父は荒い息をつきながら僕を睨んでいる。僕が知っているのは執拗なまでに僕とその他の子らとを区別しようとする父の背中だけだ。僕は腹に力を込め、父を睨み返した。負けてはならないし、負けるつもりもなかった。僕に守るべきものはないのだ。
「……あん時の森江さんの真似したって無駄やぞ」
「…………」
源太郎さんが僕の腕を掴んでいる。僕は手の甲に爪を突き立て、ゆっくりと呼吸を繰り返した。そうしていなければ頭がおかしくなってしまいそうだ。
もしかすると、父は発狂するかもしれない。でも、僕は辞める気はなかった。始めた以上は徹底的にやりきらねばならない。それほどまでにこの柵は尾古をがんじがらめに絡めとっているのだ。やりきらねばならない。やり切るのなら、迷っていてはいけない。
「おまいはなんしよる――」
「親父は怖いんやろが、森江さんがまた口出してきようともわからんけぇ、とりあえず俺に頭下げさせて、はいはい言わせときゃえぇ思っとるだが……ほいでも、本当は怖いんやろが。昔からそうじゃ、臆病もんじゃ!」
なぜこんなにも息苦しいのだろうと僕は思った。源太郎さんがやめれぇ、とかすれた声で僕を遮ろうとしたが、それに答える余裕を僕はとうに失っていた。それどころか、僕の腕を掴んでいるのが源太郎さんなのか、それとも誠二さんなのかも怪しくなっている。手の甲に半月型の痕がぽつぽつとついていて、それだけが僕の心のよすがだった。
「ほいで、何年かしたら優姉呼び戻して、尚くんと結婚させときゃぁ将来安泰なんぞ考えよって、なんちゅう下衆や。保身ばっかり考えよって」
「たっちゃん……あかんで、やめとき」
「板間に座って安心しちょるんは親父だが! なんして優姉と俺が犠牲にならにゃいけんだか! 昭和か! 今は平成ぞ、とっくに平成になったんぞ、平成十三年やぞ!」
「たっちゃん、やめなさい」
ぎょっとしたように大西さんがこちらを見るが、その顔がどこかの誰かに重なって僕の境界は危うくなる。今が平成の世なのか、それとも激動の明治だったのか、あるいはそのずっとずっと前だったのか、先祖代々そっくりな顔をした大西さんの顔を見ているとますますわからなくなってしまう。僕は右手でどうにか口元を拭い、また深く息を吸った。
ずぶり、と深い沼の中に足を差し込んだような心持ちがする。僕の頭のなかには深くくらい沼がたゆたっていて、その中を僕は必死で探っているのだ。それが誰のものだったか、自分のものかいなか、常に意識をしていなければならない。代々の尾古の男たちはみなそうだったし、だからこそ混合しても構わないようにまったく同じ生活をなぞることを選んできたのだった。僕達は、少なくともこの四代だけはそれを許されなかったが。
「知っとる、んぞ……昔から俺んことおとろしい、おっとろしいて――」
「たっちゃん……あっち行こな。な、あとにしよな、あとに――」
「ごまかせる思うとるんか、知っとるんぞ! なんしてこっち見れんだかっ? 廊下見とっても、ばあちゃんは来んだぞ! 十年前に死んだがな!」
父の目は血走っている。まぶたをいっぱいに開き、まばたきもしていない。ぎょろぎょろと眼球が動くさまはまるで出目金で、僕は吐きそうだった。父の背中を汗が伝っている。父はそれを気持ちが悪いと思っている。
「俺は山には戻らん。戻るんならみんなに全部話したる、親父が頭ん中で考えてること、ぜぇんぶ話したる! 雄一君のこと出戻り言うて笑っとるんも、生臭坊主の淹れる茶ぁは生臭い、お布施減らしたろかな思うとるんも――言い訳したって無駄だ、まずいぞ。みぃんなここにおるもん聞いてしもたけぇ、さいや、本家のじいの耳にもすぐ入る、入らなんだら俺が言うたるけぇ、なんだいや! 汗が気持ち悪いんやったらはよ拭けぇ!」
父は思っている。早くここから逃げ出さねば、僕の首根っこを掴んで逃げて、山に戻らねば、そう思っている。せわしなく視線をあちこちに行き来させ、源太郎さんの顔色をうかがい、蒼白になっている誠二さんに視線を送り、どこかにかすかな希望がないかと探している。今ならまだ言い訳ができる、今廊下に膝をついている祖母も大丈夫だがよといってくれると、そんな昔のまま何一つとして代わり映えのない思考をぐるぐると繰り返している。
