部長が家から持ってきた手作り弁当にあたって、午後の全体練習は急遽キャンセル。人望の薄い部長だったから、だれも保健室に様子を見に行こうとしなかった。顧問に合意を取りつけて戻ってきた副部長が部員たちの前で淡々と状況を説明して、本日の部活はお開きに。その帰り道。
「ねえ、林! ちょっと付き合ってくれるんだよね? どうせ暇なんでしょ?」
椎那と林は、ついさっき開店したばかりの電気屋の前を歩いている。13時を過ぎるまで、老いた店主は店を開ける気分にならなかったようす。
スマート農業に反対するゲリラ・アーティストの作品が、空に向かって約50mのコンクリートの柱を伸ばしている。農薬散布用のドローンがプログラムにない円柱に惑わされて方向感覚を失い、電気屋の屋根のはるか上まで昇っていく。まるで子どもが手放してしまった水素風船のように見える。
「え・・・・・・ 演奏会も近いし、ぼく、練習しようと思ってるんだ」
「そんなの、明日やればいいじゃん 明日にしなよ」
「でも、まだうまく弾けない所あるし 部長にも、もっと自主練頑張れって言われてるしさ・・・・・・」
「あいつの教え方が悪いんだよ そのくせ、練習量が足りないとか言って、他人のせいにしてさ」
そこまで言うと、椎那は頭の中で考えていた部長のこれまでの横暴に対する制裁案を、林の耳元に顔を寄せてささやいた。ふつう口にするのも憚れるグロテスクな草案の内容を耳にしたためか、もしくは椎那の長く鋭い髪の毛が林の首元をひっかいたためか、赤面。
「そんなこと、言っちゃダメだよ・・・・・・」
「あたし、言いたいことを言いたい時に言うのよ あんたもそうしたらどう? けっこうおすすめ」
「そんなことできないよ」
「そうね」と言って、椎那はローファーのつま先で小石を蹴って歩いている。「そこがあんたのいいところだよね」
二人は制服姿でバスに乗って街へ。規定高度を越えた農業用ドローンの自爆装置が起動して上空で爆発した。はらはらと灰が降る。
「とにかくついて来てよ お願い」
昨日は路上でうとうとしながら物乞いをしていた髭面の男だったが、今日は立ち上がって走行中のバスを追いかけてきて、並走しながらバンバンとバスの車体を殴ってくる。なにをしたかったのかはわからない。結果として生じたのはバス車内の僅かな左右の揺れと、運転手がやかましく鳴らすクラクションの音。林を怯えさせ、椎那の舌打ちを誘発。
経験の浅そうな若い運転手だったけれど、左カーブのときに壁に押し付けるようなハンドリングを魅せ、物乞いの男をこそぎ落としてバスは加速。5分以上の遅れが出ていた。それ以上の遅れは減点対象だった。
土曜の昼間、とくに餌を用意しなくても野生の人間たちはふらふらと下北沢駅に集まってくる。孤独な水滴が大きな水溜りに合流したがるように、人混みの中に紛れていこうとする林の手首を椎那はしっかり掴んでいる。
「それで、今からなにするの?」
林の質問に椎那はすまし顔で「あたしのベースの弦がへたってるの知らなかった? 今から新しいのを買うの あんたはあたしの買い物に付き合うの」と。
林のため息。
「無闇やたらにベースで男の人を殴るからだよ ・・・・・・あんな乱暴な使い方じゃ、ふてくされて音を出してくれなくなるのは当然だね」
「なんか言った?」
動画広告が絶叫を上げている。叫びたくなるくらいおいしい缶チューハイだということを伝えたいようす。おおむね、歩行者たちには伝わっていない。叫ぶ広告タレントのプライドがかもしだす恥じらいが、むしろその場一帯に気まずさを生んでしまっていて、耳を塞いで通り過ぎる歩行者が多数。
「硬いものを殴りすぎるからだよ」
「ちがうよ 背中とか肩とかさ、硬そうなところには当ててないからね 楽器想いなの 私ほら、お尻を突き出させてるでしょ そういうとこ」
「お尻は柔らかいってこと?」
「人体の中ではね だけど音が悪いの 考えてみたら世の中ってそういうものじゃない? あっちを立てるとこっちが立たず、って感じ あっちの穴に指を突っ込んでふさぐと、こっちにべつの穴があく、みたいなね あ、着いた」
