彼は「カナタくん」と皆から呼ばれていた。それが本名なのか、綽名だったのか、今も分からない。カナタくんは、よく「アキャキャキャキャキャ」とまるで悪魔かのような甲高い笑い声をあげた。わたしがそのことをよく覚えているのは、カナタくんが笑うタイミングがいつも周囲の人間とズレていて、彼が笑う時はいつも一人で目立っていたからだった。わかりやすいことで言うと、争いごとはテッパンだった。どこかでいざこざや喧嘩があれば、カナタくんはどんな時でも駆けつけて「アキャキャキャキャ」と甲高い声で笑っていた。だから、カナタくんが当人たちに巻き込まれて殴られることも多々あった。完全にキレている相手に対しても容赦なく笑うので、彼らを引き離すのにも苦労した。争いごとは大好きなようだったが、カナタくん自身が争うようなことは一度も見たことがなかった。それはとても不思議なことだったので、いちど直接聞いてみたことがある。
喧嘩を面白そうに見てるけど、喧嘩したいとは思わないの? そんなこと思うわけないじゃん。殴ったり、殴られたりすると痛いだろ。でも、殴ったり殴られたりする人を見るのは面白い? 面白いよ。面白いだろ? 関係ないところでの喧嘩なら、まあ……。だろ? カナタくんは満足そうに頷いて煙草に火を点けた。この前さ、金田と原が大喧嘩して原が骨折して入院したじゃんか。カナタくんは灰を地面に落としながら言った。金田も原も大学のゼミで一緒だった。あれ、なんで喧嘩になったか知ってる? カナタくんは顔を横に向けて煙を吐いてから嬉々とした顔で聞いてきた。知らない、と答えると彼は煙草を地面で踏み消して口元に微笑を浮かべた。あいつらさ、吉岡さんを好きなことは知ってるだろ。でもさ、吉岡さんに俺は告られたわけよ。えっ! 思わず声が出た。吉岡さんは同じゼミでもマドンナ的存在でみんなの憧れだった。わたしも彼女の魅力にほだされた一人だった。いつ? 去年のクリスマス前だったかな。それで? 付き合ってるの? 俺のことはどうでもいいよ。二人をちょっと焚きつけただけだよ。無理やり触られているところを見たって言ってさ。それは……良くないよ。何で? 吉岡さんは誰とでもヤるって有名だよ。俺も性病うつされて大変だったよ。ケツ叩いてやったら喜んでたな。あれはヤリマンだよ、間違いない。フェラも上手かったし……。わたしは彼の話を聞かずに、喫煙所に背を向けて足早に去った。アキャキャキャキャという笑い声が背後から聞こえた。
吉岡さんがヤリマンだって? 冗談じゃない! わたしは彼女の無垢な光輝く――笑窪と八重歯が印象的で悪戯っぽい、あの――笑顔を思い浮かべて頭を振った。こうなったら、彼女の清純で可憐なことを証明するしかない。すぐにスマホでメモしていた彼女の一人暮らしのアパートの住所をGoogleMapにコピペし、最寄り駅に向かった。キャンパス内には授業を終え、談笑している学生たちが散見された。吉岡さんのコマ割りは頭の中に叩き込んである。今日は水曜日。彼女は四限の西洋文学Aの後に授業はない。真っ直ぐ帰宅していれば、もう家に着いている頃だろう。いや、待て……確か彼女は先月からアルバイトを始めている。水曜日は出勤日だったはずだ。危ない。わたしとしたことが、そんな基本情報を忘れるなんて。彼女のアパートの近くにあるファミレスでウェイトレスをやっている。ひとまず降りる駅は変わらない。少し歩調を速めて駅に向かった。
駅の東口を出て、駅前の商店街を抜けた先、横断歩道を渡ったところに吉岡さんがバイトしているファミレスはある。夕飯には少し早い時間だが、店の入り口に設けられた待合用の籐椅子に四人が掛けていた。わたしはその列の先にある台に載った用紙に備え付けのボールペンで名前と一人であることを記し、椅子に座った。
「二名でお待ちの花田様~」
赤茶色に染めた長髪をポニーテールにした女性店員が入口の中ドアを開けて声を掛け、前に座っていた老夫婦らしき二人が店内に案内された。スーツ姿の会社帰りだろうか(それにしてはずいぶんと早い)、男性二人組が黙って前の席に移動して、わたしもゆっくりと立ち上がって彼らの隣に座った。
「社長ってサイコパスだよな……」
突然、スーツ男の一方が話し始めた。そうか? もう一方は反射的に言った。お前、社長と飯食ったことないの? ないよ。それが? あの人さ、ずっと仕事のことを考え続けてるじゃんか。それは食事中も例外じゃないわけ。この前さ、オムライス専門店に連れて行ってもらってさ、俺はオムライスにきのこクリームソースのかかったやつを注文したんだよね。社長はさ、メニューを一通り見てさウェイターを読んでハンバーグ作ってくれ、って言ったんだよ。もちろんメニューにはない、オムライス専門なんだから。ウェイターも困った顔で「できかねます」って言ったんだよ。そしたらさ、「ここにあるメニューを見ればハンバーグを作れる材料が厨房にあることが明らかだ。カスタマーのニーズに応えるのが君たちの仕事じゃないのか」って、一歩も引かないんだよ、社長は。俺も居づらくなって、社長、俺がハンバーグ作りますよって言ったんだ。
