ナツキ E

ナツキ(第5話)

ムジナ

小説

8,676文字

第5話

急にすっと我に帰った。扇風機はいつの間にか勝手に切れていた。開けっ放しの窓から、薄明るくてひんやりとした朝が流れ込んで来ていた。
手を止めて、頭の中の重い眠気を思い出した。データが消えちゃったら大変、と思って、もう10ページ以上にもなったワードのファイルを保存する。部活に行く前に印刷して持って行こう。時間の表示を見るともう4時37分だった。
え、4時37分?
もうそんな時間。そんなに集中して書いてたのか。寝る前に簡単に思いついたストーリーをまとめるだけのつもりだったのに、いつの間にか夢中になってしまっていたらしい。
パソコンを閉じたとたん、どっと疲れがのしかかってきた。徹夜してしまった。昨日海に行ったのが何日も前に感じる。今日の部活は確か、11時からだったはずだ。今からでも9時ぐらいまでは寝ておこうと思った。

部室はまだ開いていなかった。やっぱり早すぎた。多分、杉山が来て鍵を開けるのはあと15分くらいしてからだろう。
まあでも、遅刻するよりはましか。目が覚めたのが8時半くらいだったから、あのまま二度寝していたら確実に遅刻していただろうし。
じりじりなる音が染み込んで来ている部室棟の廊下。私は部室のドアの向かいの壁に寄っかかった。かばんからクリアファイルを引っ張り出して、家で印刷してきたコピー用紙の束を取り出す。1、2、3、4、…12枚。少しワクワクしながら、自分で打ち込んだストーリーを読み返してみる。
病気がちで、幼い頃から学校にいけなかった主人公。高校1年になって病気はおさまっていたが、学校に行くのが怖くて、普段は引きこもっている。夏になって、学校がどんなところなのか見てみたくなった主人公は、休み期間の静かな学校にこっそりやってくる。そこをたまたま部活で来ていた、同じクラスの女子(悠里、名前未定)と男子(杉山、名前未定)に見つかってしまう。最初はギクシャクしていたが、だんだん仲良くなり、心を開いていく。主人公は夏休みの間二人の部活の部室に入り浸ることになる。
しかしそんな時、病気が再発。余命1年以内と宣告されてしまう。再び閉じこもる主人公。心配した二人は主人公を海に連れ出す。
クライマックスでは、海へ来て感情を抑えきれなくなった主人公が、全てを二人に打ち明ける。
あらすじのつもりだったのに随分細かいところまで考えてしまった。でも我ながら、けっこう良いと思っていた。他のパターンもいくつか用意してあったが、私の中ではこれが一番良い案だった。この後これをみんなに披露するんだ。今更少し恥ずかしくなって、胸の中のものが浮き上がってるような感覚がした。
玲ちゃんはなんと言うだろうか。前に悠里に聞いた、病弱だったという設定を入れたことを、本人が嫌がらないかどうかが心配だった。
ちょっと不安になってきて、もう一度読み返す。病気……引きこもって……どんなところか見………休み期間……ギクシャク……入り浸る……再発………
「早かったね。」
ごくんっ、と心臓が大きく震えた。ばっと紙から視線を上げると色白な顔があった。杉山だ。
「…びっくりしたー…。」
「しすぎでしょ。こっちがビビったわ。」
杉山は軽く笑いながら私に背を向けて部室の鍵をがちゃがちゃと開け始めた。杉山の背中に、よれたリュックがしがみついている。いつもはトートバッグなのに、どうしてだろう。古くなった鍵はなかなか回ろうとしない。10秒くらいガタガタ鳴らしてようやく、がしゃり、とくすんだ重い音を立てて鍵が回った。
杉山がドアに手をかける。重いスライド式のドアは鉄の音を立てて時々つまずくように引っかかりながらごろごろと動いた。ワイシャツの袖から出た細い腕に筋が浮き出していた。杉山はふうふう言いながら部室に踏み入った。私もそれに続いた。
「あらすじ、考えてきたんだね。」
部室の中は少しカビ臭い。
「うん。一応ね。」
「だいぶ量あるね。」
杉山が私の手元を覗き込みながら言った。私はちょっと手元に目をやりながら答えた。
「なんか、考えてる内に楽しくなってきちゃって。」
あるある、と杉山は笑いながらホワイトボードを動かし始めた。一昨日書いた役割の表が消されずに乾き付いていた。私は一昨日と同じ机にかばんを置いて、もう一度アイデアを読み返した。ホワイトボードのキャスターが、ガタガタした部室のフローリングの上でごろごろ鳴っていた。その音から枝分かれするみたいに、ドアが一気に開けられる音がした。
「おはざーす!」
ペットボトルロケットみたいな声が飛び込んできた。
「おはよう悠里。」
言いながら顔を上げると、いつものように悠里がにこにこしながら立っていた。でも、今日は私がいつも顔を上げる時に想定している姿と重ならない。私は少しびっくりしてしまって、
「あ!」
と声に出してしまった。
「ふふーん、気づきました?」
私は頷いて、一回呼吸をしてちょっと落ち着いてから言った。
「髪型変えたんだね。」
昨日まではピンクのシュシュで束ねてゆるいポニーテールにしていた悠里の髪は、首元まで降ろされて、先の方が軽くうねっていた。いつものシュシュは左手首につけていた。
「パーマかけたの?」
そう聞くと、悠里は耳の横の髪を右手の指で揺らしながら言った。