弦交換の依頼を受けた楽器屋の店員が驚いたのは、そのベースが水色に塗装されていたからだった。水色は店員のパーソナルカラー。しかも彼の名前は「空」。仮想現実では自らを「スカイ」と自称している。だれしもが知っている英単語、だから仮想現実では大勢がスカイを名乗っている。無数のスカイたちに血縁関係や連帯感、あるいは競争心も無し。無関係。たった一人のベスト・オブ・ベストの選ばれしスカイを決めようとしない寛容さを、「空のように広い心の持ち主に育ってほしい」という命名者の願いが叶ったものとみることもできるかも。そう考えると、ほんの少しだけハートフルな気分になれる。
「普段はどのような用途でお使いですか?」
スカイの声は爽やなシトラス。
「音楽以外にある?」
「どのような音楽でしょう? 痛みが激しいので、用途に合わせた交換が必要かと思いまして」
「あたしが知りたいくらいなんだけどね ジャンルがあったほうが、安心できるから でも、考えてもよくわからないし、だれも教えてくれないんだよね」
そのとなりで林は自分のモヒカンを触っている。その髪はくすんだ虹色。小さな頭によく似合っている。
「ジャンルはわからないけど、過激だから頑丈なものがいいかもね・・・・・・」
林がつぶやくように言った。
楽器の町医者としての、スカイの問診は続く。
「・・・・・・それで、弦の種類はどうしましょうか? 」
「心臓に斧を振り下ろすような音にしたいから できるだけ太っとくして」
「いまより弦が固くなりますが それでも大丈夫?」
「あるんで、力は」
「ほかには、ええと、ロングスケールのラウンドワウンドにして、素材はどうします?」
「ゴールド」
「失礼ですが、予算は?」
「・・・・・・正気? あたしたちみたいな若者に、いったいどんな予算があるって思うの? それとも、年金でももらっているように見えました?」
あはは、と椎那が林に笑いかける。林もにへへと笑う。その笑い方のルーティン性から、共通のジョークとしてそれが二人のあいだ(もしくは学内全体で)これまで何度も繰り返されてきたということを教えていた。
スカイはどう対応するべきか迷っている。閉鎖的な内輪ネタに意識は向いていない。ひとえに、若者に理解のない大人になりたくなかった。が、一端の店員にすぎない彼に半額サービス祭を独断で開催してあげられる権力はない。ポケットマネーでプレゼント? そもそも先立つマネーがない。給料のほぼ全ては給料日に一ヶ月分の新譜と交換される。それは不可避の月額契約。スカイにどうにかできる衝動ではなかった。
「ねえ」椎那が詰める。繊細なパーツが繊細に配置された顔のなかの眉間に繊細なシワが刻まれている。その繊細な断崖には当然、おあつらえむけの清らかな山百合が咲いているのだが、手を伸ばし、足を滑らせた人々の屍が、谷底の闇の中で目を閉じている。両手は安らかに胸の前でクロス。
「いい? あんたは決定的な瞬間に立ち会ってるってこと、理解してよ あんたがいなかったら、今のあたしはいないわ、って将来言ってあげる あたしが有名になったら、インタビューとかでね そうすれば、あたしのおかげであんた、音楽史に載るかも そんなチャンスなかなか転がってないよ」そう言って、椎那は林に視線を向ける。「だよね こんなチャンスほかにないよね?」
急に訊かれた林はしどろもどろに、
「ええと、・・・・・・たぶん、金輪際ないんじゃないかな ・・・・・・わかんないけど」
最後の言葉に不満を感じながらも椎那はうなずく。それからだめ押しの一言。
「今の生活に満足してるなら、話は別だけどね 毎晩寝る前は、ネットで自分が入る墓の検索?」
ベースの低音でぶん殴られた気分で、スカイはめまいを感じた。
今の生活に満足しているか。スカイは思い出し、数え上げようとした。自分が満足した瞬間を。でも、霧のように散り散りになって掴み取れず、人間の記憶力のあいまいさのせいだね、などと自分自身に言い訳してきた日々がすでにあった。何度も思い出そうとしてきた。思い出す思い出があると信じてきた。
椎那の鋭い視線の前で、スカイは自分が期待していたほど満たされてはいなかったことを知らされる。それはつらい認識だった。
