結局私は、約束の三十分前に待ち合わせ場所に着いた。「はちみつ」と云う、幾分少女趣味の気がある可愛らしい喫茶店で、前に一度、女性編集者との打合せで使った事があった。私は窓際の二人掛けのテーブル席に腰掛けた。窓の向こうは直ぐに道路であり、粗末なバス停が見えた。店員が水を持って来た処で、宮崎氏が到着した。黒スーツに、ド派手なネクタイ――トランプを敷き詰めた柄――を締めている。今日は、『島崎藤村と中上健次』の著者近影で掛けていた縁無し眼鏡は見られない。その所為か、その視線からは鋭い印象を受ける。
「すみません。僕が先に着いてなくてならない処でした。」
宮崎氏はそう言って、私と向い合って坐った。直に彼にも水が来た。宮崎氏は、一気に其れを飲み干した。
「珈琲で好いかな。」
そう問うと、宮崎氏は頷いた。注文を繰返して、店員が去った。
「はじめまして。」
と私は言った。「お名前は常々伺っておりました。」
「こちらこそはじめまして。宮崎達治と申します。先生のお仕事は極力追わせて頂いているつもりでしたが、失礼ながら岡本尊文に就いて研究していらした事は存じ上げておりませんでした。」
「其れはそうですよ。まだ殆ど誰にも知らせていませんから。」
そう言って私は、ネクタイの結び目を撫でた。緊張した時の私の癖であった。
「そうしますと、これまでに岡本さんに就いて何か書かれた事は……。」
「無いです。岡本さんとは二度対談を行っていますが、其れを除けば私が彼に就いて書いた事は一度もありません。まァ、他の作家を論じるにあたって、一寸引き合いに出した事なんかはあったかもしれないが……。そんなわけで、今日はむしろ勉強させて頂くつもりで来たのです。」
「勉強だなんて、そんな。」
宮崎氏はそう言って肩をすくめた。其れと共に、珈琲が来た。私は、店員に「ありがとう。」と言って、口をつけた。宮崎氏は、ガラスコップに入ったクリープを一つ取出し、珈琲の中に垂らしてスプーンでかき混ぜた。手が震えていた。暫し、その動作が続いた。
「先生は、岡本さんの評伝を執筆中と云う事でしたが。」
結局、カップには口を付けないまま、宮崎氏がそう言った。
「はい。しかし資料が揃わなくて、困っているのです。」
私は慎重に言った。
「其れは、幼い頃の物ですとか……。」
「そうですね。富山に住んでいた時期のものは勿論の事、上京してから後の、大学生時代の事なんかも、殆んど……。」
「そうですよね。」
宮崎氏は唸るようにして言った。そこに何か演技的なものを感じた。
「僕も、先月から岡本さんに就いて評論を書き始めたのです。」
宮崎氏は、おもむろにそう言った。
「其れは、依頼されて……。」
「いえ、自分から進んで。」
「岡本尊文ブームが来てるのかな。」
私は、苦笑した。そうして、カフェインを脳に送るイメージで珈琲を舐めた。胃に来なければ良いのだが、とおもったが、腹がゆるやかに動き出すのを直に感じた。
「ブームと云う事はありませんが、興味をそそられると言うか……。一寸不思議な作家ではありませんか。」
「不思議と云うのは、主にどういう意味で。」
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