僕の記憶の中にいる祖母はおばあちゃんだ。僕が物心ついた頃には病院に入院していて、時々母に連れられて見舞いに行くと、決まってベッドの上に正座をしてにこにこと僕らを迎えた。最後は少しボケが入っていたと母は言うが、孫のことはきちんと孫だと認識していて、ひとりずつ順番に話をする。そういうひとだった。
病院という場所は、こどもの僕達にとっては退屈な場所だ。走り回ってはいけないし、騒いでもいけない。そのうえ一緒に暮らしたことのない祖母に会うのだから、気詰まりに思うのも仕方がないことだった。
一番上の姉はいつも「おつとめ」が終わると、母と一緒に売店に飲み物を買いに行ってしまう。祖母もそれはわかっていて、姉と話すのはいつも最初だ。二番目の姉と僕は椅子に座って大人しく順番が来るのを待っている。
二人がいなくなると、祖母が同じ病室の人からもらったという駄菓子をくれる。駄菓子は僕達が好きなもののこともあったし、がっかりするものの場合もあった。がっかりするのはよくないとばかりに二番目の姉ははしゃいだ声をあげてありがとうと言い、僕はそのとなりで口の中にさっさと菓子を押し込んで、やっぱりおとなしくしていた。
あの病室に父がいた記憶はない。たしか、記憶にあるかぎり僕達と一緒に病院へ行ったことはなかったのではないかと思う。病院自体へは足繁く通っていたが、行くときはいつも一人だ。そんな父のことを一番上の姉はマザコンだと言っている。姉がそんなふうに言うのは少しわかる。でも、戦争で一家の主を失ってしまった母ひとり子ひとりがそうなのはしかたがないのではないか、とも思う。
それに父は尾古の男だった。村の寄り合いでは末席に座り、発言権はなく、村八分に近い扱いを受けている尾古の男だったのだ。
たっちゃん、悪言いされとらんかえ。
必ず祖母は最初にそう言って、首を傾げている僕の頭を撫でた。僕は子供心に祖母が言わんとしていることを悟っていたが、あえて学校の話をした。学校、楽しいよ。百点とって先生に褒めてもらった。
祖母は目をほそめて、ほんにぃと言う。たっちゃんは善司郎さんにようく似とるけぇ、きっと頭のええ学校に行かれるねぇ。僕はそんな祖母の言葉にどう答えてよいかわからずに黙りこくっていた。
祖母が父を産んだのは昭和十八年の大寒である。その少し前に祖父は出征しており、しかもそのまま戦争が終わっても帰ってこなかった。祖父のいた部隊は南方で全滅したそうだが、遺骨は帰ってこなかった。
祖母は時々、おばあちゃんはいつかきっとおじいちゃんが帰ってくるって思って待っとったらこんな歳になってしまってねぇ、きっとおじいちゃんもわからんかもしれんねぇなどと笑っていたが、遺骨を待っていたのか、それとも本人がひょっこり帰ってくるのを待っていたのかはわからずじまいだ。そんな祖母だったが、一度だけ山向こうの生家に出戻ることも考えたらしい。女ひとりで乳飲み子を抱えての生活は厳しかったのだろう。もしかするとその頃は再婚も頭をよぎっていたのかもしれない。
だが、祖母は結局出戻らなかった。本家から、父を村から出すなと言われたからである。
本家は言った。山向こうの生家に帰ることは止めないが、父は置いていけ、尾古の男は絶対に村からは出せない、と。祖母は村に残る方を選んだ。
祖母と父の生活は豊かではなかったが、戦後の食糧難も農地開放も彼らには影響を及ぼさなかった。尾古はもともと小作人ではなかったので、持っている畑の大きさは変わらなかったし、生活もほとんど自給自足だったからだ。
そんな家庭で、父は小学校に入る前から野良仕事を手伝っていた。小学校に入ってから野良仕事を理由に学校をなにかと休みがちだったが、山間では珍しくないことだったので、学校の方も特に咎めはしなかったようである。
しかし、父が十五になった年、祖母は病に倒れた。
当時、尾古には財産らしい財産がなかったので、はじめ祖母は家の中でふせっていた。医者を呼んだのは森江だ。森江も別段人情がないわけではない。ただ、尾古の男という存在の処遇に対してだけは譲らないだけで、死にかけている祖母をむざむざとほうっておくほど心根の腐った人々ではなかった。
麓の医者はため息をついて、かなり強く入院をすすめたが、つましい家の中に座した人々は青い顔をして目配せをするばかりで誰も口を開かなかった。入院にはお金がかかる。昭和三十二年の当時はまだ国民健康法の施行前であり、入院となれば山の一つとはいわないが、それなりの金を工面せねばならないのが当時の感覚だった。
しかし尾古の家には財産がない。地主だった森江も農地解放と急激なインフラで一気に財産が目減りし、さすがに祖母の入院費用までは出せなかった。
あの時、治郎吉さんが話を聞きつけていなければ、祖母は多分僕が生まれる前には他界していただろう。
