無職の湯河原温泉行 壱

無職紀行(第1話)

消雲堂

小説

1,980文字

乳がんで左乳房を失ったナマコを温泉に連れて行きたいと思った。

 

手術前にはふたりで温泉旅行をすることも多かったのだが、4年前に手術をした後、ナマコを温泉旅行に誘っても「温泉に行ってもお風呂に入れないから嫌だ」と言って寂しい顔をすることが多くなった。いつかは家族風呂があるとか貸切風呂がある温泉宿に連れて行こうと考えていたのだが、なかなかその機会に恵まれなかった。

 

最近になって僕が仕事を辞めたのがちょうどいい機会なので今のうちにナマコを温泉に連れて行こうと決めて、インターネットで「部屋に露天風呂が付いた温泉旅館」を検索していたら、湯河原の“華の園”というラブホテルのような名前の旅館のサイトが出てきた。

 

料金を見てみると、信じられないくらい安い料金だったので、「これだ!」って、すぐにその旅館に電話を入れて(ネット予約もあるけど、そこでは露天風呂付きの部屋を予約できないのだ)「2人なんですが25日空いていますか?」と聞くと「露天風の総檜風呂付きの部屋ならございますが・・・」となんとなく愛想のない返事。それに露天風とはなんだろう? 「露天風・・・ですか?」「そうです。ベランダを新設して作った新しいお風呂付きの部屋で、おひとり一泊14900円です」「うーん・・・そうですか。それじゃ予約をお願いします」という具合で決まっちゃったのである。

 

湯河原温泉といえば今まで3回行ったことがある。1度目は初めて勤めた池袋デパートの仕事仲間とふたりで、2度目はその1年後に入社した編集プロダクションの社員旅行で、3度目はその5年後に入社した農業の業界新聞社の社員旅行でだった。それぞれに思い出深いものがある。

 

さて待望の25日になって、午前11時に自宅を出発。旅行バックがないので東京駅で一度降車して東京駅地下街で荷物を運ぶときに便利なガラガラカートを購入した。これって人の迷惑になるから僕は大嫌いなのだ。無神経な奴がこれを引いて歩くときに周囲の迷惑などまるで気にかけない。一度、こういう奴が引くカートにつまずいて転びそうになったことがある。

 

旅館のチェックインが15時なので、東京駅からは鈍行よりも踊り子号とか特急を使おうとみどりの窓口を探した。ところが新幹線の切符売り場はあるもののみどりの窓口がないのだ。駅員に聞くとどうやら新幹線切符売り場がみどりの窓口らしい。やっとたどり着いて窓口のオネエチャンに「一番早い踊り子号は何時ですか?」と聞くとなんと15時過ぎになるのだと言う。それでは間に合わないどころではない。仕方なく新幹線で熱海まで行って、ひとつ駅を戻って湯河原に向かうことにした。新幹線は自由席だったが、室内は空いていて気分的にゆったりと目的地まで行くことができた・・・が、予定していた交通費の大半を初日で使ってしまったのだった。

 

熱海で新幹線を降りると寒かった。寒さに震えながら熱海駅ホーム下の待合室で休憩。トイレ休憩である。おしっこを済ませて、東海道線でひと駅戻って湯河原駅に到着すると、ナマコの病人なうえに(そんな言い方ないだろね)非力で要領の悪さにイライラして喧嘩してしまった。やれやれ・・・。なんだかこっちの方では雨が降っていたみたいだ。本当に寒いのだ。

 

湯河原駅前にはいかにも温泉街といった風に土産物屋が並んでいる。

 

早速、僕とナマコの実家に送るみやげを買った。帰りに買うのは時間がなくてばたばたと慌ててうっかりと無駄な買い物をしたりするから、先に買ってしまうことにしたのだ。大和の母親には「金目鯛の煮付け」、西葛西の義父には「かまぼこセット」を買った。よく考えてみたら、ありきたりのものだ。

 

みやげを買って宅配便で送ってもらった後、駅前から目的の旅館に電話すると「あ、電車ですか?」「はあ・・・」「電車に乗って来られたんですか?」「ああ、はいはい、そうです」「それでは駅前にあるロータリーの2番乗り場からバスに乗って“源泉境”というところで降りてください」と言う。「なんだ、迎えに来てくれないんだ?」ってナマコとぶつぶつ言いながらバスに乗りこんだ。

 

バスに乗って窓外の景色を見ると、温泉街の中心を流れる藤木川に沿って旅館が寄りそうように立ち並んではいるが、その多くが人気がなくて廃墟のようなイメージがある。さらに温泉街には、飲み屋とかバーとかキャバレーとか??? それに温泉場には決まりものの射的場などの遊興施設が少ないので温泉街の活気が少し失われているようだが“温泉旅情”を感じられないほどではないと思う。僕にはこのぐらい寂れていた方が温泉街として合格だ。そうこうする内にバスはどんどん奥湯河原の山の方に向かっていく。

 

つづく

2012年11月12日公開

作品集『無職紀行』第1話 (全10話)

© 2012 消雲堂

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