愛鷹山の中腹、沼津ICのあたりは石を投げればラブホとスパ銭に当たる。
そのうちのひとつ、バブルの香りがかすかに残るスパ銭がわたしの職場だった。
大浴場をわたしはエステティシャン用のピンクの作務衣を着て歩く。
平日の午前で、湯船には、三島駅からの送迎バスで片道三十分かけてやってきたおばちゃんたちが入っている。だらあ、だもんで、いいらあ。駿河弁を話すおばちゃんたちは皺だらけの顔をくしゃくしゃにしている。おばちゃんのひとりが大窓へ振り向く。湯船の大窓からは、広大な駿河湾が見下ろせ、湾の向こうにはゴツゴツした伊豆半島がふさぐように浮かんでいた。
その隣のおばちゃんがわたしに気づいて「あら、エリちゃん。今日も早いね」と声をかけてくる。わたしは愛想笑いを返した。
広々とした湯船の片隅にはマーライオンそっくりの石像が建っている。マーライオンは、口から人工炭酸泉のお湯をじょぼじょぼと吐き出していた。口から出たその湯はおばちゃんたちの裸のあいだを縫って流れ、浴槽の底の吸い込み口へ流れると、地下のポンプ室で循環濾過され、炭酸ガスを足されるとまたマーライオンの体内へ戻っていく。
あのマーライオンはこのスパ銭の前のオーナーが趣味でつけたと、古株の常連のおばちゃんが教えてくれた。前のオーナーは大学時代に行ったシンガポールでマーライオンを観て感激し、スパ銭で一山当てると、月イチでシンガポールへ行ってバカラをしてきて、当然借金に溺れ、このスパ銭を手放しても返済できなかったらしい。わたしにその話をしてからすこしして、おばちゃんはロッカーで自分の服が盗まれたと何度も訴えるようになった。やがてスパ銭に来なくなり、施設に入ったと風の噂で知ったのはつい最近のことだ。
大浴場の奥、『あかすり処 四十分 五千円』と書かれた扉をわたしは開く。
――あかすり処の中は全部白かった。六畳ぐらいの広さのそれは四方が白いタイル張りで、天井近くの、曇りガラスの向こうからは光がさして、ぼんやりと照らしていた。そして部屋の真ん中にはこれまた白い施術台が二台並んでいる。
これが、わたしが仕事中に拘束されるあいだ動ける、全世界だった。
部屋の隅の排水口にかがみ、絡みついていた髪を指でつまんだ。白髪が二本、茶色い長い髪が一本。知らない女たちの一部を、わたしはゴミ箱へ捨てた。
それからお湯をシャワーから出して、施術台へかける。施術台の白い表面に水がかかって床に落ちると、排水口へ逃げるように吸いこまれた。
東京から戻ってもう四年になってしまった。
最初はここで半年だけ働くつもりだった。
東京で就職し、社歌が毎日お昼に流れる会社の薄暗いオフィスで、わたしのせいではないことで謝り、わたしの言葉ではない文章をチャットに打ち、エクセルの表を延々と埋めるだけで一日は終わり、築四十年の独身寮に帰ると、わたしはそもそもこの会社にいていいのかどうかすらわからなくなり、次の新入社員が入ったあたりで辞めて地元へ帰った。辞めたあと、すぐにICの近くの安いアパートを借りた。実家にいれば、食事の味噌汁を飲み終えるまでに母から結婚の話を必ず一回聞かされる。いまも週に一度、母から〈いい人いないの〉とLINEが来る。いい人というのが、わたしにとっていい人ではなく、母が近所へ自慢できる人だというのは言わなくても理解していた。
わたしは黒いあかすりミトンと使い捨てのT字の紙パンツをそれぞれカゴにいれた。
時計は十時五十七分をさしていた。十一時の予約は七十分コースだった。
引き戸が開き、お客さんが入ってきた。
平日の午前に来る客としては若かった。
二十代後半だろうその客は背が高く、肌は見とれてしまうほど白かった。濡れたダークブラウンの長い髪を、後ろで結び、小さなタオルで胸と股を隠している。そのタオルを持つ左手の手首にはリストバンドを巻き、ロッカーの鍵がカチャカチャと揺れていた。