「これ地毛なんですよ!もともとすごいくせっ毛で、前まではアイロンで伸ばしてたんだけど、美容院変えたらそれを活かせって言われて。似合ってます?」
悠里の大きな黒目はいつも以上にくるくると明るかった。かわいいなぁ。
「うん。こっちの方がいいよ。すごいおしゃれ。」
同意を求めようと後ろを振り返ると、杉山は動きの悪いホワイトボードを裏返そうと必死の形相で格闘していたので、そっとしておくことにした。
「夏だし、映画うつるし、イメチェンですよイメチェン。夏美さんもしようよ。」
「そっか、そうだよね。夏だし。」
「もー、反応薄いなぁ…」
悠里は後ろから私の両肩に手をかけて、ショッピングカートみたいに私を押しながら席の方に歩き始めた。
「だって、びっくりしちゃったから。」
「ちょっと髪型変えただけじゃないですか。」
「でもさ、身の回りの何かが変わっちゃうのってちょっと怖くない?」
「夏美さん、変に繊細だもんなぁ。」
悠里は椅子を引いて、私を座らせた。頭の後ろの方がそわそわし始めた。悠里が私の髪を手でいじっているのが分かった。
「夏美さん、あんまり髪型いじったりしないですよね。」
私は目だけをちょっと後ろに向けた。
「うん。なんかよく分かんなくて。」
髪型を変えるにしても、どんな髪型が似合うのかよく分からない。分からないからいつも「すこし肩にかかるくらい」と言って切ってもらうだけだ。髪型を変えられない。変えないから似合う髪型がわからない。だから変えられない。無限ループだ。あと、美容師さんと話すのに毎回緊張してしまって、いつも無難な方を取ってしまうところもある。とにかく新しいことをしたり、変化が起こるのが苦手だ。
「私が入った時から、ずっと同じ髪型ですもんね。」
「悠里はけっこう、変えてるよね。」
「気分が変わるから。そういえばあの時、最初私だけだったんですよね、映画部入ったの。」
去年を思い出した。5人いた前三年生が卒業して、一個上の学年も1人退部したために、合計4人になった映画部は廃部の危機だった。悠里が入ってくれて最低ラインの5人を死守できたので、なんとか免れたのだった。
私の髪をいじくり続けながら、悠里が言った。
「でも去年、本当に全然活動してなかったですよね、最初の方。」
「先輩が来なかったからね…」
「おととしもそんな感じだったんですか?」
ううん、と声に出そうとした瞬間、左の方から別な声がした。
「いや、あの時は三年生が5人ともすごいアクティブで。」
杉山が口を挟んできた。私は声を飲み込んだ。杉山はホワイトボードを丁寧に拭きながら話した。
「部長だった結城さんって人がすっごくかっこよくて。1個上の女子3人は結城さん目当てで入ってきたようなもんだから。」
「あー、だから去年はやる気なかったんだ。あの人たちが来ないから、夏ぐらいまでほとんどずっとこの3人でしたもんね。」
「早川が入ってきてからは4人でね。」
私の頭の上を声が行き交っている。ややこしくてうまく説明できる自信がなかったので、杉山が話してくれて少しほっとしていた。そういえば、1年生の時、杉山はすごく静かで、というか陰気で、めったに喋っていなかった。私も大概暗くて人見知りを拗らせているので、お互いちゃんと仲良くなれるまでに半年くらいかかった。でも杉山は結城さんや他の三男にとても可愛がられていて、「有望」とか「天才が入部してきた」とかよく言われていた。私も先輩達に憧れていたので、杉山が少しうらやましいと思っていたことを覚えている。
「私ちょっと嬉しいです。」
悠里の声が後頭部ごしに響いてきた。
「ん、何が?」
「こういうことしてみたかったから。映画作りとか。一応、映画好きだから映画部入ったんだし。」
悠里は、時々ぽろっとため口が出る。去年の女子の先輩には「生意気」と言われていたが、私はすこし悠里が近くにいるような気がして、私と話している時にため口が出ると、ちょっと嬉しかった。
「夏美さんも、映画作るってなってからすごい元気そうだし。それが一番嬉しいかなぁ。夏美さん、最近あんまり元気なかったじゃないですか。」
私は口を開けた。何か言おうとしたが、何をいえばいいのかもよく分からず、あいまいに口を閉じた。
いつの間にか悠里は細い三つ編みを2つ作り終わっていた。2本の三つ編みを私の頭の横を通して後ろに回すと、それを巻き込んでポニーテールを作り、何かで留めてくれた。
「どうでしょうかお客様。」
悠里が私の前に差し出したコンパクトを覗いた。
「あ、すごい!器用だね。」
かわいい、と言いたかったけど、髪型ではなく自分のことを言っているように取られたくなかったので、無難な言葉を選んでしまった。でも本当に悠里は器用で、こういう髪型もあるんだなぁと思ったし、確かに、似合っていた。
頭の横を写すと、うしろにゆるめなポニーテールが揺れているのが見えた。淡いピンク色の何かが鏡に映り込んだ。
「あ、これ。」
私の髪を束ねていたのは、さっきまで悠里の左手首にあったシュシュだった。
「ふふーん。それあげます。」
悠里はそう言うとホワイトボードの前に走って行き、さっきまでの丁寧な手つきからは信じられないほど雑な動きで青いペンのキャップを抜いて一面に落書きをし始めた。杉山が変な声を上げた。