「たっちゃん、親父さん死んでしまうで。あかんで、落ち着きなさい」
「…………」
「息吸い。ゆっくり、ゆうっくり吸ってぇ、なんも考えんでええから、ゆっくり吐き」
誠二さんが僕を見ている。そうしながら、誠二さんは僕を押さえている。僕に殴りかからないように、必死で僕を抑えこもうとしている。
昔からほっそりとしていた誠二さんは心優しい人で、誠二さんの父親にみつからないようにこっそりと僕に飯を食わせてくれたものだ。畑を手伝ってくれたこともある。だが痩身の誠二さんは体が丈夫ではなく、田圃に入るとすぐに咳をした。熱もよく出したし、それをおぶって麓の医者まで走ったこともあった。
背中で誠二さんはいつも、すまんなぁ、すまんなぁと謝っていた。すまんなぁ、孝一くん。うちの親父があんなんで、辛抱たまらんよなぁ。親父も土地がなくなって不安だけぇ、すまんなぁ、こらえてぇなぁ、俺がもう少し丈夫ならなぁ――
ちがう。
これは僕ではない。父だ。
僕は誠二さんの若いころのことは知らないし、大学に合格した彼を祝ったことはない。あのとき恥ずかしそうに俯いていた誠二さんをこの目で見たわけではない。
冷や汗がこめかみを伝っている。僕はまた顔を拭い、息を止めた。源太郎さんが背中をさすっているのはわかるが、その感覚も遠く、意識が自分の中にある沼に埋没していくのがわかる。だめだとわかっているが浮き上がれない。勝手にぽつ、ぽつと記憶がよみがえってくる。僕のまぶたの裏にその光景が浮かび、まばたきをするたびにテレビのノイズのように揺れる。
「……おまいは……嘉平さんと同じか……」
ごり、と頭の中で妙な音が聞こえた。
僕は思わずこめかみを押さえ、父を仰いだ。
変だ。僕は確かに変だ。いつもとなにもかもが違っている。僕の口がこんなになめらかに動くはずがない。父に対して罵詈雑言を飛ばせるわけがない。父が僕の言葉に茫然とするわけがない。ないのだ。僕は――
僕は何を言っているのか?
「…………」
「……達久――」
たっちゃん、と源太郎さんの声がすぐそばで聞こえる。確かに僕の背を撫でているのは源太郎さんだ。
大丈夫か、横なるか、源太郎さんは僕にそうやって呼びかけている。呼びかけられていると耳はわかっているはずなのに、僕の意識がついてこない。体が重い。ただ、ひたすらに吐き気がする。
「……バケモンが――……」
(あれは化けもんだ、なぁもかぁも人の心を読みよる化けもんだ)
(わしらは化けもんだで……)
父の脂ぎった顔が闇の中に浮かび上がっている。顔にうっすらと酷薄な笑みを浮かべ、炯々と目を光らせて僕を監視している。僕は息を吸った。
(バケモンが山から降りてきよった……)
吐きそうか、と耳は源太郎さんの声を聞いている。だというのに、僕にははっきりと別の声が聞こえている。押し殺した息が喉を通り過ぎる音まではっきりと聞こえる。まるで僕自身がなにか言葉を発しているような錯覚すら覚える。
父はなにも言葉を発していないはずだ。だが、父の思考が僕の中に流れ込んでくる。僕はもがいた。だが押し寄せてくる土砂は山津波のように容赦がなく、しかも腐って嫌な匂いを放っている。それが確かに父の思考であると僕にはわかる。わかるが、追い払うことができない。自我の境界を引くことができない。
僕はもだえ、両手で顔をおおった。なにかが、おかしい。
(善がおらん……どこ行った)
(どこ隠れとる、善――)
押し殺した声。濃い血臭がどこからともなく漂ってきている。僕の手は何かに濡れ、だがしっかりと棒のようなものを握り締めている。
ずるり、と父が前に出た。影が、僕にのしかかる。
(善は――)
(あれは化けもんだ、なぁもかぁも人の心を読みよる)
ぽたり、ぽたり、と湿った音を立てて畳の上になにかが垂れている。この血臭はどこからするのか。ゆらゆらと行灯の光が揺れ、ふすまに散った黒い斑点がそのたびにてらてらと光る。これはどこだったのか。誰だったのか。僕は――
足が床を蹴っている。僕は逃げようともがいた。胃がぐう、とせり上がり体の中で何かが膨張する錯覚をする。