「十一時ご予約の岡島さまですね」
「はい」
女は答えてから、施術台、シャワー、排水口、天井の曇りガラスの順に目を動かした。
「あかすりは初めてですか」と念のため聞く。
「事前に手順は確認しています。人工炭酸泉に十五分入りました。身体は洗っていません」
「ありがとうございます」
「公式サイトに書いてあったので」
あの公式サイトを見られて、なぜか恥ずかしくなる。サイトでは、マーライオンを〈南国情緒あふれるあのライオンの噴水〉ともったいぶって紹介していた。
しかし、なんであかすりが初めてなのにいきなり最長の七十分コースを選ぶんだろうと思いながら、わたしはT字の紙パンツを渡し、施術台に腰に掛けるタオルを置いた。
「こちらに履き替えてください」
背を向ける。紙が擦れるくしゃくしゃとした音がした。なぜか、とても小さな声で「大丈夫、誰にも見られないから」と、女は誰かを安心させるように独り言を言った。
「終わりました」と言われ、わたしが振り向くと、岡島さんは両腕で胸を隠して立っていた。T字の紙パンツは、他のお客さんに比べて丁寧に履いていた。
施術台へうつ伏せになってもらい、腰から下へタオルを掛けた。
背中へシャワーのお湯を流す。白い皮膚のうえをお湯がさっと流れる。肩甲骨がきれいに浮いている。背骨はまっすぐで、肉は少なかった。しっかり食べているのかな、とすこし心配になる。
「それでは始めます。痛かったら言ってください」と呼びかけ、わたしは黒いミトンを濡らして手にはめる。
ミトンをつけた手で、きれいに浮き出た肩甲骨を触り、肩から腰へ擦った。
一往復目では何も出なかった。
二往復目で、細い灰色の垢がぽろぽろと出てきた。
「この三日間、ずっと出張で疲れがたまっています」
「どちらへ出張されたんですか?」
「一昨日は御殿場市に行きました。昨日は伊豆の国市、今日は股の谷市です」
最後の市の名前だけ知らなかった。
「すいません、わたしは地元の人間ですが、股の谷市という街は初めて聞きました」
「知らないのも仕方ないですね。ですがすぐ近くにあります。まあ、先月できたばっかりの街ですから」
わたしは右肩を擦った。左肩に比べて筋が張っている。右肩で鞄を持つ人は、たいていこういう肩をしている。
「ちなみにどういう用事で出張されているんですか?」
「地方自治体向けのコンサルタントをしています。住民票、税金、福祉、子育て、選挙。市役所を動かす基幹システムの標準化支援です。自治体ごとにバラバラだった仕組みを、国の決めた仕様へ合わせます」
岡島さんはそう言ってから、ため息をついた。
「わたしがやらないと進まないんです。去年の春にシニアコンサルタントへ昇格して、部下が五人できたんですけど、みんな指示したことしかやらない。会議資料も見積書も、最後はわたしが直します。自治体とベンダーのあいだで誰かが怒鳴られなければならないときも、だいたいわたしです」
昇格。部下が五人。わたしよりすこし年下に見える女が、東京の会社で人を使っている。
なんでと思った。東京はわたしを吐きだして、岡島さんを残らせた。
右肩へミトンを押しつける。思ったより強く擦ってしまったが、岡島さんは痛いとは言わなかった。
「家へ帰ると、同棲していた男がゲームをしていました。外で五人の面倒を見たあと、家でも一人の面倒を見るんです。さすがに無理でした」
「彼氏さんですか?」
「先月、別れました。小説家志望でした」
「すごいですね」
口にしてから、すぐに後悔した。小説を書く人間と一緒に暮らし、部下を五人持ち、自治体から頼られる女。わたしには何もない。人の身体から垢を出し、一日の終わりに排水口の髪を拾う。
なんでなのとまた思った。