結局、椎那のベースには家系極太麺のような黄金の太弦が張られた。会計を改ざんする決意を固めたスカイの手によって。
- ▽
楽器屋の外で待ち構えて__といっても、隠しきれない自らの体を電信柱の影に重ねているだけの状態で立っていたのは、椎那の「親戚の子」に甘んじているテルオだった。1/2成人式を終えて、なにかしら人生に対する自負を獲得したかに見えるテルオが混濁の人混みの中にいるのはまさに、椎那に対する情熱がゆえだった。
ハプスブルク家のことをだれも教えなかったことが幸いしているかもしれない、無邪気に燃える胸の奥の炎。歴史を教えようとする人も、教わろうとする人も、極端に少なくなったこの時代では仕方のないことだが、代わりにあいた脳のスペースをテルオは空洞のままにしている。日商簿記やITパスポートの知識をその空きスペースに詰めることを家族は期待しているはずだったが、生まれながらの天邪鬼がそうさせなかった。
「あんた、そんなところでなにしてんの?」
テルオは椎那に背後をとられていた。爪を噛むのに夢中になっていたせいで気づかなかった。
「おねえ、おれ、心配だっただ」
「あたしはあんたが心配だよ どうやってここまできたの? 一人で帰れる?」
「帰らない、おれ」
「帰るのよ」
椎那はテルオの頬を指で挟んで、タコの口にする。テルオは照れながら「やめて」と言ってその手を振り払う。
「おれ、おねえが知らない男と歩いているのを見ただ」
「ああ、林のこと? あたしの大事な人なの」
テルオの表情が憎しみに歪む。
仮に、先日(ローンという悪霊が取り憑いているとはいえ、素敵な)マイホームに越してきたばかりの父母息子の、幸せな3人家族がいたとする。そこへ、宅配業者を装った男がドアを蹴破り押し入ってくる。男は職人のような技術と天災のような勢いで、30代後半の母の乳房を牛刀で削ぎ落としながらのレイプで圧殺、6歳の息子の泣き叫ぶ口に血の滴る脂肪を押し込みながら全身の皮をフルーツナイフで剥き剥きして、亡骸ごとマイホームに火を放つ。会社に掛かってきた電話を受けて父が急いで家に戻ると、警察車両が灰になったかつての家庭を囲うように駐車してあって、そのとき、ただ一人この世にとり残されたことを知った父親が浮かべる複雑な表情。青銅のように冷徹な空の下でかじかむ父親の表情のように、テルオの表情もまた歪む。
「いやだいやだ」
テルオが心の声をはっきり口にした。
「帰りな 今から行くところは、あんたにはまだ早いの」
「じゃあ、遅れて行くだ」
「ばか 一時間とか二時間じゃ足りない 5年はかかる」
テルオの憎悪が、絶望へと遷移。むしろ表情筋が驚いている。なんだこの筋収縮の要請は!?
この瞬間に限って、テルオはまごうことなき叙情詩人だった。ただし語彙が足りないために、いつまでたっても詩作品が出力されない。
「どこに行くつもり? 行き先を変えたらどう?」
林が尋ねる。テルオが唾を吐く。椎那がテルオの頭をはたく。うつろな音が、午後3時14分を告げる。
「うわ、なんの音?」
初めて耳にした隙間の多い頭蓋骨の反響音に、林が驚きの声を上げる。
かつて一人の教師がいた。彼女もまた、人生に対する態度があまりに悪いテルオの頭を衝動的にひっぱたいたことがあった。そのとき教室内に鳴り渡った恐ろしい空洞の音に、幼い同級生たちは手を叩いて喜んでいたけれど、奏でた当の教師にはトラウマが植え付けられた。以降、気安く他人の頭を叩くことができなくなったという。
「今のでわかった テルオ、あんた一人で帰んな あたし言ったよね、林は私にとって大事なの その人に唾を吐くってことはあんた、あたしにつばを吐いたのと同じってことだよ あたしに唾吐いて、ただで済むと思ってんの? どんなことになるか、想像できなかった? テルオ、あんた今、相当難しい立場に立ってるってこと自覚してる?」
テルオに自覚はなかったが、椎那の怒りはひりひりと、肌を炙られるように感じ取っていた。絶望の感情が、今度は悲しみへ遷移。悲しみはテルオの眼球の裏でせっせと涙を補充している。すぐにほろほろと涙が流れだした。それを尻目に、椎那はテルオに背を向けて立ち去ろうとしている。
