明くる日の午後、宮崎氏はビジネスホテルの一室で目を覚ました。昨夜あれ程呑んだにも係わらず、久方ぶりの好い目覚めであった。氏は体重をかけると自然とそれに従うベッドの感覚に身を委ね、ほど好い温もりで躰を包む布団と、頭を支える枕の柔らかさを愛おしみ、呼吸をする度、心地好く躰を抜ける冬の日の冷気に己の健康ぶりを確認し……、途端、飛び起きた。窓を開け放ち、外を見やると、眼下に擾々たる下町のけしきが広がった。これは浅草近辺と見えた。すると昨夜、この辺りの道を一人で歩いた気がして来た。尤も、その際はこんな風に俯瞰して町を眺められた筈が無いため、記憶は曖昧で、確信は無かった。
何とは無しに、テレビ台の引出を引いた。即座に利用案内のバインダーが覗いた。それに依るとここは「浅草セントラルホテル」と云うビジネスホテルのシングルルームであるらしい。そのホテル名に心当たりは無かった。浅草の下町を歩いた記憶は薄ぼんやりと辺りを揺曳しているけはいであったが、肝心の、ホテルにチェックインした一連の流れは、記憶から全く抜け落ちてしまっているのだ。闇の中を歩き、闇の中に沈み、そうしてこのホテルの一室へと投げ出されてしまったように宮崎氏には感ぜられた。
次に宮崎氏は、自分の服がひどい臭いを放っている事に気付いた。既にして一週間も着替えていないのだから、これは当然と言えたが、それにしてもあまりにドブ臭かった。
宮崎氏はバスルームに入って熱いシャワーを浴びた。シャワーから放たれる湯は、宮崎氏の皮膚を打ち、執念深く氏の躰に張付き続けていた透明な鱗を弾き飛ばす勢いであった。宮崎氏の赤茶けた肩に水が流れ、冷え切った室内に湯気が立上った。宮崎氏はその心地好い熱さに骨の髄まで感じ入った。……
躰を洗い、バスルームを出、洗面所の前に立つと、鏡に見知らぬ顔があった。形の好い眉毛の下に切れ長の目は爛々と輝き、筋の通った形の好い鼻の下に座り好く一文字に閉じられた口は強く引締まり、湯気の中、細面を白く讃えた此の美しい顔は、紛れもなく宮崎氏の物であった。しかるに、物心ついて以来初めての顔であった。氏は鏡に顔を近付け、其の誰とも知れぬ顔を睨んだ。眉をしかめてみせたり、口角を上げてみせたりした。その度、鏡に映った顔は普段から見慣れた自分の顔へと近付いて行った。
三分程そうしていると、すっかり尋常の顔へと戻ってしまった。皮膚はイグアナの如く乾き、先程の美青年の面影は失せ、これはむしろ年相応と見えたが、少しく吊り上がった目尻に残った微かな美青年の面影は、苦労を知らぬまま二十歳以降の十年をやり過ごした、宮崎氏の精神的な幼さを体現した風であった。つまり顔全体を総合して見ると、如何にも「子どもっぽい」のである。街で見かける分には、年齢不詳で好いものの、インターネット番組に出演した時等、視聴者の目にはどう映っていたのだろうか。このような見た目の男が、どれだけ政権を揶揄するような発言をしたとしても、説得力云々以前の問題なのではないか。ともすれば俺は、例の番組では「おもしろ枠」として呼ばれたのやも知れぬ。だとすれば随分と失礼な話だが……。
と、暫時自分の顔と対峙していると、何処からか唸るような音が聞えて来た。いや、これはハッキリ携帯電話のバイブ音であった。宮崎氏は敢えてゆっくりとバスタオルで身体を拭き、冷水で顔を洗うと、歯磨き用のコップに水を淹れて、一気に喉へと流し込んだ。そうして裸のまま部屋に戻り、ハンガーに掛けたスーツのジャケットのポケットを確認した。ランプが青く点滅したスマートフォンがそこにあった。ロックを解除すると、留守番電話のマークが出ている。見ると、知らない番号である。恐る恐る「発信」をタップし、スピーカーモードにすると、留守番電話サービスの音声が流れた。しかる後、くぐもった男の声がした。
「……エー、イイダさんのお電話で間違いありませんでしょうか。浅草セントラルホテルのフロントの者ですが、既にチェックアウト時間を過ぎております。至急、ご連絡下さい。」
これを聞くに及んで、宮崎氏は躰中の力が抜けて行くのを感じた(イイダと云うのは、ここの処、宮崎氏が方々で名乗っている偽名である)。スマートフォンのパネルを確認すると、十二時を十五分ばかり過ぎていた。氏は折返し電話を掛け、もう一泊する旨を伝えた。そうして電話を切り、今一度、ジャケットに目を移した瞬間、宮崎氏は如何ともし難い違和感に襲われたのであった。
「違和感とは。」
珈琲の入ったカップに手を伸ばして、私はそう問うた。で、一口含んだ。宮崎氏は、
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