「小説家ではなく、志望です」
背中越しに岡島さんがつけ加えた。
「令和になっても駅員が手で切符を切るような田舎から、なんも計画もなく上京してきて、『俺は地方の衰退と日本の復活をテーマに大長編を書く』なんて豪語していました。三年間で書きあげた原稿はたったの二十五枚でした」
母が一週間に送ってくるLINEをつなげたほうが長そうだった。
「家のリビングの壁一面に日本地図を貼って、図書館で借りた本の内容をポストイットに書いていました。本人は日本列島を俯瞰しているつもりでした」
岡島さんは、男を笑っている。それなのに、声がやさしかった。
「家賃も食費も光熱費も通信費も、わたしが払いました。年金も二年分立て替えました。放っておけば、将来困るのは本人ですから。ただ、食事は作ってくれました。月曜日に大鍋でカレーを作り、火曜日にトマト缶、水曜日に豆乳、木曜日にうどんを足します。金曜日には鍋底へご飯を入れて焼きます。そしていつも焦がします」
地方都市より先に、鍋が滅びそうだった。
「夜遅く帰っても食事を温めて待っていました。玄関を開ける音で、その日の機嫌がわかると言って。わたしがマネージャーに怒鳴られた日は愚痴を聞いてくれて、見積もりをひっくり返された日はストッキングを脱がせて、足を揉んでくれました。昇格が決まったときは、コンビニで一番高いスパークリングワインを買ってきました。っていっても千二百八十円ですし、わたしのクレジットカードから出ていますがね。一緒に酒を飲んで、真帆なら役員まで行けると言いました」
「真帆さんっていうんですね」
「ええ」
そのときだけ、真帆さんの声が甘くなった。
「仕事をさせようとは思わなかったんですか」
「一度、コンビニで働くと言いました。でも、時給と移動時間を考えたら、小説を書く時間がなくなるので止めました。お金の計算ができない。人の指示にやたら反発する。そんな男が失敗して取り返しがつかなくなるより、わたしがやるほうが早いでしょう。仕事でも部下が失敗して自治体やベンダーに迷惑をかけたら、責任を取るのはわたしです。上司からは部下の仕事を奪うなと言われますけど、そんなの現場を知らない人の意見です」
真帆さんの右手が、施術台の縁をつかんだ。ああ、わたしの正社員時代も、こんな先輩が隣のチームにいたなと思った。その先輩の下で働くと、膨大な指示を浴びせられ、「こんなこともわからないのか」と「なんで早く聞かなかったんだ」というダブルバインドをもらい、発想力も行動力もなくなり、生ける屍が大量生産される。その先輩がわたしの部署のグループ長になって三か月後の午後八時、わたしはオフィスでパワポの修正をしながら、静岡へ帰ろうと決めた。
「元彼も、真帆さんが何でもやるから、何もできなくなったんじゃないですか」
真帆さんは話をぴたりと止めた。排水口へ、お湯と灰色の垢が混ざった液が、流れていく音がする。
しばらくして、真帆さんは別の話をはじめた。
「夜十時過ぎに帰ったら、玄関に靴が脱ぎっぱなしになっていました。黒いスニーカーが片方は玄関を向いて、もう片方は部屋を向いていました。三年間、何度も揃えてと言ったのに、一度も揃えてくれなくて、その日に限って、ゲームに夢中で、食事を作ってくれなかったので、わたしはコンビニまで行って弁当を買ってきました」
右の肩甲骨が、石みたいに硬くなった。
「わたしは食べながら、もう面倒は見られないと言いました。あの人はゲームをしながら、わかった、と答えました。もっと泣くか、怒るか、働くから待ってくれと言うと思っていたんです。でも、わかった、と一度言っただけでした」
たぶん、許せなかったのだと思う。三年分の家賃より、別れを一言で受け入れられたことのほうが。