「・・・・・・泣いてるよ?」
林が見たままを言った。まるでテルオが両目から出血しているかのような動揺を見せて。それでも椎那は林の腕を引いて、足を止めようとしない。テルオはとぼとぼ追いかけ始めるけれど椎那に睨まれて立ちすくむ。
椎那とテルオの背中が見えなくなると、空に暗い雲がかかり、太陽はそのへんの空き家か、もしくは岩穴へ逃げ去ってしまったようだった。憂鬱に汚染された灰色の空気。カラスがくちばしで、ゴミ捨て場の金属網をねじまげる音がしているが、今はテルオの泣き声のほうが大きい。
金網を食い破って外に出てきたカラスは、テルオの頭上を大きく旋回。それからテルオの肩の上に着地。傍目には泣く子を慰めようとしているかのように見える。あくまでも、何も知らない傍目からは。
「泣き虫なボク かわいそうに ひどい目に合ったんだね そんなボクの願いを、一つだけ叶えてやると言ったらどうする? 代わりに、ボクの願いが叶ったら、次に私の願いを聞いてはくれまいか」
と嗄れ声で言った。
「なんでお前の願いをきかなくちゃいけないだ」
「え?」
「なんでお前の願いをきかなくちゃいけないだ」
「それが『互酬性』というものだからだよ、ボク 人から何かをしてもらったら、そのお返しをしたくなるものなのだ」
「なんでお前の願いをきかなくちゃいけないだ」
「一方的に受け取るだけなのは間違っているだろう、ボク? 君一人では成し遂げられないことを成し遂げるための力になろう ボクは、私一人では成し遂げられないことを成し遂げるための力になってくれまいか」
「それはいやだ でも、おれの願いは叶えてほしいだ」
「願いを言ってみたまえ」
「おねえの太ももに挟まれたいだ おねえの尻につぶされたいだ おねえのおっぱいをひっぱりたいだ おねえのお腹にのしかかりたいだ おねえの・・・・・・」
「やめたまえ 私は、一つ、と言ったはずだが?」
「一つじゃ足りないだ いやだ」
「考えてみたまえ、世の中には様々な境遇の子どもがいる 君より不幸な子供も大勢いるのだよ それなのに、いやだいやだ、とワガママばかり言っていていいのかね? 恥ずかしくないのかね?」
「おれはおれだ いやなもんはいやだ ほしいもんはほしいだ」
「・・・・・・一つだけだ 一つを叶えたら、私の願いも一つ叶えると約束したまえ」
「なんでお前の願いをきかなくちゃいけないだ」
「助けあおうじゃないか、ボク」
「なんでお前を助けなくちゃいけないだ」
「・・・・・・私の提案を拒むというのかね?」
「なんでお前の願いをきかなくちゃいけないだ」
「・・・・・・話にならん お前のようなボクは、こちらから願い下げさ」
時間の無駄を悟ったカラスは、その言葉を最後に力強くはばたいて雲のかなたへ。行こうとしたが、とっさにテルオに脚を掴まれた。見るも無惨な地の重力にカラスを縛り付け「逃げちゃダメだ」と、テルオがカラスにささやく。
カラスを片手に持ったまま「おねえ」と、人混みの中に消えてしまった椎那に呼びかけるようにテルオはつぶやいた。
そのつぶやきは初春の風をいくらか生臭くした。だれも気づかなかったけれど。
カラスが羽を振り回して暴れるので、テルオはカラスを一度アスファルトに振り下ろして脳震盪を与えて黙らせた。重力の洗礼。
▽
街で最も不気味な路地を歩いていけば、いつもかならずFHに通じている。
各都道府県の、薄暗く蜘蛛の巣の張った生ゴミ臭い路地の先にあるこの疑似フランチャイズには、行こうと思い立てばだれでも行くことができる。でも、行こうと思い立つまでに多少の生活上の辛抱が必要だったりする。というのも順風満帆な精神はふつう、裏路地には目もくれないから。
惑わせるような面倒な分かれ道はなく、壁に手を当てながら歩けば眼窩に薔薇の花を活けているような奇矯な御婦人でも簡単にFHにたどり着ける。チュッと小さくネズミが鳴いたら、青いポリバケツが倒れて食べ残しのゴミが道に溢れ、一筋の糸を頼りに大蜘蛛が垂直に下降、排水口の柵の隙間から血の混じった薄ピンク色の蒸気が立ち上る。耳を澄ますと女の怒気を含んだ低い声が聞こえてくるが、これは椎那の声だった。