「なんとなくまとめると、引きこもってた余命わずかな主人公と、たまたま友達になった二人が海に行くまでのロードムービーって、感じ?」
私はそう、それ、と頷いた。ちょっと緊張してしまっていたのもあってうまく説明しきれなかったので、杉山にあらすじを読んでもらって、要約してもらっていたのだった。
「どうかな…?」
私はおそるおそる自分の紙から目を上げて、みんなの方に視線をふらつかせてみた。みんな軽くうなずいていたり、腕を組んだりしていた。
どっちだ。良かったのかな。それかすごく悪かったのかな。割と自信はあったんだけど。どちらでもない、微妙っていうのが一番辛いような気もする。そうだったらどうしよう。
「すごいいいと思います、これ。」
驚いて声のした方を見た。玲ちゃんだ。意外だ。意外というか、願ったり叶ったりだ。ほっとした。驚くと同時にほっとして、ややこしくて心臓が錯乱しそうだ。
玲ちゃんの言葉に、みんなもうんうんと頷いていた。やっと完全に胸をなでおろした。よく分からないけど急に目が熱くなった。
「じゃあ、とりあえずこのストーリーを基軸にっていうので、いい?」
杉山がみんなに確認をした。異論は出なかった。
頭が熱くなってきて、手に持っていた紙の束に目線を下ろした。知らないうちに両端を握りしめてしまっていて、しわしわになっていた。呼吸をし直す。
よかった。通った。受け入れてもらえた。胸の中が踊り出しそうになって、手元に置いてあったボールペンで、弱ったコピー用紙に「OK!!!」と微妙な大きさで書き走った。

