エメーリャエンコ・モロゾフの食卓

大猫

小説

4,520文字

(訳者注)これはエメーリャエンコ・モロゾフの料理人を二十年務めたジョージア生まれの中国人、陳宝君の手記である。多言語無国籍ポルノ芸術領域において前人未到の金字塔を打ち立てたモロゾフの、謎に包まれた私生活を探る手掛かりになればと思い、重々しい古文調の中国語から現代日本語に訳出した。

(原文冒頭より)

俄美利亜恩克・謀若左夫乃是世界級無国籍芸術之巨人也。

吾人疎忽不知、多年為厨師奉之。

其人食欲出衆、美食講究絶色矣。

今略記録一篇、以供人類美食進歩。

人之所為、不如好色

人之所活、不如美食

 エメーリャエンコ・モロゾフは世界的無国籍芸術の巨匠である。

 私は迂闊にもそれを知らず、長年料理人として彼に仕えた。

 彼の食欲は人並外れており、グルメへのこだわりはすさまじかった。

 ここになにがしかの記録を残して、人類の美食の進歩へ供しようと思う。

 とどのつまり、人は色事して旨いものを食って生きるものだ。

 

(これより本文)

 

 エメーリャエンコの朝はチーズで始まる。チーズなのである。絶対にチーズでなければならない。

 オーストリア・ハンガリー帝国の最後の厨房総監督であり、その後乞われてラ・トゥール・ダルジャンのチーフシェフを二十年勤めた後、上海の譚氏官府菜で総料理長となった私、陳宝君から見ると、チーズとはかくあるべきなのだ。

 

 まずは優しい味のカッテージチーズ蜂蜜ソース添をリンゴスライスと共に食して胃の腑を開き、続いてモッツァレラのドライイチジク和え。そう、チーズの風味を最大に引き出すのはイチジクなのである。一流料理人ならば皆知っている。それにラクレットを溶かしてパルミジャーノ・レッジャーノを少々加えて、茹でたてのジャガイモをぶち込んでボールで豪快に食せばまあちょうどよかろう。デザートはロックフォールにくるみ、カシューナッツ、アーモンド、松の実を混ぜるか、ゴルゴンゾーラにバニラアイスを混ぜて後はコーヒー。これがまっとうな食事というものだ。

 しかるにエメーリャエンコ・モロゾフは、カース・マルツゥを好むのである。カース・マルツゥを知らぬ諸君のために解説をしておくと、イタリーはサルデーニャの漁師どもが愛食した山羊のチーズであり、発酵の過程である種の蠅に卵を産みつけさせる。そのため食べごろになった頃にはびっしり蛆虫が湧いている。この蛆虫から出る体液がチーズの発酵と脂肪分の分解を腐敗レベルにまで促進する。またこの蛆虫はノミの如くぴょんぴょん跳ねるので、眼に入らないようゴーグルを着けておく必要があるが、エメーリャエンコは意に介さずパンに挟んで二口ほどで平らげる。

 

「チンポー君」

 とモロゾフは私を呼ぶ。私の名前は「陳宝君(ちんほうくん)」だと百万回言ってもこの男は絶対に覚えないのだ。

「乳は血なり」

 テーブルに落ちた蛆虫を指にくっつけて拾い、指を舐め舐めしながら彼は叫ぶ、

「乳は血なり、血は乳なり、乳は父にあらず。父は血にあらず。分かるか?」

「はあ、確かに乳は血液からできるものですね」

「さよう。しかしそれは話の半分に過ぎない。ところで赤子はどのようにして生まれる?」

「男と女が交わった結果生まれます」

「その通り。しかしそれも話の半分に過ぎない。どこぞの国のことわざに『身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり』というのがあると聞いたがとんでもない誤りだ」

「はい」

「赤子が生まれるために男が提供するのは精子一つ。0.06ミリメートルの遺伝子情報だけだ。その他はすべて女が受け持つのだよ。着床のためのベッドは血液でできているし、へそが繋がった後は血液で以て赤子を育てる。生まれた後は乳を与える。よろしいか。すべて母が与えるのだよ。母は血、母は大地、母は墓地、母は英知、母は頓智、母はマルチ、母はエッチ、母はパンチ、母はどっち、母はあっち、それゆえ僕は母の血液の変態の果てであるチーズを食わずにはいられないのだ。蛆虫も旨いし」