椎那は、引き返そうとする林の腕を掴んでいる。
「練習、練習って、練習は練習だってこと知ってる? 知らないみたい! 本番を経験しなくちゃ」
「君は良いかもしれないけど、ぼくには ・・・・・・まだ早いよ」
「そんなことないよ? あんたって、一生練習するために音楽始めたわけ? 『ぼく 練習さえできてれば人前で演奏できなくても幸せです 感謝します』、って? 違うでしょ?」
椎那が林の口調を誇張して(とはいえ優しさを込めて)馬鹿にする。
「ちゃんと段階を踏もうよって、言ってるだけ だって・・・・・・ FHは大人の奏者が来るハウスなんだよ」
「なにか問題ある? 大人だからなに? あたしたちより多少老けてるだけでしょ」
「だって・・・・・・ぼくら笑われて終わりだよ」
「だってだってだってだって・・・・・・! あーもう、やってみなくちゃわかんないじゃん」
林が何か言おうとするのを遮って、
「『なにもしなくても。考えれば結果がわかります。なにもしなくてよいので、なにもしないのであります』とか、言うつもり? 意味わかんない思い込みだって! 数学に見せかけた妄想日記ね!」
椎那は林を、路地の壁に押し付けた。思わぬことに建物の板壁はビスケットのように簡単に砕け、林は壁の奥のバスタブに倒れ込んだ。テレビの音が林の耳にひらりと忍び込んで、人の気配がある。家は尋常じゃないほど揺れていた。壁の崩壊音を聞きつけた住人の一家はふらつきながら、テレビ前の卓から足音を鳴らして林の倒れ込んでいるバスルームに向かってくる。椎那は林を引っ張り上げて、FHの方へ駆け出す。ベースを背負いながらでも椎那のほうが林より足が速い。振り返って「はやく、はやく」と、余裕の手招き。体中にきな粉をまぶされた林、地面を蹴るたびに空気を黄色くけむらせる。
道の先のポスト・ヒプナゴジック様式の建物は、ハグを待ち受ける寂しがり屋のように両開きの扉を開けていた。
▽
若い老人と、普通くらいの老人、老いた老人たちの人気を、椎那は存分に集めた。
FHにて、彼らは椎那とのチームプレイを望み、なにせライバルが多いので野生に立ち戻ったように力を誇示し始める。審判は欠席していたけれど、素人目には若い老人が有利。老いた老人の中には、金平糖のようなカチコチの涙を流す者もいた。だれも見向きもしないし終いには、もっと静かに泣け! と怒られる始末。たしかに涙がタイルの床に落ちてうるさかったが、怒鳴るほどではない。
椎那を中心とした輪から離れて様子をうかがっていた林の隣のスツールに、イタリアの未来派の詩が書かれたTシャツを着た、そもそもまだ老いてすらいない男が座った。林はバーカウンターでオレンジ色の飲料をストローですすっているところだった。氷がカラコロ鳴る。まだ老いてすらいない男が、毒イチゴのように充血した右目でウインク。
秘密のシグナルに、林の背筋に悪寒が走る。腰からうなじまで、トレイルランのごとく俊敏に駆け上る。
林はスツールから飛び降り、椎那に群がる老人たちを引き剥がしにかかる。まだ老いてすらいない男は酸っぱそうな右目だけ残して、煙のように消えた。
「おーい 椎ちゃん?」
林が呼びかける。椎那の姿は老人たちによって隠されている。
ドゥーム、ドゥーム、椎那の低いベース音が返ってくる。力強く野性的な黄金の弦が振動しているのだった。中断を厭がる一部の卑怯な老人が、死角から林の側頭部を攻撃しようとした。そのげんこつを防いだのは、ほかでもない、誠実な老人。彼は卑怯者の腕を奇妙な方向に捻じ曲げて仕上げに指を切り落としてしまった。
いっときの気の迷いを後悔する卑怯な老人。ブラックリスト入りした彼の前に、FHへの路地が姿を現すことは二度とない。
妨害者はいなくなったけれど、それでもなかなか椎那へ通じる道を切り開くことができない林。老人たちのスクラムに苦戦。まるで油の中を進んでいるよう。中心部で集合した老人たちは壁化していて、めりめりと樹皮をはがすようにして道を取り戻す必要があった。一枚ずつ地道にはがしていく。老けた叫びがいくつも生じて、やっと壁に穴が空く。