「隣の客はよく柿食う客だ」
玲ちゃんの透き通った声がまっすぐ響いてきた。多分その客は、玲ちゃんの気を引こうとして毎回柿を食べているんだろうな。
部室の中は高エネルギー状態になっていた。演者勢は、悠里の「演技の練習しようぜ」という一言によって手始めに早口言葉の練習を始めていた。みんな、鈴原くんや悠里や佐々木さんもスマホをにらみながら特許がなんだ、竹垣がなんだと繰り返している。東京特許許可局は実在しない。早口言葉は、だんだん言ってる内に声が大きくなる。部室はここ数年で1番の騒がしさであふれていた。一女の佐々木さんと関さんは二人できゃっきゃ言いながらぶくばくぶくばく唱えている。
私は一度コンビニへ行ってからそんな部室に戻ってきて、みんなを眺めながら一人座って脚本を書き始めようとしていた。川西くんは、家から持ってきたビデオカメラを三脚に固定すると、そんな部室の様子を面白そうに撮り始めていた。
植山さんが、スマホの画面に向かって投げやりに特許庁特許庁特許庁と言いつけている杉山の肩をぽんぽんと叩くのが見えた。どうしたんだろう。
杉山が振り向いた。
「あの、私って何すれば…」
「あーそうだった、マイク買ってあるんだよ!」
そうか、植山さんは音声担当だ。今は確かに役目がない。杉山は嬉々として立ち上がると部室の奥に歩いていき、リュックを持って帰ってきた。椅子にリュックをどさりと置いてチャックを開くと、杉山はなにかの黒いケースを取り出した。
「これ、ビデオカメラ用のコンデンサーマイク。ちゃんと風除けも買ったんだぜ。」
杉山はそう言って、リュックから別な包みを取り出した。引っ張り出すと、ふわふわしたハンドモップのような灰色の物が出てきた。杉山はさっきの黒いケースを開けて、細長い棒状のマイクにそれを取り付け始めた。
私は手元に目線を戻した。
コンビニで買ってきた、Campusの80枚160ページの分厚いノートを広げていた。新しいノートはページがピシリと整列しているので、開いても勝手に閉じようとする。私はページの境目を手首でごしごしと押しこんで、開き癖をつけた。左端から書き始めたいので、最初のページは使わずに2ページ目の見開きから使い始めるのが私の主義だった。このノートをアイデア帳兼脚本ノートにするつもりだ。監督も脚本もどっちもやるから、一気に流れを書くよりも、場面ごとに分けて頭の中を漂っているアイデアを蓄積したかった。夏休み中に終わらせるという目標もあるので、脚本も細かく突き詰める時間はあまり無い。その場のソッキョウセイを大事にしよう、というのがおとといの話し合いで決まったことだった。
脚本は、柱・ト書き・台詞という3つの要素で作られる。「柱」というのは、そのシーンの舞台となる場所、ト書きはシーンの状況説明、台詞はセリフ。30秒のシーンを作るのに大体200文字程度の脚本が必要で、200文字で「1ペラ」と数えるらしい。さっき杉山に見せてもらったサイトにはそう書いてあった。手元のページにはそれが雑にメモしてあった。
ストーリーは考えてある。流れもなんとなく、まとめた。ただ、出だしの場面を迷っていた。どういうシーンで始めればいいのか、いまいちしっくりくるのが思いつかない。アイデアが頭の中で泡になって浮かび上がっては消えていく。両目のピントを合わせないまま、ページの表面をぼんやり眺めていた。
とりあえず、人物の設定だけ書くか。
だんだん、動き始めてきた感じがする。何かが。部室の内側全体が「これから何かが始まる」っていうエネルギーで、なんというか、温度が上がり始めているようなか––
「夏美さーん、昼ごはん行きません?」
悠里の声に顔を上げると、玲ちゃんや佐々木さんや関さんもいた。植山さんはどこだろうとちょっと見回すと、川西くんと一緒にカメラにマイクをつないで何かを相談しているようだった。私はうなずいて、ボールペンを置いてノートを閉じた。一度開き癖のついたノートはもう完全には閉じず、半口を開けてぼーっと寝ているように見えた。