 私は背を向けて厨房へ戻る。昼食の支度を始めるためだ。

 これは私がこの数年で体得したことだが、作家小説家などという言葉を弄ぶ者とまともに意思の疎通を図ろうとは思わぬがよい。彼らの言葉は常に上滑りしており、千言万語を費やしたところで何を言わんとしているのかさっぱり分からない。エメーリャエンコの場合、注意深く聞いていると最初または最後に言いたいことを仄めかしていることが多い。要するに彼は蛆虫が好きなのだ。

 

 エメーリャエンコの昼は卵が必要だ。卵なのである。絶対にどうしても卵でなければならない。

 金日成主席の健康顧問兼食餌療法士であり、毛沢東主席のおやつ係でもあり、かつカストロ議長の誕生パーティー料理調達の責任者であった私、陳宝君に言わせれば、卵料理とはかくあるべきなのだ。

 まずはあっさりとエッグスラットにしよう。緩めのマッシュポテトに卵を落として軽く湯煎にする。有塩バターを加えると美味だ。庭には二羽、裏庭には二羽鶏をにわかに飼い出したので、新鮮な卵には事欠かない。次に味わうべきは北アフリカのブリックだろう。春巻きの皮にマッシュポテトやアボガドを詰め中に卵を落として包みサッと揚げれば、トロリ溢れる黄身の旨さを堪能できる。ここで気分を変えて茶碗蒸しはどうだろう。松茸スライスを仕込み隠し味としてフォアグラを加えて見よう。仕上げにはエレガントにオムレツを味わってもらいたい。世にオムレツはいろいろあるが、モン・サンミッシェルの門前町で出してくれるノルマンディー風のものが良いだろう。白身をメレンゲ状になるまで泡立て、黄身には新鮮なバター、クリームを加え、両者を合わせてふわふわに焼き上げる。口の中でとろけるだろう。

 それなのにあろうことかエメーリャエンコ・モロゾフは駝鳥の卵を好むのである。それも目玉焼きやスクランブルエッグのようなありふれた料理には飽き足らず、バロットを食べたがる。

バロットを知らぬ諸君のために解説をしておくと、フィリピンではバロット、ベトナムではハビロンと言い普通はアヒルの卵を使うが、孵化直前の卵を茹でる。すでに雛の形をして羽毛も生え、嘴や足もできているがまだ柔らかくて、卵黄がわずかに残っている。見た目は多少悪いが濃厚な味わいで私も嫌いではない。しかし駝鳥のバロットはデカすぎる。子供の頭ほどもある。第一入手が困難なのだ。せっかく庭には二羽、裏庭には二羽鶏をにわかに飼っているのだから、鶏のバロットをたくさん食せばよいではないか。

 

「チンポー君」

 とモロゾフは憐れみに満ちた目をして私を呼ぶ。何度も言うが私の名前は「陳宝君(ちんほうくん)」だ。

「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」

 重々しく言った言葉の意図が分からず黙っていたら、

「チンポー、君には少し難しかったかな」

 名前を省略するな、第一、間違っているぞ、と叫ぼうとしたら、モロゾフに遮られた。

「百メートルの丘に三十八回登ったからと言って富士山に登ったことにはならない。甘海老を百匹食っても伊勢海老を食ったことにはならない。僕は甘海老の方が好きだが。発泡酒を百杯飲んだってビールを飲んだことにはならない。マスターベーションを百回したからと言ってセックスをしたことにはならない、とまあそういうことだ」

 

 それと燕雀安くんぞ鴻鵠の志云々とどういう関係があるのか分からぬまま、私は車を走らせた。どうせ作家などという者とコミュニケーションを取ろうと思っても無駄だ。それよりも三百キロほど先の山の中腹に駝鳥牧場ができたと聞いたので、孵化前の卵を分けてもらうことにした。玉子は一個三千円もしたが、万一のことを考えて二つ買った。結果的にそれが良かった。