林は穴から覗き見た。
老人たちは、シミだらけの尻と背を突き出して、ベースによる一撃が振り下ろされるのを待っている。生まれてからずっと待っていた、このときがくる瞬間を、といった神妙な面持ち。真紅のライティングはばっちり妖しげで、ムスクの香りが覗き穴から漏れ出してきて林の鼻孔を直接くすぐる。
ドゥーム、ドゥーム、とまた音が鳴る。椎那は空色のベースのネック(一番持ちやすそうな細長い部分)を掴んで、順番待ちの老人の尻にフルスイング。ためらいなく振り抜いている。打たれた老人は骨がギュッと縮まり骨密度が上昇したようす。痙攣する者、そのまま前に倒れ込んでしまう者、物欲しそうに振り返る者、など反応はさまざま、などと観察者に甘んじている林の肩がうしろから叩かれる。
振り返った林が目にしたのは奇妙な生き物の姿。
ふくらはぎまで隠れそうなトレンチコートを着ているけれど、袖は空っぽ、手の先が見えない。スニカーを履いた子どもの足。顔はカラス。鳥人間、と林は考えない。変装したテルオと気づいている。
前ボタンをしめたトレンチコートの中で、カラスの脚を掴んだ両手を真上に伸ばしているテルオ、カラスは翼を広げてトレンチコートの肩の部分を支えている。
「そこをどきたまえ」
テルオの指示でカラスが林に言う。トレンチコートのボタンとボタンのすきまから、テルオの目が光る。林は場所を譲らない。
「子どもに見せるようなものじゃない」
カラスが林をつついた。林のモヒカンが乱れる。それでも林は、小さなのぞき穴の前に立ち塞がったまま動こうとしない。
カラスは自分の自由を奪い続けているテルオに
「なあ、ボク 私の脚を離してくれたら、空を飛んでこの男の目玉をくり抜いてやろう どうだ? それはボクにとって嬉しいことだろう?」
と提案する。
「わかった」
テルオすぐに提案に乗り、カラスの足を離した。するとカラスは高笑いして天井付近の割れたステンドグラスから外へ逃げていった。トレンチコートが支えを失って崩れる。
「テルオくん、きみはもう帰るんだ 椎ちゃんに見つからないうちに」
「もう遅いだ・・・・・・」
先の演奏で神経が研ぎ澄まされている椎那の目が、テルオを発見して赤く光る。
「テルオ! あんたこんなとこにまでついてきたの?」
「椎ちゃん テルオくんは悪魔にそそのかされただけだよ だから・・・・・・」
「要するに、心に弱いところがあるってことでしょ? 情けない ・・・・・・テルオ、あんたは本当に弱い男だね?」
テルオは一応、敷地内に入ったことのある人々の中での最年少記録を更新していた。その事実にだけは同情の余地がある、つまりこの薄暗い路地に誘われてしまうような精神の荒廃が、ちっぽけな身体の中にすでにあるという事実にだけは。
しかし、店主は店に悪魔を連れ込んだテルオを許すことはなく、出禁にした上で店の外に引きずり出した。
「なにか飲まない? もうすこし付き合ってよ」椎那が、立ちすくむ林の後ろから手を掴んで言う。「のど乾いちゃった」
崩れた老人たちをかき分けてバーカウンターにたどり着く。
椎那は自動式のバーテンダーにコーラを注文した。「マッカランを数滴垂らして」と椎那が言うと、自動式のバーテンダーの額の白毫のような赤ランプが点灯して、どこかでエラーが発生しているようすだったけれど、コーラは問題なく出てきた。
「なんか、バグってる?」椎那は首を傾げながら恐る恐る出てきたコーラ飲んだ。「味はいつも通りみたい」
林は椎那に演奏の感想を伝えた。椎那は頬を赤くして、
「椎ちゃんって呼んで、探してくれたよね 聞こえたよ」
と言うと、周囲の老人たちが一斉に微笑んだ。太陽を見つけたアサガオのように、一斉に咲き乱れた。
「うん」
「ちょっと嬉しかったよ」
「うん」
「せっかくなら、きみも演奏していけば? わざわざ来たんだし」
「いいよぼくは ・・・・・・練習不足なんだ」
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