大阪大空襲で店が焼け、筺原繊維の初代社長を失った筺原は、郡家にいったん店を戻していた。九州で終戦をむかえた源太郎さんが二代目の社長になり、大阪で店を開くために奔走していた時期である。苦しい時期だったが、みな元気があったと源太郎さんは言う。元気だけでもなけりゃやってけんかったからな、と。
が、治郎吉さんは別だ。
治郎吉さんは八十をとうに超えており、すっかり隠居生活だった。頭はしゃっきりとしていたがぜいぜいとすぐに息が上がってしまってあまり動けないので、日がな縁側で川柳をひねっていたらしい。元気といえば元気なのだが、心なしか気落ちして泣き言をいうことが多かったと源太郎さんは言っていた。そんな治郎吉さんに祖母の話をしたのは、たぶん毎日往診に行っていた医者だろう。
ひっくり返りかねない勢いで驚いた治郎吉さんはすぐさま森江と父を呼びつけ、入院費用を負担するといった。決して少ない額ではなかったはずだが、治郎吉さんの決意は固く、遠慮をしていた父も最後は頭をたれて礼を言った。
そんな風にして麓で療養生活を始めた祖母だったが、やはり病状は回復しない。医者は岡山に知り合いの名医がいるから診てもらった方がいいというが、ここでもやはり問題になったのは金だった。
「しかたないですけぇ……森江の旦那さんもおらんさりますし、畑がありゃぁなんとかいきてゆかれます――」
「綾子さん、いけんぞ。そんな弱気なこと言うたら……病は気ぃからいうだらあが」
「だけぇ……筺原も大変ですし、申しわけがたたんです」
父は黙りこくって爪を眺めていた。爪の上にはぼやけた木漏れ日が映っている。祖母はベッドの上に正座し、綿を詰めなおしたすりきれた半纏を羽織っていた。治郎吉さんはどっかりと椅子に座り、眠たそうに目をしょぼしょぼとさせているばかりだ。頭はすっかり禿げ上がり、やせ細って皺がいっそう深い。声もハツラツとしていた若いころとは異なり、しわがれ干からびた老人のそれになってしまっていた。父はただ、黙っていた。
「それに孝一はまだ若いですけぇ、なんとでもなりますよって」
「いけん。いけんぞ。綾子さんがおらんようになったら、いくら若ぁても健康でも、苦労はするもんだで」
「さいですやろか……」
「さいや! 尾古の男っちゅうだけでも苦労するのに、両親がなぁなったらまっすますつらい目にあうんぞ。それにこれから世の中は変わる。わしが若かった頃と同じくらい変わりよるが、ようわからんこともいっぱい出てくる。そん時に家族がおらんのは辛いことだけぇ」
「…………」
「あんたの亭主も両親がおらんと随分苦労しとっただ……生きとるだけでもえぇっちゅうことが、世の中にはたくさんある」
ちらりと祖母は父を見やった。背を丸めすっかりやつれているが、祖母はまだ若い。僕が知っている祖母よりずっと若く、髪の毛も黒ぐろとしている。ほつれた前髪を手ですいて、祖母はほうとため息をひとつついた。父もひとつため息をついて困っている祖母の代わりに口を挟んだ。
「どっちにしろ刈り入れが終わるまではついていけんですけぇ、母さんとゆっくり考えます。先生もゆっくりでええ言うとりましたし」
「うん……そうかぁ……まぁ、まだ夏だけぇ、秋まで時間はあるな」
「はぁ」
そんなやりとりが夏の間ずっと繰り返された。最後には祖母が根負けした形で治郎吉さんの話を受け入れたが、父はやはり黙っていただけだった。
今でも郡家から岡山まで列車で移動しようと思うとかなり時間がかかるが、当時もたいして事情は変わらなかった。因美線で山々を越えたあとは岡山行きの列車にのりかえねばならない。病床の祖母には決して楽な旅ではなく、都会に出たことのない父にとっては緊張続きである。医者と一緒に移動するとはいえ、一事が万事、なれないことばかりで心がすり減っていくのはわかりきっている。そう考えると多少余裕のある刈り入れ後のほうがなにかと都合が良かった。
岡山行きまでの間、父は足繁く療養中の祖母のもとに通い、その帰りについでとばかりに筺原を訪ねるのが日課となっていた。そうしろと祖母が言ったのである。手土産はたいてい野菜か川魚か卵か、まれに絞めた鶏だったりもした。
食料はどこへもっていっても喜ばれた時代である。筺原も大変な時期にあったので、当時社長だった源太郎さんと父はほとんど顔をあわせなかったが、治郎吉さんは父が顔を出せば、嘉平さんにそうしたように長々と引き止めてたくさんの新しい話をした。八十をすぎても治郎吉さんの好奇心は衰える気配を見せず、彼はただ黙って頷く父を聴衆に、目を輝かせ、時には涙をうかべ、楽しそうに話をした。
そんなある日、父はついにそれを手に入れた。カメラである。
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