序章
早春の濁りが喉の奥でざらついた音をたて、僕は焦って息を吐いた。
ドルル、ドルルと背後から不吉な音がする。不吉な音の正体はエンジンだ。軽トラックにのった父が僕を追いかけているのだ。妙な音を立てているのは、たぶん頭に血が登ってサイドギアをおろし忘れているからだろう。以前にあぜ道を追いかけられた時も同じ音がしていたと、僕は冷静に思った。
しかしいくら頭が冷静でも、逃げ場がなければしょうがない。しかも道は上り坂で、いくら僕が若いといっても、軽トラックと競争して勝てるわけはないのだった。有利なのは、身軽なことだけ――
ぐんぐんと音は近づいている。
このままでは跳ね飛ばされる。父なら――頭に血が上った今の父ならやりかねない。
そう思うった瞬間きゅっと頭の毛穴がすぼまり、髪の毛が逆立っているような錯覚をした。僕はカメラの肩紐をしっかりと握り、歯を食いしばった。
硬い金属のカメラがはね、急かすように僕の背中を叩いている。僕は顎をそらし、息を吸った。
「このまま走っとっても追いつかれる! あっこからのぼんぞ!」
僕の半歩前を走っていた筺原哲之が声を荒らげて前方を指した。
彼の指差す方向、数メートル先、コンクリートで固めた土手の一部が崩れ、土が露出している。車が登れるだけの幅はなく、確かに少し時間が稼げそうだ。
しかし、僕は錯覚した。アスファルトが僕の足を引き止めるように粘度を増している。泥水の中を走っているように、足が重い。前に進まない。僕はしゃにむに腕をふり、歯を食いしばった。
口の中に血の味がする。この記憶はなにかと重なるような気がする。誰かと重なっているような気がする。僕はそれをどこかで知っていた。知っている。耳を澄ませば砲声が聞こえるような気がする。声を溶かす霧雨が肌を濡らしている気がする。闇の向こうでまたたく無数の銃口がみえる気がする。雨に濡れぼそり肌に張り付く布の感触が、胸の中までひたひたと埋める熱帯の空気が、湿気が、感じられる。鼻につく薬品の匂いも、どうどうと迫り来る地崩れの音も、今自分のすぐそばにあるように感ぜられる。僕は混乱した。記憶と現実が混乱している。今、僕が誰なのか、どこにいるのか、わからない。
わからない。
「尾古ぉ! はよせぇ!」
混迷を振り払い、地面を蹴れ、と僕は僕に命じた。足に集中しろ、とにかく走れ。今はそれだけに集中すればいい。逃げ切れることがなによりも大事なのだから。
だが足裏の向こうにある感触がアスファルトから土に変わったせいだろうか、僕は勢い余って前につんのめり、手を地面についた。手のひらに小石の角が刺さり、ぐっと枯葉のにおいが近くなる。しかし冷たい朝の空気が一斉に体の中に入ってきたおかげで視界が突然クリアになり、僕は我に返った。
僕は尾古達久だ。父から逃げ、なにもかも捨ててこの土地から逃げようとしているしている。
逃げなければ。
ここから、逃げ切らなければ。
ぐ、と奥歯に力を込め、僕は前を睨んだ。
二十一世紀最初の春、僕はそんなふうにして出奔した。単なる家出がこんな大事になったのは、約百年前、曽祖父が養子に出されたせいである。
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