「は? ちょっと待て、お前が一番おかしいぞ」
スーツ男はもう一方の話を遮って言った。「まあ聞けよ」もう一方は右手を軽く上げながら話を続けた。ウェイターも「え?」って言って固まってたよ。俺は厨房に行って料理長らしき男にちょっと厨房使わせてください、って頭下げて、冷蔵庫から合挽きミンチとカットされた玉ねぎの載ったトレイを手に持ってスーツの上着を脱いで、シャツを腕まくりして「ナツメグありますか?」って聞いたら、見習いっぽい若いコックが持ってきてくれてさ。「ハンバーグ作れるんだな……」スーツ男は感心したように言った。それでハンバーグ作って、社長に出したらさ、すげー勢いで食ってたよ。俺も腹減ってちょっと分けてもらった。我ながら良くできてたな。
「それで? 社長のどこがサイコパスなんだ?」
ああ、それでさ、会計になって俺の調理した分の人件費を差し引いた額しか払わないって、オーナーまで呼び出してまたひと悶着あってさ。大変だったよ。で、帰りになんでハンバーグだったんですか? って聞いたわけ。午後の取引先の起業がハンバーグレストランのフランチャイズ経営やってることを思い出したからだってさ。ヤバすぎだろう。
「二名でお待ちの徳野様~」
ウェイトレスの声かけにより、彼らは中に入っていった。わたしは先ほどの話を思い返しながら、サイコパスとなにかとスマホで検索した。
サイコパス:「反社会性パーソナリティ障害」と呼ばれる精神病患者。男性の3%、女性の1%が該当するといわれる。つまり、日本でも約150万人が潜在的にサイコパスということになる。近年のドラマやアニメの影響で「猟奇殺人者」のイメージが強いが、著しく偏った考え方や行動を取る対人コミュニケーションに支障をきたすような症状があるだけで、医者や経営者にもそうした障害を持つ人物は存在するという。
と説明されていた。サイコパスなんていくらでもいるんだな、そういう感慨をもってぼんやりと画面を眺めていると名前を呼ばれたので、立ち上がって中に入る木枠の扉の取っ手を握った。箱型になったいくつかの座席を通り抜け、大通りに面した窓際の席に案内された。メニューを開きつつ、店内を見回して吉岡さんの姿を探した。注文する電子デバイスでコーヒーを注文した。店員がソーサーにのったコーヒーカップを持ってきた。
「あの、この店に吉岡さんって人が働いてませんか? 友達なんです」
わたしはポニーテールの店員に聞いた。個人情報なので、お答えできかねます。と店員は引きつった笑顔を向けた。店員が心なしか足早に厨房に向かった背中を見送りながら、コーヒーを一口飲んだ。ほろ苦さが口内を満たし、コーヒー豆の香りが鼻を抜けた。わたしはゆっくりと窓から大通りを眺めた。灰色の重苦しい雲が広がり、雨が降り出しそうだった。横断歩道を歩く群衆の中で吉岡さんらしき女性が見えた。わたしは彼女が横断歩道を渡るのを見届けて、急いで会計を済ませて外に出た。ワンレンボブの黒髪に白いダッフルコート、足元は黒い皮のヒールの付いたブーツ。吉岡さんに間違いない。遠目に彼女の後ろ姿を観察しながら、わたしは彼女の後をつけた。吉岡さんは自宅の方に向かわず、明かりの灯り始めた歓楽街に入った。風俗店が立ち並ぶ通りにある白いビルに入る彼女の姿を見て、わたしは動揺した。お金に困っているのか……アキャキャキャキャとカナタくんの笑い声が頭の中で鳴り響いた。「うるさいっ!」わたしは声に出して、その悪魔のような声を追い払おうとした。これには事情があるはずだ。そもそも、あそこが風俗店か決まったわけではない。わたしはそう言い聞かせるように考えて彼女を追った。白いビルの郵便受けには「はにーとらっぷ」「サイコパフパフ」「トルネード65」という店名がラベリングされていた。エレベーターが「サイコパフパフ」のある四階で停まったのを確認して、わたしは絶望した。サイコパフパフは間違いなく風俗店だろう。わたしはエレベーターの呼び出しボタンを押して降りてくるのを待った。
「いらっしゃいませー! 三〇分5000円、指名料3000円です!」
立て看板を持った金色のスパンコールが施されたスーツを着た蝶ネクタイ男がエレベーターの扉が開いた瞬間に叫んだ。指名します。と言って、男が持っていたラミネートされた赤地に女性写真の載った案内を受け取った。吉岡さんの笑顔はそこでも眩しく輝いていた(そこにあった名前はサイコ三号だった)。
「サイコ三号で」
