あのひとはいいひとだと言うひとに、いや、あのひとはほんとうはいいひとではないと指摘するのはまちがっている。それはわかっているのだがどうもこれだけあのひとへの認識に齟齬があると、つい、いや、と口をついて出そうになる。あるいはあのひとがふたりいるのだろうか。わたしのしらないあのひとはめのまえの夏菜子が言うとおりのいいひとなのかもしれない。だとすれば見たこともきいたこともないひとのはなしとして夏菜子が矢継ぎ早にくりだすあのひとへの賞賛のことばを耳にいれるべきである。
「で、夏菜子はそのひとのことがすきなのね」
「そのひとってなによ、あんたしってるでしょ」
と言って夏菜子はふふふとわらう。「すきかも」
もうひとりのあのひとは夏菜子がすきかもしれないひとになる。夏菜子のせかいの住人となったあのひとは夏菜子のもうそうがうみだした架空のじんぶつと見えるがもうそうであろうともかのじょにとってはたしかにそんざいするあのひとでありわたしが手をのばしてもおそらく夏菜子がすきかもしれないひとにふれることはかなわない。わたしの手がとどくのは違法賭博で莫大な借金をこしらえた、つきあうおんなつきあうおんなに手をあげるさいていのおとこである。あべこべに、わたしのせかいのあのひとが手をのばして夏菜子にふれることがあるかもしれない。そのとき、夏菜子のすきかもしれないひととわたしの知るあのひとが出会って対消滅すればいいのにとおもう。
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