「その晩、最後だからとベッドへ連れていかれました。服を脱がされて、『お前の股で、俺は小説を実現化する』と言いました」
「あの人は油性ペンで道路を描きました。クリトリスの横を通るのが国道で、左右のびらびらを結ぶのが県道です。あの人は本気の目をしていました。別れたのに、わたしは惚れ直しました。確認したらちょっと線が曲がっていたのでわたしが定規を渡しました。道路はまっすぐなほうが管理しやすいはずなので」
真帆さんの声には、恥ずかしさがなかった。混乱してきた。そういうプレイなのかと思った。
「そのときにはすでに別れたんですよね?」と聞く。
「別れました」
真帆さんは迷わず答えた。
「男女としての関係は終わりました。でも都市計画は別です」
真帆さんは、すこしうれしそうに言った。
「朝起きると、恥丘に住宅が三棟建っていました。一棟はマンションで一階にコンビニが入っていて、二階には歯医者さんが開業していました。昼には市役所と総合病院ができ、夕方にはイオンモールが開業しました」
わたしはとっさに、小説家志望だったのは元彼ではなく真帆さんだと思った。この話は、真帆さんの書きかけの小説で、わたしは感想を求められているだけなのだ。
そうじゃなきゃ、いま施術台でうつぶせになっている女は、おそろしくイカれている。
「早いですね」
「イオンの出店判断は異常に早かったです。当時の人口は二百三十七人でした」
「採算は」
「いまも取れていないと聞きました」
そのとき、天井のスピーカーから館内放送が流れた。
お客様にご案内いたします。
本日の正午から一階のお食事処・駿河庵にて、数量限定の特上海鮮丼を販売します。マグロ、サーモン、桜エビ、生シラスを使用した、海の幸たっぷりの一品となっておりますので、ぜひご賞味ください。
館内放送がぷつりと終わった。
わたしも真帆さんも、しばらく黙っていた。背中の垢はぽろぽろと出て、真帆さんの白い肌は赤くなり、やがて、垢もそれほど出なくなった。
「背中の施術が終わりましたのでいったん仰向けになってください」と指示する。
真帆さんは身体を起こした。
腰へ掛けていたタオルを下腹部へ移し、仰向けになる。T字の紙パンツがすこしずれていた。下腹部の皮膚に、四角い盛り上がりがいくつも並んでいた。
最初は湿疹かと思った。
「見ます? 股の谷市を」
真帆さんが恍惚とした顔で言った。
背筋がぞっとした。
正気かと思った。しかし、この狭いあかすり処には、逃げるべきスペースがない。
しかたなく、真帆さんの恥丘に顔を近づけ、わたしは驚愕した。
――白い皮膚の上に、同じ形をした薄茶色の屋根が並んでいた。それらは家だった。家と家の間には細い道路が通り、白い自動車が一台、ゆっくりと走る。
ニュータウンがあった。小さな一戸建ての庭には洗濯物が干されている。黄色い帽子を被った子どもたちが列になって歩き、横断歩道の前で止まった。先頭の教師が左右を確認し、子どもたちを渡らせた。
真帆さんはタオルで胸を隠したまま、わたしを見ていた。
「見えますか」
「はい」
声が震えた。
「股の谷ニュータウンです。子育て世帯を誘致しています。若い世代が増えたので、来月、認定こども園が開園します」
さっきまでミトンで擦っていた皮膚の上に、人が暮らしている。
わたしが垢だと思って流したものの中に、家や人が混ざっていなかっただろうか。
「住人の方々は流されないんですか?」
「大丈夫です。あの人はそんじょそこらの自治体の市長よりも、はるかに防災対策の知識がありますから」
着替えるとき、小さな声で、誰にも見られないからと言った理由がわかった。
真帆さんは自分を安心させたのではない。紙パンツの下にいる住民へ言ったのだ。
「市民に、外の音は聞こえるんですか」
「多少は聞こえます」
真帆さんは紙パンツの上から、股間を押さえた。