助手席に置いた段ボール箱がゴソゴソ動き出したのに気づいた時はもう遅かった。金槌で叩いても割れないという殻がバックリと割れて、中からつぶらな瞳の雛が私をじっと見ていた。薄い褐色の毛並みは柔らかそうでまだら模様が可愛らしい……なんて感心している場合ではない。鳥類の雛は初めて見た動く者を親と認識する。私の膝に乗ってきて餌をねだる雛を抱えてモロゾフの元へ戻り、悪いが雛のお世話があるので、自分で茹でて食べてくれともう一つの卵を渡した。彼は普通のゆで卵になったと怒っていた。駝鳥にも無精卵があったのだな。

雛はすっかり私を親鳥と決めてかかり、どこへ行くにも付いてきた。小屋に閉じ込めたら何とも言えない声でキューキュー泣くので、可哀想になって庭で放し飼いにしてやった。庭には二羽、裏庭には二羽鶏をにわかに飼いつつ駝鳥の子まで飼ったのだが、幸い鶏と駝鳥は仲良く過ごしている。しかし親を恋しがって毎日寝床に入って来られるのが困る。玄関が壊れ、壁は倒れ、ドアはぶち抜かれて家の体をなさなくなってしまったが、モロゾフは意に介さぬ風で、駝鳥の抜け羽で作った布団にくるまって満足そうに寝ている。

 

 エメーリャエンコの夜は肉で決める。なだ万の総料理長を務め、マルコス大統領の首席料理人で、その後はケネディ家の…いや、もうやめておこう。肉に関して語っていたら収拾がつかなくなるだろう。

 

 代わりにある日の会食メニューを紹介しておこう。エメーリャエンコ・モロゾフと長年の友人でコンマソク大学美学部教授のアナトリヤ・フニャーチン女史との晩餐会だ。ディナーの席は裏庭の池のほとりの木陰にセッティングした。二人の語らいを邪魔したくなかったこともあるが、別途実用的な目的もあったのだ。

 

「エメーリャエンコ、何を考えているの?」

「アナトリヤ、あなたの美しさについて」

「心にもないことを言うのね、エメリャン」

「僕はいつでも本気の言葉しか話しません、アナトーリャ」

「エローウンコ、タイが曲がってるわよ」

「アナルトリー、斜め四十五度が僕のタイの結び方です。知らなかった?」

「あなたっておかしな方ね、エロマンコ」

「あなたほどじゃないよ、アナルスキッキ」

 

【その夜のメニュー】

<突き出し>

臭豆腐とくさやの干物のミルフィーユ

(臭豆腐:カビを生やした豆腐を酒に漬けて地中に埋めて二ヵ月ほど発酵させたもの)

 

<前菜>

二種のチーズのドリアン和え

1)カース・マルツゥ(蛆虫チーズ)

2)エピキュアーチーズ(ニュージーランドの缶入りチーズ。破裂寸前の缶と硫化水素臭が特徴)

 

<スープ>

 納豆汁しょっつる鍋風

 

<魚料理>

シュールストレミングにいろいろな茸を添えて

 (シュールストレミング:スウェーデンのニシンの缶詰。その悪臭は世界一と言いテロに使えるとまで言われている。発酵して缶が膨張し爆発寸前状態のため室内での使用は禁止)

 

<口直し>

ホンオフェの薄造り

(ホンオフェ:韓国の高級料理。エイを発酵させたもの。強烈なアンモニア臭が特徴。シュールストレミングと並んで世界悪臭料理の最高峰と謳われている)

 

<肉料理>

 キビヤックと駝鳥のバロットの饗宴 豚の睾丸添え

(キビヤック:イヌイットやエスキモーの伝統料理。アザラシの内臓と肉を抜いて脂肪だけにしたところへ海鳥を数十羽詰めて地中で数年発酵させる)

 

<デザート>

ドリアンのくさや添え

 

<コーヒー> 

コピ・ルアク

(麝香猫にコーヒー豆を食べさせて糞から未消化の豆を取り出し焙煎したもの)

 

 

 ちなみに硫化水素とアンモニアの充満により、池の魚がみんな死んでしまい、畔のマロニエの木も立ち枯れてしまった。鶏は逃げ出し駝鳥は家の中に籠って出てこなくなった。フニャーチン女史との会食は三年に一度くらいにしてもらいたい。木を植え直し、池を回復するまでにそのくらいはかかるだろう。

2018年9月1日公開

© 2018 大猫

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