空の上から地上一面にシーツをかぶせたような闇に包まれた夜、そこだけ灯がともっているように浮かぶ月の薄明かりを頼りに前方の旗が振り下ろされる瞬間を待ちながら、ピートは意図しない汗に濡れる手でハンドルを握り直した。必要以上にアクセルをふかす隣のシボレー・コルベットの窓が下り、うっすらと見えるヤニだらけの歯の間から言葉が漏れてくる。
「よう、泥炭坊や。今日は酒を運ばなくていいのか? まあ、お前のたるい腕じゃせっかくの密造酒も中途半端に熟成しちまうだろうがな。ハッハッハ」
二台の車のエンジン音と暗闇の間から周囲にたむろする人間の下卑た笑い声が聞こえてくる。ハンドルを握るピートの手に自然と力が入る。「へッ、吠え面かくのも今の内だぜ」
「ヒューッ! 威勢がいいねえ。車ごとひっくり返してやらねえとその口は減らねえらしいな」
ピートは相手の黄ばんだ歯をにらみつけてから、窓の外へ唾を吐いた。コイントスでピートのハドソン・ホーネットは崖側となった。ピートがアクセルをふかすたびに振動で道端の細かい砂利が急な崖下へこぼれていく。
そろそろだろう。窓の外の月へ徐々に雲の浸食が始まる。コルベットのふかし音がさらに増す。旗が下りる。ピートは勢いよく飛び出す。高速回転するタイヤによって地面から巻き上げられた砂利が、開いた窓から我先に飛び込んでくる。コルベットが前へ出る。と思った瞬間に車体を接近させてきて、後部ドアの腹がホーネットのライトの側面に接触し鈍い音を立てる。車体を弾かれバランスを失ったピートは、スピードを落として立て直し、コルベットを追いかける。
「そこからはな、悪名高きペニスカーブだ。左へ緩やかに折れながら急な下り坂になって、そこを下りきったところにもっと急なU字カーブがある。地図で見るとな、垂れたペニスに見えるんだがな。地図見るか?」
ジャクソンは首を振って立ち上がろうとする目の前の老人を制した。さりげなく腕時計に目を走らせる。既に二時間以上経っている。
「ところがそれで終わりじゃないんだな。そこからペニスを根元まで登って、今度はなだらかな坂を下る。下りきったところから急な登りとU字カーブと急なくだりのセット。これをな、勃起カーブと言うんだ。ヘッヘ」そう言って老人はしわくちゃの手で瓶をつかみ、気の抜けたような色のウイスキーを、蓄えた白い口髭に隠れた口元へ運ぶ。ジャクソンは戸口の外に立っているチェンバレンに目配せしたが、彼は電話をしていて気付かないようだ。
「マッケンジーさん、聞きたいのはあなたの昔取った杵柄の話じゃないんです。あなたと同居している孫のピート三世についてなんですよ」
「まあ待て。今いいところじゃねえか」と言ってにやついた老人の前歯は数本抜けてしまっている。「確かにな、NASCARの連中が始めたレースはでかい賞金が出たからな、出る価値はあったろう。でもな、だだっ広い空き地に拵えたオーバルコースをただぐるぐる回るなんざ、脳も度胸もねえケツの穴の小せえ奴らがやることだ。一対一でサツとやりあってきた密造酒の運び屋どもにとっちゃあ、スリルにこそ命の張りがいがあるってもんよ」
ピートは少しも焦ってはいなかった。ペニスカーブを抜けてその後の下り坂までは後ろについていく。そして勃起カーブが勝負のかけどころであることを心得ていた。ペニスカーブでコルベットを抜いても、その後の下り坂の直線では分が悪い。よって勝負は勃起カーブでつけることになるが、一方で小柄で小回りの利くコルベットに対してホーネットではカーブでも分が悪いと周りの御仁は思うだろう。ところがどっこい。
ペニスカーブに入り道はコンクリートとなり、崖は木々が鬱蒼と生い茂る林に代わる。後ろにぴったりとつくホーネットに前を譲るまいと、コルベットは走りながらジグザグにケツを振る。テメエは売女か、とピートは毒づきながらカーブを曲がった先の上り坂を見すえる。雲が通り過ぎて再び姿を見せた月明かりに照らされた山の斜面の上方にたむろする野郎どもが、ライトをつけた車のクラクションを鳴らす音が聞こえる。それに気を取られているうちにコルベットとの差が広がる。だが心配するには及ばない。勝負はこのあとだ。
「私は常々父の期待に応えようと努力してきましたよ。それは早くに母を亡くしたことの辛さを引きずらないようにするためというよりも、やはり自分のような人生は送らせまいとする父の思いに応えるためという意味合いが強かったように思いますね。しゃにむにやっていれば悲しい過去から逃れられる、そんな強迫観念にも似たものがあったのかもしれません。父は私に密造酒運びをさせないために、幼い頃から徹底的に私にドライビングテクニックを叩き込みレースで通用する人間に仕立て上げました。しかしその強迫観念が私ではなく父自身を追い詰めた、今ではそんな気がしてならないんです。もちろん捜査には協力しますよ。これまでは私自身も息子から逃げていただけということにようやく気付きましたからね。父を反面教師として息子には過度な期待をおしつけまいと思って自由にさせていたつもりが、結局それが私にとっての強迫観念だったんですよ。情けないと言うべきか、血は争えないと言うべきか……」