真帆さんは、すこしうれしそうに言った。
「あの人はわたしの股に身をよじらせて入って、市へ移住しました。最初はスーツも着ませんでした。Tシャツとサンダルで市議会へ出て、議員と喧嘩して、椅子を蹴ったこともあります。夜になると、市役所を抜けだして、飲み屋街で酒を飲んで寝転がるんです。酔うと、頬を道路へつけて、真帆の土地はあったかい、と言います。翌朝になるときれいさっぱり忘れて『俺は誰の世話にもならない。市長だから』と偉ぶりますけど」
「子どもみたいですね」
「あの人は悪い子ですけど、根はやさしいんです。そもそも男の人なんて、そんなものでしょ?」
悪い子。真帆さんは、元恋人ではなく、息子の話をしているようだった。
真帆さんは笑った。
「市民には人気があります。最近は多少真面目になって、わたしが朝六時に起きて股を覗くともう仕事しています。金髪のメッシュを入れていたロン毛もバッサリ切って黒く染め戻しました。市議会の前日にしっかり答弁書を読んで、赤いペンでしっかり疑問点を書いていきます。洪水の夜は、全世帯を回って高齢者を避難させました。街中で出会う子どもと犬の名前をきちんと覚えて呼びかけます。何もできなかった人が、わたしがきちんと場所を用意してあげたから、必要とされているんです」
最後の一言だけ、すこし強かった。
「市役所のシステムは、あの人が持ちこんだゲーミングPC一台で動いています。住民票も税金も福祉も、全部です。壊れたら街が止まります。だから今日、クラウドへの切り替えと、切り替え後のトラブル対応をしに行きます」
「市長を助けるためですか」
「市民を助けるためです」
真帆さんはすぐに答えた。
「放っておけば、あの人はまた無茶をします。三日寝なくても平気だと言い張って、倒れるまで仕事をする。わたしが管理してあげないと駄目なんです」
東京で働き続けていたら、わたしもこうなれたのだろうか。
部下を持ち、誰かを養い、元彼の市長からも必要とされる女。潰されなかったわたし。毎日、社歌を聞いて、意味のないエクセルを埋め、上司に怒鳴られても辞めなかったわたし。目の前の白い背中が、ありえた世界のわたしの背中に見えた。わたしの代わりに生き残っておいて、どの口が疲れたなどと言っているんだろうと思った。
「システムのクラウド化が終わったら、市長は楽になりますね」
「まだ楽にはなりません。今度は工場を建てなければいけないんですから」
「小説を書く時間ぐらい、できないんですか?」
「小説はもう書かなくていいと思います」
真帆さんの腹をあかすりし終えて、わたしはお湯をかける。
細い灰色の垢が、腹から脇腹を通って、施術台の縁から床へ落ちた。
真帆さんは頭をすこし傾け、目を見張ると「市長が、丁寧にあかすりしてもらえと言っていましたので」とお願いしてきた。
それからしばらく、わたしは黙々と施術をした。腕、脚、もう一度背中。真帆さんの身体の垢がぽろぽろと床に落ち、そのたびに、真帆さんの肌は滑らかになっていった。
施術がすべて終わり、真帆さんは身体を起こした。
「きれいになりました」
「ありがとうございます」
真帆さんは紙パンツの上から股間を押さえて言葉を続ける。
「普段はこんなに優しくしないんです。あの人は、わたしが優しくするとすぐ図に乗ります。東京へ戻って小説を書き、今度こそ真帆を振り向かせると言い出す。だから別れたと言い続けるんです。そうすれば、反抗しながらも街から出ません」
紙パンツの奥から声がした。若い男の声だった。
『聞こえてんぞ、真帆! 俺は出ようと思えば、いつでも出られるからな!』
「出られないでしょ」
真帆さんは股間へ向かって静かに言った。
『うるさい。俺はやればできるんだ』
「わたしの身体に昨日、頬ずりしていたのは誰なの」
『……あれは酔ってたんだよ』
