――目を覚ますと、たいへん気だるい。なにも回復していないように思う。とても起き上がれない。薄明るい。夜が明けている。窓の外から人々の出かけて行く音がする。壁や天井や床の向こうから、人々の生活する気配がする。
わたしも出かけなければいけない。仕事を探しに行かなければいけない。お母さんがこの世に残してくれた南向き五階3LDKの部屋を、いつまでも仮死にしていてはいけない。復活させなければいけない。停止している心肺を(電気ガス水道を)、蘇生させなければいけない。
やっぱり、体力は回復している。しばらく動けそうだと思う。ふたたび力を使い果たすまで、しなければならないことをしよう。重要なことから順番に、まず公共料金の支払いを済ませに行って、まだ力が残っていたら、仕事を探しに行こう。
けれども今は、日記を書かなければならない。書きかけの日記は、外科手術の途中のようなので。切開したままで放っておくのは、たいへんよくないので。
書き終わると、たいへんくたびれて、横になる。目を閉じる。けれども眠るには体力が足りない。しかも、眠るためには、もっとくたびれなければいけない。日記を書くのに使うのとは違うところを疲れさせなければいけない。掃除をしようか。外出するのは、もう不可能で、もう仕様がない。本当に重要なことは、水道代を支払いに行くことだし、仕事を探しに行くことだけれど、もうできない。
仮に日記で疲れなかったとしても、出かけられるはずはなかったと知っている。外でなにか用事を済ませられるようになるためには、わたしはもっと眠らなければいけないし、もっとごはんを食べなければいけない。もうすぐお兄ちゃんがやってきて、食べている分を確かめて、わたしは怒られる。また日記を書いていたのを見られて、怒られる。それから水道が止まっていることにびっくり仰天して、問い詰めてくる。その分のお金をちゃんと取ってあるのを見ると、安心して、代わりに支払いに行ってくれる。そうして帰ってくると、わたしはあらためて心配される。
(数十ページ読み飛ばし。)
久しぶりに出た水を、しばらく出しっぱなしにした。天国に行くように、トイレに行った。騒がしいお兄ちゃんが帰った後はしばらくの間、神経がたかぶって、色々な用事がはかどる。後になって反動がきて、しばらく混沌とするのが恐ろしいけれど、今はたいへん強気になっているので、ばりばり家事をやっつけて行く。
こういう時には日記を書きたくないけれど、たいへん大胆になっているから、ひと段落した途端に鉛筆を取って、コツコツ音を立てて盛んに書く。十行書くのに半日もかかる時もあるのに、こういう時は数分間でできることもある。こういう時はしばしば、ちょっと変な文章になることもある。
次の一行を書き始めないようにして、仕事探しする体力を待ちのぞんでいる間に、日記がずるずると出てくるので、(それはたいへん無防備な、柔らかい姿なので、)優しく受け止めたり、そっと寝かせたりを、全てが終わるまでし続けなければいけない。
文章の書き方が正しいのかどうかはわからない。たいへん心もとない。間違えているかもしれないまま、続けるしかない。教えてくれる人はいないし、ずるずる出てくるものを、そのへんに捨てることもできないので。引っぱり上げて洗って干しておかないと、たたんで仕舞っておかないと、引っかかったままいつまでも大きくなったり、わたしと繋がったまま腐ったりする気がするので。
(数ページ読み飛ばし。……読み飛ばされるのは単調な身辺雑記のほか、詩や哲学のようなものが多くを占めているらしいが、それを飛ばすのは川之三途と鬼埼墓園の玄人判断であると信ずる。これが何か嫉妬等による隠蔽であるほど二人は悲しくないと信ずる。)
親愛なる日記さま。お兄ちゃんの持ってきてくれるごはんは脂っこくて、塩からいものが多い。お兄ちゃんはリクエストを聞かない。こういうものを食べていると、喉がかわくし、気持ちがざわざわするし、体が臭くなる。反面、夢は豪快に、楽しくなる。けれども、楽しい夢は寂しい。
お兄ちゃんを安心させて、お互いに解放されるために、動き出さなくてはいけない。就職したり結婚したりしなくてはいけない。お兄ちゃんの赤ちゃんが大きくなっても、堂々と会える人になりたい。体力をつけなければいけない。日記を書くのをやめなければいけない。
(数冊読み飛ばし。夜になってライトをつけていたが、外から誰かに覗かれないか心配だった。しかし自分からは何を始めることもできない我々は、やめることもできなかった。)
まっとうな人間に戻るために、回復しなければいけないから、日記なんか書いて、将来に対して、なににもならないのに、甚だしく疲れることを、やめなければいけない。
疲れるのはよくない。友だちの結婚式にも行きたかったし、同窓会にも行きたかったはずだったのに、気持ちのほうでも、行けなかったことについて、行きたいわけでもなかったことにされるのは、改ざんされるのは、ものすごくうんざりするので。
(数冊読み飛ばし。川之三途と鬼埼墓園が、土橋さんの人生を塗りつぶした文章を、物凄い勢いで読み捨てて行っているあいだ、待機している私たちは指でゲームをしていた。検閲中の女流作家二人を見て、半田が「飛ばし読みならぬ、土橋読みやな」と言っていた。)
日記が汚れた。お兄ちゃんに、勝手に読まれて、評論されたのだった。愛娘が処女じゃなくなった母親が、こんなにつらいとは思いもしなかった。わたしがお母さんには味わわせなかった苦痛だ。それともお母さんは、自分は処女じゃないから、つらくなかったろうか……ほら、見事にこんなことだ。たいへんけちがついてしまった。
けれども、そのまま書き続けるしかない。途中まで書いてしまった分は、早く仕上げないと気がかりで眠られないので。頭の中で書き始められてしまったものは、もう書き上げずにおくことはできない。うまく書き表すことはできなくても。なにはなくとも。なにをさしおいても。
(数冊読み飛ばし。)
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