チェンバレンは電話口のピート・マッケンジー・ジュニアの声音に対して咥えていたタバコの煙を一つ吐き出した。「本当に居場所に心当たりはないんですか?」
「さあ、最近会ってませんからね。ところで息子が銀行を襲ったというのはまさか……」
「そのまさかですよ。聞いてないんですか? あなたのところの銀行を襲ったんですよ?」チェンバレンは煙と一緒に吐き捨てるように続けて、「どっちにしてもこちらまで来てもらえないですかね?」
「酒の運び屋の商売は雇われでやってたんだがな、わしはいつかは自分の醸造所を持ちたいと思っていた。そのために草レースの賭博とレースマネーでケチケチ金をためてた訳だが、そりゃあNASCARのレースに比べたらしけた金さ」
老人は一呼吸おいてウイスキーを口に運ぶ。いつの間にか戸口に戻っているチェンバレンが貧乏ゆすりのようにして靴の裏で床を叩いてそれとわかるくらい大きい音を立てながら、腕時計と外の様子を交互に見ている。
「だがな、運び屋どもにとっちゃあ命を張って銭にもありつくのが人生なんだよ。いいか、人生ってのはな、オーバルコースみたいにぐるぐる回って繰り返すことはできねえんだ。人生ってのは一直線なんだよ。元いた場所には戻ってこれねえんだ、わかるか?
で、どこまで話したかいな? そう、それでだな、勃起カーブの終わりほどに道幅が狭くなる場所、通称アヌスがある。そこでコルベットのスピードが落ちることは計算済みだった。で、そこで抜くことはもちろんのこと、それだけじゃやり返されかねんから、ヤニ野郎の肝を冷やしてやってだな、やつの命も取りにいったわけだ。ヘッヘ」
不意にチェンバレンの足音が止まり、ソファに座って対面で話す二人の元に近づいてくる。「おいジイさん、いい加減にしたらどうだ。あんたの息子ももう来る頃だ。息子に諭されるのはあんたも好かんだろう。さっさと孫の居場所をゲロッたらどうだ?」
「何だと? このニガーめ」と言って老人は杖をついて立ち上がり、その杖の先をチェンバレンに向けて突き出す。チェンバレンは咄嗟にホルスターに手を伸ばす。それを見たジャクソンも素早く立ち上がる。
「やめろ、チェンバレン!」
チェンバレンは歯をむき出してにやつきながら、元から開いていたホルスターのボタンをパチンと閉める。「おいおい落ち着けよ。俺はこんな白人のクズの言うことに一々キレたりしないさ」
「ヘッ、なめた口ききやがって。言っとくがな、たかが一度のクラッシュでレースをやめちまうような奴はわしの息子とは言えねえんだよ」老人は興奮したままキッチンへ行きグラスを二つ持って戻ってきてそれらにウイスキーをなみなみと注ぐ。「まあお前らも飲めよ。で、アヌスだったな。アヌスに入ると案の定コルベットのスピードは落ちて距離は縮まった。ところで、そのアヌスには山側に大きい岩が幾つか並んでいて、その中に岩肌が妙に滑らかなのが一つあったんだ。高さはそうだな……」
ピートの頭の中、体の中のどこにも躊躇は無かった。その岩は三メートルほどの巨大なコメ粒型で先の方にいくに従い向こう側へ反っていて、風になびいたような姿をしている。アヌスに入りアクセルをべた踏みしたピートはコメ粒へ容赦なく突っ込んだ。宙に浮いたホーネットの車内を月光が照らす。ピートはレースを放り出して二、三秒ほど月を賞味する。ドゴゴン、という音とともにホーネットが着地したのはコルベットの真横、咄嗟にハンドルを切ったらしきコルベットがホーネットに左側面をぶつけた勢いで崖側へ滑っていく。のみならず、ホーネットの車体も傾き滑り出したためピートはブレーキを踏むが利きが悪い。焦ったピートはドアを開けて左足を出して地面に滑らせる。
ピート・マッケンジー・ジュニアは父の家がある市街地を通り過ぎ、山道を登ってアヌスにある岩の群れの前で車をとめた。岩の後ろには表からは見えない洞穴の入口があり、奥の暗がりに車が二台とまっているのが見える。それらのさらに奥でもそもそと動く人影がある。
「よう親父。サツに説得してこいって言われて来たのか?」
暗がりから聞こえてきた自分の息子の声に対しジュニアは安堵の息を吐く。「馬鹿を言うな。彼らが場所を知ってたら今頃お前は捕まってるだろう。こんなことして、この先の人生どうなるかわかってるのか?」
「ケッ。知ったような口きくなよ。あんただって俺のやったことは否定できんはずだ。無許可の密造酒の稼ぎであんたの今があるんだからな。そうだろう?」
「母さんが知ったら悲しむぞ」