「大丈夫。もうすぐ行くから」
真帆さんは下腹部を手で触ると、母親のように笑った。
「すみませんが、股にシャワーをかけてくださいません?」
真帆さんに依頼され、シャワーのお湯を腹へ流す。
紙パンツの奥から防災無線のサイレンが鳴る。
『あ、こら、なにするんだ!』
「シャワーを止めてください」
わたしはシャワーを止めた。
サイレンも止まった。
「あの人には市長の仕事があります。住民から必要とされています。いまさら上京させません。市長には居住義務があります。市長が任期中に市外へ転出する場合、市議会の三分の二以上の同意が必要という条例も作りました」
「別れた男を、自分の身体の中に住ませて、出られない条例を作ったんですね」
「出られなくはありません。議会が同意すれば出られます」
真帆さんの声が強くなった。
「真帆さんは、同意してほしいんですか」
「どうせあの人は出れません」
真帆さんはすこし間を置いた。
「わたしは股の谷市の母なる大地ですから。住人はほぼ全員、股の谷市と市長に愛着を持っています。市長に出ていってもらう条例に誰が賛成しますか?」
真帆さんは断言した。
「せっかくですし、股の谷市を見ていきます?」
真帆さんは施術台から降りた。わたしは当然「見ます」と返事した。
身体にかかっていたタオルをどけて、T字の紙パンツを下ろした。
真帆さんは両手で股をそっと広げる。そこに街があった。
谷間を縫って道路と鉄道が走り、電車は駅へ滑りこむ。駅は大きな穴の手前にあった。駅舎は商業施設かなにかを兼ねているのだろう、ガラス張りの立派なビルで、その脇にはホテルのような建物が並んでいた。駅前のロータリーからまっすぐ大通りが伸びていて、その中央分離帯には、細い街路樹が植えられていた。通り沿いには広大な公園があり、まだ土だらけの公園で、住民らしき女たちが犬を散歩させている。公園の反対には尿道の穴がある。その周囲には銀色のタンクを並べた工場が建っていて、タンクの壁面には〈株式会社 股の谷塩業 本社工場建設予定地〉とやわらかいフォントで書かれていた。
大通りの終点は突起にあった。薄桃色の突起には「股の谷市役所」と書かれ、疲れきった人たちがスーツやビジネスカジュアルの服装で入っていく。
クリトリスの市庁舎には大きなバルコニーがあり、そこにスーツ姿の男が立っていた。スーツのジャケットは着ず、袖を肘までまくっていて、手には拡声器を持っていた。
『真帆、遅えよ。市長を待たせるな』
「あかすりしてたから遅くなるわよ。なに、わたしに歯向かうつもり? 誰のおかげで市長になれたと思ってるの」
『その人、あかすりの人?』
市長が拡声器をわたしへ向けた。
「そうです」
市長は急に真面目な顔になり、深々とお辞儀をした。
『真帆をきれいにしてくれて、ありがとうございます』
「いえいえ」
わたしは真帆さんの股間へ向かって頭を下げた。
『うちの市、高齢者が増えてるんです。あかすりやマッサージができる人が足りてなくて困っています。移住しませんか』
「わたしが?」
『公務員として任用します。職員用の住居も用意しています』
「どこに?」
『左の太腿の付け根です。日当たりがいいですよ』
太腿の付け根を見ると、白い団地が並んでいた。
『半年だけでも。股の谷市には、あなたのあかすりの技術が必要です』と市長はもう一度頭を下げた。
半年だけ。四年前、わたしは自分へ同じことを言った。あかすりは誰にでもできる仕事だと思っていた。客の身体へお湯をかけ、黒いミトンで擦り、出てきた垢を排水口へ流す。わたしが辞めても、次の日には別の女がピンクの作務衣を着て、同じことをするだろう。けど股の谷市では、わたしの仕事が必要だという。
