残ったメディアはそう多くない。鼻頭は近道を教えてくれなかったので、ぼくは再びセグウェイをフリーヶ丘行きのオート運転モードにして、メディアを「舌読み」しはじめる。
ラベルに『感覚喪失Ⅰ』と書かれたDVDだ。これもたぶん、Mpeg形式で保存されているだろうから、「舌読み」しやすい。
舐めたとたん、壁と椅子がイメージに浮かぶ。壁は白く、椅子は黒い。やがて、シャイ谷が現れる。やはり全裸だ。胸筋にわずかな弛緩が見られるほか、目を背けたくなるような見苦しさはない。二十五歳としては、おおむね、キレイな身体をしている。
椅子に座る。表情もいい。髪は長髪になっている。手入れされることなく伸ばされた髪は、粗野で、狼のように雄々しい。とっても似合っている。その目に宿る強い光は、哲学者の知性というより、詩人の煌めきだ。ザクロ色のぶ厚い唇に縁取られた口は、拳が二つ入りそうなほど大きい。誇るべき語り部の証だ。
変わった点があるとしたら、日焼けだろうか? 語り部であるシャイ谷はあまり外出しない上に、もともと色白だ。失踪にあたって、外に出るようなことがあったんだろうか?
語り部にうってつけの大きな口は、なかなか動き出さない。言葉を吟味しているのか、肉厚な唇を指で撫でさすりながら、考え込んでいる。身じろぎ一つしない。
やがて、五分ほどの沈黙を打ち破って、シャイ谷は話しはじめる。
「鶏が先か、卵が先か……。とにかく、感覚喪失と禁煙はセットだった。
禁煙したのは、そんなに立派な理由があったわけじゃないんだ。煙草をやめたら健康が手に入るとか、そういうことじゃない。失うものと得るものに論理的な関係を期待するのは貧乏性さ。なにをどうやって得たらいいかわからないから、とりあえずなにかを失ってみたまでの話だ。
ところが、完全に禁煙に成功した頃、俺は背後の喪失に悩まされるようになった。失ってみたら、さらに失ったわけだ。
俺はこれまで背後というものを意識して生きたことがなかった。だってそうだろう? あたりまえのものはあることさえ気付かない。
それがなぜか、禁煙をはじめたとたんだったよ。俺は自分の背後がなくなってしまったことに気付いた。驚いたよ。
具体的に言うと、ひどく頼りない感じだ。頭を掻くのさえ覚束ない。なんというか、自分が今掻いているところが、本当に自分が描きたいと思っているところと合致しているのか、さっぱりわからない。そんな瑣細なことにさえつまずくんだよ。自分の皮膚の上で起きていることが……なんていうのかな、遠い国の戦争みたいなんだ。陳腐な比喩だがね。
境界線は脳天を境にして身体の側面を一周した形になっていた。身体が前と後に分かれていて、それぞれで起きる出来事はまったく違っていた」
シャイ谷は脳天に手刀をあて、身体が前後に分かれていることをジェスチャーで示す。が、それもすぐにやめてしまう。伝わらないと失望したのではなく、語り部である自分が身振りに頼るのをバカバカしいと思ったんだろう。
「前はまだ失っていないから、語ることは難しい。後について語ろう。
例えば……俺は背中から浴びたシャワーが冷水のままだということに長い間気付かなかった。本を読みながら無意識のうちに背中を掻いていたら、気付いたときには真っ赤に血が滲んでいた。わかるだろう? 日常的な感覚の欠落は思いのほか惨事なんだよ。
この間、後頭部を掻きつづけてみた。最後の賭けだった。感覚との我慢比べ。きちんとした痛みの感覚が俺を呼び止めるまで、爪を寝かせるつもりはなかった。俺の後頭部はついに血を噴き、しかも俺は他人に指摘されるまでそれに気付かなかった。指摘したのは友人だったんだが、そいつは、もうやめて、と女々しく泣いた。そして、二度も電話の手順を間違えてから、やっと一一九番との通話に成功した。
なんでこんなに掻いたの、と痩せぎすの当直医に訝られて、俺はうまく答えられなかった。感覚の喪失、という俺の言葉は皮肉な響きを帯びた。
その医者からは近くにあるペイン・クリニックの紹介状を貰った。神経科の一種だそうだ。
俺は麻酔医に説明した。俺は頭の後ろが痒いんじゃない、背後の感覚を失ったんだ。自棄になった、というのもあるかもしれない。どっちかっていうと、痛みをなくしてほしいんじゃなくて、痛みをね、つまりペインをほしいんですよ。
睨み付けるというほどではないにしろ、麻酔医は吟味する観察眼を向けた。俺はかっとなって、思わず叫んだ。嘘じゃない! 麻酔医は怯えた。こっちが済まなくなるぐらい謝りつづけた」
再び、シャイ谷は黙り込む。彼はほんとうに体調が悪かったのだろうか? なんらかの病気? インシュリン切れ? ○者につきものの職業病だろうか? たとえば、ぼくは「舌読み」のやりすぎで舌が三十センチ以上になっている。語り部にもなにか、そういう病気があるのか? あと、彼に指摘した友人というのは鼻頭だろうか?