あざーす! 前払いになります。男に一万円札を手渡し、お釣りをもらって彼女の待つ暗がりの中に置かれたソファに案内された。暗くて彼女の顔は見えなかった。彼女はわたしの陰茎をしごきながらアキャキャキャキャと笑い声を上げた。わたしは身を固くし、彼女の尻に噛みついた。ギャー! と彼女が叫び、店内がざわついた。すぐに二人の大男に両腕を持ち上げられて店の外に放り出された。吉岡さんは翌日から大学に来なくなった。あの熟れた桃の感触が忘れられず、わたしは翌朝から桃に歯形をつけて彼女のアパート前に置くことを日課にしていた。
あれから大学を卒業し、わたしは田舎にUターン就職してつまらない日々を過ごしている。吉岡さんとはもう会うことはないだろうが、今でもたまに思い出す。彼女の右臀部に入った同じ証でわたしたちはいつも繋がっている。サイコ三号とわたしの絆を思うとき、前歯が浮くようにアキャキャキャキャと笑うカナタくんが乗り移ったように、わたしも笑いを堪えきれなくなってしまう体質になった。
A.anji 投稿者 | 2024-01-21 22:25
狂っているのに読みやすい、という不思議な感触です……。破滅派の雰囲気がまだよくわかっていないのでこの作品を精読して研究させていただきます。
河野沢雉 投稿者 | 2024-01-25 13:41
カナタくんがサイコに見せかけて「私」がサイコのパターンかと思ったら私のカミングアウトが早すぎて「?」と思っているうちにハンバーグ社長のサイコ話にもっていかれ、最後はまさかのみんなサイコ。誰しも多かれ少なかれ反社会的な側面はあるんだから、当たり前なんですよね。そういうことに気付かされる作品でした。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-01-26 10:43
破滅した感じで破滅派っぽいですね!
サイコパスというよりただの狂った人たちなのでは?とも思いましたが、ちゃんとサイコパスについても考えているし、日常の中のサイコパスってこんな感じなのかなと思いました。
大猫 投稿者 | 2024-01-27 20:08
主人公はストーカーなんだけどそれを自覚していなくてとっても怖い。吉岡さん、尻を噛まれるくらいで済んで良かった。
ハンバーグの話が面白かったです。挿入話としたのが良かったです。これがあるおかげで後半がすごく活きてますね。
風俗店の吉岡さんの笑い声に桃みたいな尻。カナタ君のおかげで忘れ難いものとなりました。
眞山大知 投稿者 | 2024-01-27 07:54
登場人物が社会に溶けこみながらも狂っている描写がたまらなく好きです。桃のような尻、噛んでみたいなあ……
今野和人 投稿者 | 2024-01-27 11:21
カナタくんのサイコパス性が主人公に転移する点や、ハンバーグ社長の言動が周囲を巻き込むあたりを興味深く読みました。いくら反発しようと異様に強いパーソナリティーの影響を被ることは不可避なのだなと思い、諦念という言葉が浮かんだ次第です。
小林TKG 投稿者 | 2024-01-28 03:10
やばい日課だあ。
でも、そのおかげで、毎日頑張れる。毎日起きれるし、外出れるし、とにかく生きれる。その日課をやめても、思い出があれば、生きれる。
Xとかで生きてるだけでえらいって言うのを見て、生きてられる。
能田 麟太郎 投稿者 | 2024-01-28 12:12
彼の笑い方につられて笑ってしまいそうになりました。
サイコなんですが、面白おかしい印象がとても良いです。
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-01-28 13:00
なんのこっちゃ分からない話でしたが、なんのこっちゃ分からないなりに楽しめました。いくら薄暗いピンサロであっても相手の顔位見えるんじゃね? 実は気づいてたの? なんて思いました。
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-01-28 15:34
コナン君の米花町はやばい殺人犯ばかりいることで有名ですが、こちらはいわば、そんな人たちで溢れた街なのでしょうか。
いきなり尻に噛み付くなんて、やってることはまるでジョーズ……桃尻女と鮫、、、は関係あるのか否か、ハンバーーグ!
ヨゴロウザ 投稿者 | 2024-01-28 23:09
いっこうにサイコパスっぽくならない展開に作者自身焦ったのか、取ってつけたようにファミレスでのサイコパスについての会話を挿入し、あまつさえネット上に転がっているサイコパスについての解説をそのままコピペしてみせるおざなり具合が最高に破滅していて、星5つです。
退会したユーザー ゲスト | 2024-01-29 00:32
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