わたしでなければならないとは言われていない。それでも、市長の言葉はまんざらでもなかった。ああ、この人は市長になるべくしてなったんだなと思った。
「考えておきます」
『待ってます!』
市長が拡声器を振った。
「今日は、わたしだけ先に股の谷市へ入ります」
真帆さんは施術台へ片脚を乗せ、太腿を大きく開いた。
『聞いてねえぞ』
市長が叫んだ。
「昨日説明したよね?」
『来るとは言ってなかっただろ』
「システムの移行には現地での確認作業とトラブル対応が必要なの。なに、あんた、どうせこういうことはずぶの素人のくせに」
『できる。俺の街だ』
「またそうやって」
真帆さんの声が、やさしくなった。
「大丈夫。わたしが全部やってあげるから」
『来んなよ』
市長は拡声器を投げた。
「いつも、ああなんです」
真帆さんは困ったように笑った。
真帆さんは笑うと腰を曲げ、自分の股間へ両手を伸ばした。
そのとき、わたしは気づいた。
真帆さんの身体の中に、股の谷市がある。真帆さんが股の谷市へ入れば、身体の中へ身体が入る。入った身体の中にも股の谷市があり、その街にも真帆さんが入っていく。
合わせ鏡みたいに、身体と街が小さくなりながら、どこまでも続くのかもしれない。
あるいは、外側の真帆さんだけが消える。
入ったあと、身体はどうなるんですかと聞きたかった。でも、喉まで出かかったその言葉は、声になることがなかった。
もし言えば、真帆さんは市役所へ電話をかけ、専門家へ確認し、リスク一覧を作り、入市を延期するだろう。それから服を着てスパ銭を出て、東京の会社へ戻る。そして部下の資料を直し、股の谷市に部下を出張させ、システムのクラウド化や工場建設をさせたりして、昇進して、いつか役員になる。そしてわたしは、この白い部屋で知らない女の身体を擦って、そして死ぬ。
わたしだって、古臭いJTCにいたとはいえ総合職だった。担当部署の執行役員は、社の歴史上初めての女性役員だった。もし東京に残って、死ぬ気になって働き続ければ、わたしが、真帆さんの立場でこの狭いあかすり処に現れたような気がした。
わたしと人生がどこかで分岐した女が、いまから自分の不注意で消えようとしていた。消えてなくなってしまえばいいのにと思った。
わたしは別のことを質問した。
「ちなみに、市長とは仕事が終わったら会うんですか」
「……そんな野暮なこと、聞かないでくださいよ」
真帆さんは上半身を曲げ、頭を股に近づける。市役所の屋上から見上げれば、真帆さんの頭が巨大な月のように浮かんでいるのだろう。
「すこし支えてもらえますか」と真帆さんが言ってきた。
わたしは真帆さんの腰へ両手を添えた。濡れた皮膚は、あかすりをしたばかりでつるつるしていた。
真帆さんは頭から、自分の股間へ入っていった。頭が入った。肩がつかえた。
「肩を押してもらえますか? 強く、強く、お願いします」
わたしは左右から肩を押した。肩が入った。腕が入った。胸が入り、腹が入り、腰も入った。
『真帆、ちょっと待って』
市長の声が聞こえた。
『もし、真帆がこっちに来たら、俺たちはどこに存在することになる?』
股の中から真帆さんの声がした。
「大丈夫、わたしがいるから」
何が大丈夫なのか、わからなかった。
真帆さんの脚だけが残った。
わたしは右脚を持ち上げ、股へ押し入れた。
左脚も同じように押した。
最後に踵が引っかかった。
わたしが押すと、足先まで消えた。
――太腿のあいだにあった股の谷市も、市長も、真帆さんも、すべて虚空へ消え去った。
白いタイルの床には、ロッカーの鍵がついたリストバンドが落ちていた。
いつ落ちたのだろうと思いながら、わたしは、その鍵を拾いあげた。
なんの変哲もない、普通の鍵だった。
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