「泣き落としか? 逃げられたくせによくそんなこと言えるな。まあ所詮人のケツを拭くのがあんたの人生だよ。だがな、俺は違う。俺は自分のケツしか拭かねえ。それに俺の人生はオーバルでも山間のコースでもねえ。そもそも人生にコースなんていらねえんだよ。そんなもんは所詮作ったやつらが生きやすいようにしかできてねえんだ」暗がりから出てきたピート三世はスキンヘッドに頬から顎にかけて濃い髭で覆われた顔、ぼろぼろのシャツにジーンズの格好で、右手にベレッタを持っている。「生れちまったもんはしょうがねえから否定しねえけどよ、俺はコースを走る気はねえ。でも生きるには金がいる。とすればやることは限られるだろう?」
ジュニアは息子の持つベレッタを見やりながら慎重に近づく。「まだ醸造所を使ってたのか?」
「ジジイはもう使ってねえよ。俺が細々とやってた。何ならここにあるやつを持ってけよ。ジジイが作ったやつもあるからサツにでもくれてやったらどうだ?」そう言ってピート三世は手前のおんぼろのホーネットに乗り込んだ。
「行くのか?」開いた窓に向かって投げ入れた声に対して銃口が返ってくる。
「そこをどきな親父。あばよ」
瓶の中でドラムを叩くような音を立てて走っていくホーネットをジュニアは成す術なく見送った。息子の言ったことが気になって洞穴の奥を覗くと瓶が数本入った木箱がある。そのうちの二つの瓶にラベルされた文字がジュニアの目を奪う。
「PMJ 1961」
「PMⅢ 1989」
大猫 投稿者 | 2021-03-27 20:57
草レースと老人の語りが交錯して映像を見ているようでした。語りが進むうちに、密造酒製造の裏社会で生きた親子三代のそれぞれの生き様があぶり出されるのがとてもよかったです。親父に息子が背き、その息子がまた背いて爺さんの元に走り、結局輪がつながったかのような再会。レースの描写も見事で砂ぼこりが立ち上るようでした。
最後の密造酒に記載した父と自分のイニシャルについている四桁の数字は何を意味しているのでしょうか。
冒頭の「空の上から地上一面にシーツをかぶせたような闇」という表現に、月の明かりに照らされて町が白く見えているのかと勘違いしました。これは真っ暗闇なんですよね?
わく 投稿者 | 2021-03-27 23:20
カッコいい翻訳小説のような形を借りながら『勃起カーブ』等といったパワーワードがぶちこまれていたりして、レースのみならず文章レベルにおいても爽快さを感じることができました。
小林TKG 投稿者 | 2021-03-28 13:36
いいなあこういうの。こういうの書きたいよなあ。勃起カーブとか、ペニスカーブとか、シニアとか、ムーンシャインとか。泥炭坊やとか。こういうのなあ。
こういうのがいいです。オシャンティで、それに読み感もいいじゃないですか。ポテサラに沢庵刻んだの入れたみたいな感じの読み感。ムーンシャイン、危険な草レース、西部感。西部後期感かな?おいしゅうございました。
春風亭どれみ 投稿者 | 2021-03-29 00:58
「おらぁ、ハードボイルドだ」なカースワードにまみれた内藤陳みたいな下品でニヒルなハードボイルド小説、堪能致しました。
シンプルに読んでいて疾走感がある。題材が題材なのだから、それが妙になっています。ハードボイルド。
Fujiki 投稿者 | 2021-03-29 12:03
で、レースの行方は!? ピート・シニアの物語とピートIII世の物語が交錯するが、もっと交錯の必然性が欲しい。三代の大河ドラマ的なものであれば、女たちの物語があってもいいと思う。あと、吠え面の使い方がちょっと変。
松尾模糊 編集者 | 2021-03-29 14:14
ワイルドスピード西部劇編的趣きがありました。口の悪いシニアもいい味出してました。最後の木箱の刻印は、誕生年ではないかと読みました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2021-03-29 14:31
ナスカーは南部の草レースから生まれたんですよね。南部の荒くれ者のの雰囲気が伝わってきて、映画を観ているようで楽しめました。最後はどう解釈していいか分からなかったので合評会でご説明頂けたら嬉しいです。あとどうでもいいことですが、ペニスカーブときたら勃起カーブはエレクトカーブの方が良いのでは思いました。
Juan.B 編集者 | 2021-03-29 15:57
お題をこう生かすとは、イカすなあ。他の方が書いてる通り、登場人物達の悪態のような用語の一つ一つも面白い。レースの行く末が気になる所だ。是非聞いてみたい。
波野發作 投稿者 | 2021-03-29 18:45
超絶かっこよかった。💯点
鈴木 沢雉 投稿者 | 2021-03-30 14:52
レースと会話(回想?)を行ったり来たりする構成はよほど上手くやらないと読みにくいだけになってしまうな、と思います。Fujikiさんも指摘されているとおり、二つの時制を絡める必然性に乏しい。折角ハードボイルドで格好いいんだから、場面はどっちかにばっさり統一でいいと思います。