「俺はひどく恐いよ。自分が自分でなくなるような気がする。だいたい、痛みがなくなったことを医者は精神的な問題だと思ってるみたいだが、それなら俺だって、どれほど救われるか。精神ならそのうち直るからな。
俺が危惧しているのは、肉体の内部崩壊だ。ほんとうに、俺の身体は壊れつつあるんじゃないか? そもそも、なんで俺はあんなにすんなりと○者になれたんだろう? 普通の人間には『三十六式』ができる奴なんて一人もいないじゃないか」
そこまで言って、シャイ谷は頭を抱え込んでしまう。一瞬、画像が止まったのかとも思うが、シャイ谷の胸は静かに呼吸している。映像は彼の絶望を飲み込むように暗転する。
この告白は真実だろうか? 彼は悲劇の英雄ぶるのが好きだった。これもその一貫かもしれない。なにより、これが任務上の効果を狙った「語り直し」なのか、私的な告白なのか、○者の末端にすぎないぼくには判別できない。
でも、もしほんとうだったら……アロロローン! かわいそうなシャイ谷! なんらかの病気に侵されているなんて! ぼくは一刻も早く、彼を見つけ出してあげなければならない!
ところで、日本でトップクラスのブルジョワが住む町という称号が、六本木からフリーヶ丘へと移ってからずいぶんになる。
里崎桃母の住む家は、宿舎のある坂を登った頂上にある。後遺伝学の権威である里崎博士が始めた里崎動物工場では、遺伝子改良によって「インシュリン入りの乳を産する山羊」や「人間に移植しても拒否反応を起こさない臓器を持つ豚」を産み出し、医療関係者が門前に列をなしている。
里崎の名を名士として高めているのは、慈善事業としての里崎孤児院だけれど、出身者のぼくから言わせてもらえば、「慈善」でもなんでもない、ただの営利行為だ。
おおっぴらにはされていないけれど、病院の付帯事業である里崎能力開発研究所は、孤児院出身者を「三十六式」の使い手である○者にしたてあげ、政府系の裏仕事を斡旋し、その上がりを得ている。いわば、ひそかに公認された人体実験場とスパイ養成所の複合施設だ。里崎博士の娘である桃母はそこの所長で、○者第一期生のぼくから見ればボスにあたる。詳しい年齢は知らないけれど、三十過ぎだというのに、毎日コスプレばかりしている。
セグウェイで到着したぼくは、排他的な黒塗りの鉄門の前に立つ。その門はバスケットコートぐらい広い。インターフォンのカードリーダーにIDをかざす。
「はい、探索者さんですね?」
「はい、あの、里崎所長おられますか?」
「はいはい、おられますよ」
インターフォンはぶしつけに切れ、鉄門が音を立て始める。少し開いた隙間から、バスカヴィル家の犬みたいに凶暴そうなシェパードが、ぼくをジャンキーみたいな目つきで狙っている。遺伝子改良で生まれたんだろう、ひどく凶暴そうだ……アロロロ! 忘れていた! ぼくは動物と相性が悪い。ロンパった目が動物には気持ち悪いんだろう。動物園に行くと、ぼくが前を通った檻の動物はみなギャーギャーと騒ぎ立てたものだ。ぼくはきっとこの犬に襲われるだろう……。
門が開く。灰色のシェパードはぼくに踊りかかる! ぼくは抵抗するが、シェパードは思った以上に力強く、素早い! あっさりと押し倒される! 犬に殺されるのは嫌だ! 喉を噛まれるのだけは避けようと、うつ伏せになる! だが、それこそ犬の思う壺だ! 犬はぼくのズボンに噛みつき、引っ張る! 腰ばきしていたズボンはするりと、パンツごと脱げる! 犯される!
「犯される!」
と、ぼくは思ったことをそのまま口に出す。しかも、犬に!
「しかも犬に!」
それは冗談でも何でもなく、ぼくはほんとうに犬に犯され、なんども「おっほう!」と叫ぶ。叫ぶたびに「おっほう!」としか呼びようのない惨めさへと墜落していくが、誰も助けようとはしない。
アロロロ……ことが済む……済んでしまう。犬はぼくの上を離れる。そして、慰めるようにぼくの頬を舐める。舐められた頬の上をぼくの涙が通過する。
「ずいぶん良かったみたいね」
振り向くと、門柱にブルドッグのような顔をした女、里崎桃母が寄りかかっている。
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