「あかん……誠二くん、孝一くんとめてくれ!」
「なんですか? どがしたんですか? 止めなれったって……」
「はよう! たっちゃん死んでまうがな!」
手に血糊がべっとりとついている。たしか、僕は誰かの頭を叩き割ったような気がする。棍棒はおどろくほど軽く、頭はまるで野菜のように簡単に潰れたのだった。はじめはかたく、それから突然手応えがなくなったかと思うとぐしゃりとつぶれた。飛び散った水は腐っていて、それがただ厭わしかった。そうではなかったのか。電灯の光がゆら、ゆらと大きく振れ、船酔いをしたときのように視界がぼやけている。
これは。
誰だ。
「人喰らいの化けもんが山から降りてきぃよった……征伐せなぁ……」
暗闇の中からその声が聞こえた瞬間、僕の意識はすこん、とどこかへと飛んでいった。
「だから止めぇ言うたのに、役に立たんやっちゃな」
「無茶言いなや、どやって止めんねん、知らんわ」
再び意識が戻った時、最初に聞こえたのは源太郎さんと哲之の声だった。僕はまだ泥水の中でもがいていたが、二人の声は水面のうえにあり、太陽が見えた。上も下もわからずにいた僕はほっとして、光を仰いだ。
体中が痛い。なぜだろう、と僕は訝った。まるで全身を雑巾のように絞られてしまったようだ。あちこち引き攣れて痛むし骨も全部折れてしまったように体がまったく動かない。
「じいちゃんはなに知っとるん? 教えてくれたってえぇやん、なぁ、なんなん?」
哲之はまた文句を言っている。
高校入学と同時にこちらに引っ越してきた哲之ははじめ、関西弁を話していた。とはいえ、哲之自身が言うには彼の関西弁は似非であり、山陽の色が濃いとのことである。母親は大阪と山陰を頻繁に行き来しながら育ち、父親は山陽の言葉が抜けないまま大阪に住み着いた人なので、言葉がいろいろ混ざるのはしかたがない。生粋大阪育ちの源太郎さんですらたまに鳥取の言葉をしゃべっているくらいだし、意外なところで両親の影響は出るものである。イントネーションは関西弁だけど、意外な所で大阪弁ちゃうんよなぁと彼は言った。親父も母さんも正しい大阪弁は使ってへんし。僕にはわからないが、哲之がそういうのであればきっとそうなのだろう。
そんな哲之は、越してきた当初はやはり言葉が馴染めなかったようだ。そもそも彼は語尾だけはその場の気分でころころ変えるが、全体的なイントネーションは関西だ。源太郎さんも大阪のほうが長いし、家ではどちらともつかない方言を使っているのだからしかたがないことだが、僕はテレビに出てくる芸人のような言葉遣いの哲之を面白がり、真似をしてずいぶん嫌がられた。今ではすっかり僕が影響されて、時々混乱する。
「これは軽々しく口にできるようなことでないんぞ」
「ちょっとくらい教えてくれたってええやん、ケチィ」
「爺ちゃんに向かぁてケチとはなんだ」
「ケチやろ。けぇちぃ」
「なんだいや」
源太郎さんは少し怒っているようすであるが、哲之が態度を改める気配はない。すぐに調子に乗る哲之と、意外にプライドの高い源太郎さんは放っておけば喧嘩をする。普段は源太郎さんの奥さんが哲之をたしなめるか源太郎さんのガス抜きをしてくれるのだが、今はどこへいるのやらこそりとも音がしない。僕は痛む背中にもだえてうめいた。
「お、起きよった」
「なぁや、都合わるぅなったら話逸しよってからに……あ、たっちゃんか。起きたかぁ、たっちゃん」
「今動いてんよ」
「そらぁ疑っとらんがな。たっちゃん、きこえるか」
ん、と僕は唸った。目がどうにも開かないがそれにしても背中が痛い。まるで剣山の上に眠っているようだ。まさか源太郎さんがそんな無体なことをするとは思えないが、なぜこんなにも体が痛むのか僕にはわからなかった。
「ノリ、おばあちゃんにいって、ふきんもらってき。顔拭いてやったら目ぇも覚めるわな」
うん、と珍しく哲之はおとなしく返事をしている。僕は再び呻いて腹に力を入れようとしたが、やはりどうにも力が入らない。まるで体だけ別の誰かになってしまったようだ。かといって噂に聞く幽体離脱や金縛りとは少々勝手が違うようで、いやに自分の体を重く感じる。
「あぁ、えぇがな、えぇがな、無理せんと寝とき」
