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禍中

かきすて(第8話)

吉田柚葉

書いたらスッキリしました。なんかそういう療法ありますよね

タグ: #リアリズム文学 #私小説 #純文学

小説

2,072文字

となりのテーブルでしずかにiPadを操作していた中年男性がまた咳込んだ。もう何度めかわからない。私が観察したところによると、かれが咳込むのは、手もとに置かれたマグカップを口にはこんだときにかぎる。誤嚥による咳だろう。いちど気管につまってしまうと、すこしのあいだ、クセになるものだ。ようするに、それだけのことなのだ。

であるにも係わらず、妻はこの店を出て行ってしまった。いちおう、「服を見てくる」と理由をつけていたが、原因はあきらかである。

中年男性から視線をはずし、ひきつづき私は読みかけの本の頁に目をやった。ときの首相がかつて著した『美しい国へ』というものだ。十頁ほど読むと、厭になってしおりをはさんだ。

コーヒーをすする。目のまえのまどからは駅の駐車場がのぞけるが、一般人のものとおもわれる自動車はほとんどとまっていない。

私のテーブルの右端には、カプチーノが注がれたマグカップが置かれている。私と向かい合って座っていた妻が飲んでいたものだ。なかにはまだ半分ほどものこっている。コーヒーのあじにも厭きがきていたので、つい私はそのマグカップに手をのばした。

とたん、店をあとにする際、妻が「このカップはそのまま返しておいてね」と念を押したのを思い出した。万が一にも私が禁をやぶったことがかのじょに知れると、まためんどうな口論に発展するのは想像にかたくない。あきらめて私は、いっきにコーヒーを飲みほした。

中年男性が咳込んだ。

腕時計をかくにんすると、かえりの電車の時刻までのこり一時間を切っていた。旅先はうつくしい街だったが、この二日間、だれかのくらいまなざしからのがれられたことは一瞬たりともなかった。地元のにんげんは私たちを見張りつづけていたし、妻は私を見張りつづけていた。私のかげさえも私を見張っていた。そこには一本の糸がピンと張りつめていた。

© 2020 吉田柚葉 ( 2020年9月19日公開

作品集『かきすて』第8話 (全40話)

かきすて

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