですか?」
「はい。一日目は、びちょびちょ新幹線、兼六園のびちょ松、近江町市場のびちょ海鮮丼、ひがし茶屋街のびちょ祭り、お泊まりは名物旅館・濡乃屋です」
名前を聞いただけで服がしめってきそうだった。
「二日目は自由に町を歩いていただきます」
「そこはふつうなんですね」
「もちろん、自由にびちょびちょになっていただきます」
「ぬれない自由はないんですか?」
僕は何度も反対した。
けれど、お父さんは「せっかくだし」と言った。
お母さんは「安いし」と言った。
穂乃花は「びちょびちょ!」と両手を上げた。
気がつくと、お父さんは申しこみの紙に、自分の名前を書いていた。
その横で、パンフレットの青い「び」が、にやりと笑った気がした。
*
旅行の日。
東京駅の広場には、青い旗を持った男の人が立っていた。
旗には、白い文字で「び」と書いてあった。
「皆さま、おはようございます!」
男の人が大声で言った。
「今日、皆さまといっしょに旅をする水沢です!」
水沢さん。名前まで湿っていそうな人だった。
「では、びちょびちょのかくにんをします! 蒼汰くんと穂乃花ちゃんのご家族!」
「はい」
お父さんが答えた。
「ぬれる心のじゅんびはできていますか?」
「少しくらいなら」
「少しではこまります!」
こまるのはこっちだ。
「今日の目あては?」
「家族で楽しく旅行することですかね」
「ちがいます! 家族で楽しくびちょびちょになることです!」
「びちょびちょー!」
穂乃花が両手を上げた。
「やめろ、穂乃花。向こうの仲間になるな」
新幹線のホームへ行くと、白い車体が入ってきた。
白い車体にきれいな窓。それにかわいたドア。見たところふつうの新幹線だった。
僕はほっとした。新幹線まで変だったら、日本はもう終わりだ。
だけどドアが開いたら中から、むらさき色のけむりがふき出した。
「うわっ!」
けむりは黄色になった。
黄色からピンク。
ピンクから青。
青いけむりの中を、小さな魚が何匹も泳いでいた。
その先頭に、パンフレットから出てきた青い魚がいる。
「こちらが、びちょびちょ新幹線です!」
水沢さんが拍手した。
「新幹線の中に魚を泳がせないで!」
「きんぎょ!」
穂乃花は大よろこびで魚を追いかけた。青い魚は穂乃花の手をするりとぬけ、僕の鼻先で一回転した。
「蒼汰、写真を撮るよ」
お母さんは、もうスマホを出していた。
「いまは写真より逃げるほうが先だよ!」
車内へ入ると、座席がしっとりしていた。
びしょびしょではない。でも、かわいてもいない。手でさわると、座席が小さな声で言った。
「すわって」
僕は手を引っこめた。
「いま、座席がしゃべった」
「旅行でつかれてるんじゃない?」
お母さんが言った。
「まだ東京駅だよ!」
お父さんがすわった。
「あっ」
お母さんもすわった。
「あ、これは……」
穂乃花は勢いよくすわった。
「おしりが雨だ!」
「雨じゃない。座席だ」
僕も、そっと腰を下ろした。
ズボンを通して、冷たさがじわじわやってきた。大きなナメクジが、おしりの下で昼寝をしているようだった。
「ただいま、びちょの強さは一です!」
車内に水沢さんの声が流れた。
「一でこれなの?」
「蒼汰、びちょまんじゅう食べるか?」
お父さんが言った。
食べ物を売るカートがやってきた。
「びちょまんじゅうはいかがですか」
「どんなまんじゅうですか?」
お母さんが聞いた。
「中に水が入っています」
「あんこは?」
「水です」
「皮は?」
「ぬれています」
「それは、水を皮で包んだだけでは?」
「旅先で食べる特別な水です」
お父さんは四つ買った。
「せっかくだし」
「せっかくだしで水を買わないで!」
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