「……親父はぁ?」
「ん? 考ちゃんか? 帰ったよ、誠ちゃんが引きずってったから安心せぇ」
「ん……」
「心細そうな声出してぇ。まったくしようがないのう」
「体がいてぇけぇ……」
さよか、とつぶやいた源太郎さんはかすれた声で笑った。家の中から哲之の声がしている。どこの言葉でもない言葉でしゃべる男は、相変わらずの呑気で無遠慮なようすだ。
「ちょっと力が入りすぎたんやろなぁ。すぐ治るから、今日はおとなしくしとき」
「……うん」
「なぁ、おとなしゅうなってぇ……」
「いてぇだん、しょうがなかろ」
そらしょうがないな、と源太郎さんは優しい声で言った。いつもなら「あったりまえや」などと冷たい一言を吐き捨てるのだが、今日は妙に優しい。僕は天気が心配になり、窓の外を見ようとまぶたに力を入れた。しかし目はあかない。雀のさわがしい声が聞こえる。
「あぁ、あぁ、歳取っても若いもんの面倒みにゃならんとは……なぁ? 大きな声だしなや、まったく……」
前言撤回である。やはり源太郎さんは源太郎さんだ。病人に対しても気遣いがない。もっとも僕が病人なのかどうかは怪しいところだし、僕自身ひっくり返った時の記憶はないが、体が痛いのは確かなのだから、少しくらい優しいことを期待してもバチは当たらないはずだ。
「なんだいな? まぁた母さんはなにか言うとるんか」
茶漬けいるか言うとる、と哲之は微塵にも深刻さのない声で言い放った。彼の言葉が降りてくるのとほぼ同時に顔に何か生ぬるいものが当たって僕はうめいた。
「生きとる?」
「しゃべっとるよ」
「あぁ、死んだかと思うたわ」
「せやな」
「泡吹きよったしの。てんかんじゃぁ焦ったわ、小便漏らしよるし」
あ、と僕の喉は音を鳴らした。あまりにも驚いて声が漏れたのだ。ついでにバキバキと背中が音を立てて僕はうめいた。背骨が折れた。今の音は骨が折れた音だ。
「そないこと言いでないよ。ノリかてそんなんバラされたくないやろが」
「せやかて俺のジャージがダメになったんぞ。大学行ったら使おー思とったのに……ま、うんこ漏らされんかっただけマシじゃな」
こらっと源太郎さんは声をあげたが、僕はそれどころではなかった。驚いたあまり今度はばりばりと音を立ててまぶたが裂け、にやにやと笑っている哲之が視界にはいるようになる。僕は必死で腕を伸ばした。腕をのばそうとすると体中がなにやら不吉な音を立て、鈍い痛みがやってくる。僕はうめいた。僕の痛みなど知る由もないといった表情をして、哲之は笑っている。
「うわぁゾンビやぁ、ゾンビがおるぅ」
「ほん、ほんまかぁ! そんなん、うわぁ、嘘やぁ、ばらさんといてくれぇ、頼むぅ」
「ばらさんとくんは別にえぇけどなぁ、俺から漏れるとは限らんしのう」
「誰やぁ、誰が知っとるんやぁ」
やめぇや、と源太郎さんは笑いながら哲之を制したが、哲之はにやにやといやらしい笑みを浮かべているばかりである。僕は泣きたかった。まったくふんだり蹴ったりとはこのことだ。
「小水漏らしたほうがえらいことなんか、たっちゃんは。しょうがないなぁ……まぁ元気があってよろしいが」
「大西さんが笑っとったぞ」
「大西さんやとぉ! いけん、もう俺、外歩けん……」
嘘つきなや、と源太郎さんはまだ笑っている。ぴん、と僕の額を弾いた哲之はそんな源太郎さんの言葉をきくよしもなく、実に楽しそうだ。しかしその楽しさは人の不幸を舐めている楽しさである。最悪な男だ。
「マチに行くんやったら別にええじゃろ」
「あぁ、そうや……俺、マチに行くんや……大西さんもついてこらなん……」
「そうやぞ、マチやぞ! 姫路大阪名古屋東京パリニューヨークやぞ!」
あぁ、と僕は息を漏らした。哲之が適当なことを言っているのは百も承知だが、僕が東京に行くつもりだったのは事実である。幸いなことに最初の危機は脱し、父は家に戻された。僕は戻らなかった。このまま出奔につとめれば、どこへでも行くこともできる。そう考えるとすこし元気が湧いてくるようだ。
「落ち着いた」
「混乱させたんは誰や。かあいそうになぁ」
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