玲ちゃんの声は、多分、独特の周波数かなんかを持っているんだと思った。だからうるさい部室の中や、今みたいに電車で走っている時でも、大きい声で話しているわけではないのにかき消されないんだろう。
「すごいですね、2日間であんなにしっかり考えられるなんて。」
「うーん、なんていうか、想像力だけは豊かなんだよね、多分。」
お互い普段から口数の多い人間ではないから、玲ちゃんが降りる駅までの間、車両の中は基本的には床や壁から飛び込んでくるごとんごとん、とかごーっ、という冷めた重い音と、それとは不気味なほどに対照的な人工の静けさとが混ざり合った、生ぬるいざわつきで満ちていた。すごいですね、と玲ちゃんが声を放ったのは、玲ちゃんの降りる1つ前の駅を『急行』という肩書きのもとに完全に無視して走り過ぎたあたりだった。
私はなんとなく、会話を続けないといけないような気がした。
「今日さ、脚本書くために細かいところとかセリフとか考えてたんだけど、なんか、最初の出だしだけ思いつかないんだよね。」
電車はトンネルの中に突っ込んだ。音がより大きく、重くなって聞こえる。窓の外は黒っぽくなって、立っている私と玲ちゃんが映った。私は窓に映った玲ちゃんの顔に視線を向けていた。玲ちゃんの口が動いた。
「難しいですよね、書き出しって。私もこの前現代文の授業で創作書かされたんですけど、出だし、なかなか書けなくて。」
「玲ちゃんのクラスの現代文って、前野先生だっけ?」
「そうです、前野さん。」
「だよね。この前悠里が言ってた。…あ、この髪ね、悠里がやってくれたんだ。」
「そうだったんですね!夏美さん、ポニーテール似合いますね。」
「ふふ…前野先生、一昨年あたったことあるんだけど、その時は創作はやらなかった。」
玲ちゃんがニコニコしながら私の顔を見ているのが窓に映って見えた。すごいよなぁ。私はまだ、ちゃんと人の目を見て話せない。こうして玲ちゃんと話していても、視線はその間、窓とか向かい側の人の足元とかをさまよっている。「まだ」というか、これから出来るようになることはあるんだろうか。
「でも夏美さん、そういうの得意そうですね。創作とか。」
「得意っていうか…まぁ、好きではあるんだけど。」
少しばつが悪くなって、斜め下に向かって曖昧に微笑んだ。
玲ちゃんはそれからちょっと目を丸く開いて聞いてきた。
「そういえば、文芸部とかには、どうして入らなかったんですか?書くの、好きなのに。」
どう言っていいか分からなくて、私はちょっと視線を振り回した。曇った銀色の手すりをつかむ自分の右手に視野を固定すると、口を開いた。
「文芸部は、なんていうか…ちょっとトラウマがあって。」
「トラウマ、ですか。」
「うん。中学のときは文芸部だったんだけど、文化祭で配る部誌に短い小説を書いたら、クラスでちょっと、いじられて。」
「あぁ…すいません、変なこと聞いちゃって。」
「あ、ううん。いいのいいの。今更気にしてないから。」
私はへらへらと左手を振った。
なんとなく静かになった。生ぬるいざわつきがしみ込んできた。
「私は、」
玲ちゃんがいつもよりちょっと低めな声でこぼした。
「学校に、ほとんど行ってなくて。」
私は頷いた。悠里がこの前言っていた。
玲ちゃんは今までに見たことのない、真剣な表情で、しばらくなにか考え込んでいたが、そのあと諦めたようにふっと息をついて、
「なんでもないです。」
と複雑に微笑んだ。
さまよっていた私の視線はその微笑みに磁石のように引きつけられてしまった。
こんな玲ちゃんの表情を見るのは、初めてだ。
車内アナウンスが流れて、その表情はすっと消えてしまった。玲ちゃんの降りる駅だった。電車は減速していき、見えない力が私たちに後ろからのしかかった。
玲ちゃんは
「それじゃあ、また明日。」
と言って、いつもの明るい顔で微笑んだ。私はもう、その笑顔を前のようには見られなかった。

私は勉強机に頬杖をついて、ノートを睨んでいた。
なんて言ったらいいんだろう、だってものすごく、人間らしい表情だったのだ。
今まで私は、玲ちゃんのことを、なにか私とは違う種類のいきものだと思っている節があった。玲ちゃんの完璧な見た目とか、全く曇りのない笑顔とか、透き通った話し声とか、人間じゃない、もっと純粋で汚れのないなにかだと思っていた。でもそうじゃなかった。玲ちゃんは、人間なのだ。
さっきの、あの表情。あの曖昧で、生ぬるくて、もやもやした微笑みは、人間にしかできない表情だ。私と、同じなのかもしれない。
今まで玲ちゃんに抱いていた憧れのような感情が、それに気付いた瞬間、しゅるしゅると形を変えていった。
近しさ、というか、強烈な親近感が、胸に残った。
嬉しかった。玲ちゃんが完璧でないことがではなく、そのどこまでも人間らしい表情を、私に見せてくれたことが、静かに嬉しかった。
これだ。これを、映画で表してみたい。
なんと書けばいいのか。もう30分もこうして頬杖をついている。私は少しやけくそになってボールペンをノックして、ノートに書かれた『主人公(玲ちゃん)』に線を引っ張って、『人間!!!』と書き込んでぐるぐる丸をつけた。今日も徹夜だ。

2017年9月17日公開

作品集『ナツキ』第5話 (全20話)

© 2017 ムジナ

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