ベイサイド
腥田をにゆり
エレサ氏とベイサイドのラウンジで話していると、彼女が息子のリックが今年の五月に大学を卒業したことを話した。リックは元々高校時代に麻薬中毒で、軽犯罪を繰り返しては親としての彼女をずいぶん悩ませていたが、ある日の自動車事故で友人が死に、リックだけが現場で生き残った。この出来事がきっかけで、彼は退院後、かつて一緒に遊んでいた連中から離れ、弁護士事務所を構える父親を見習って勉強に励んだ。本来ならリックも夫のジェイクと同じ弁護士の道を選ぶのではないかとエレサ氏は予想していたが、リックはジェイクと違い、ロマンチストの一面があったから、比較神話学を論文テーマにする学院に入ったという。それが宗教学なのか考古学なのか、エレサ氏にもよく分からなかった。
そういう経緯で、リックは風変わりなアンティーク——少数民族の工芸品、石版、中国の痰壺——をかき集めたり、バーやインターネットの掲示板、マッチングアプリといったルートで不思議な話や海外の都市伝説を聞き集めたりして、一緒に夕食を食べた後などに、そうした「戦利品」を彼女に披露するのだった。
「しかし、リックはやりたいことを見つけて良かったのね」とわたしが感心して、彼が麻薬をやめたことについて言うと、
「ええ、本当によく頑張ったのよ。卒業式の後にお祝いで、ジェイクと三人でモニュメントバレーのザ・ビュー・ホテルに二、三日泊まって、その近くの人気のステーキハウスで食べた葬式ポテトは本当に忘れられなかったの」
と言って、わたしが改めて「なぜユタ州なのか」と彼女に聞くと、
「ジェイクはジョン・ウェインのカウボーイ映画を観るのが昔から大好きなの。わたしはあの男たちがジョン・ウェインのどこに惹かれたのか分からなかったけれど、自分はユタ州の壮大な自然の中で写真を撮るのを楽しんでいたのよ」といった。
わたしも昔からよくジョン・ウェインの映画を父親と一緒に観ていたが、ジョン・ウェインの強さは映画の中の強さであって、ああいう強さは日常生活の中では——あらゆることを制御できない男にとっては一種の憧れとして映るのではないか、とふとそんな考えが頭をよぎった。人間は常に隙のないかっこよさを維持することはできない。だからこそ、ジョン・ウェインの力強さ、すべての敵を片付けるようなヒーロー像に憧れるのだろう。
「はは、それは言えてるのよ」
とエレサ氏が笑って、クリームの付いたスコーンを一口齧った。
「男って本当に格好つけたがるのよね。ジェイクも、最初に出会った頃——」
彼女はまた紅茶を足して、あとは夫との昔のデートの話や愚痴を延々と話し出した。
「きっと、彼はあなたのジョン・ウェインになりたかったのだろうね……」
「それはあり得ないわ。だって女はよく人を見てるもの。よく見てるからこそ誤魔化せないし、人間なんて誰しもダメなところがあるんだから、そういうのを見せてもいいんだと思うの」
「じゃあ、今の夫を選んで後悔しなかったのか?」
「後悔? 全くないわ。尊敬するほどでもないけれど、わたしの人生の半分以上は彼と一緒に過ごしたのよ。たしかに喧嘩はたまにするけど、わたしは自分で選んだ人生に後悔なんてしないわ」
「なんか、後悔しないあなたのほうがジョン・ウェインのようだ」
と、聞いていてとても感心した。それでエレサ氏がわたしの言葉に少し照れてしまって、
「やだわ。そう思っただけよ」と手を振りながら否定した。
今日の会食は、神父の紹介で、裁縫が好きという共通点があり、実際に裁縫界隈でもそこそこ認知度の高いエレサ氏と知り合えたのがきっかけだった。数回裁縫について情報を交換するうち、彼女の世界観や考え方に共感することが多かったので、わたしからベイサイドのこのラウンジでアフタヌーンティーをしてみないかと誘った。意外にも彼女はわたしのことを覚えていて、すぐに提案に応じてくれた。
それで、わたしの夫にも昔麻薬中毒だった過去があって、彼女が息子の話をした途端にどこか通じ合えるような不思議な感覚を覚えた。そのまま彼女に自分の感覚を話したら、
「わたしもなぜかあなたとは仲良くなれる予感がしたのよ」と言ってくれた。
その日の帰りは普段より遅くなったので、在宅で仕事をしている夫から連絡がきて、
「家にパスタあるけど、カルボナーラかアラビアータのどっちがいい? あと、仕事のことが上手く行ったから今晩ピノ・ノワールを開けようか?」
と言って、わたしは今の生活に満足していることに気づいた。彼にそのまま感謝を伝えると、
「君らしくないね。ささっとどっちが食べたいか言ってくれる?」
その後、家に帰ると彼はすでに食卓を整えていて、いつも愛用するラ・ロシェールのグラスのペアを揃え、ジノリ1735の陶磁器や旅行で買った日本製のカトラリーを食卓にきれいに並べていた。ペコリーノ・ロマーノとグアンチャーレの香りが程よく絡み合い、いつでも食卓に出せるように整っている。
彼はまず冷蔵庫からピノ・ノワールを取り出し、コルクをソムリエナイフで手際よく抜き取った。グラスに注ぐときは液体が空気といい感じに絡み合うよう、細心の注意で手の動きを調整し——やがてほどよい深紅色がそれぞれのグラスに映り込んだ頃、
「ベイサイドはどうだった?」と彼に聞かれた。
「エレサ氏はやっぱり素敵な人ね! 彼女の息子は——」
と、彼からグラスを受け取ってチアーズした。その明るい音がまだ消え去らないうちに、わたしたちはほとんど同じタイミングで最初の一口をつけた。喉に流れ込んだ途端、ピノ・ノワール特有のしなやかさはまさにエレサ氏のようだった。そして彼がグラスをテーブルに置き、カルボナーラの入ったボウルを取ってきてトングで取り分けた。
「そんなことがあったのか」
「そうそう。だから彼女とは仲良くなれる予感がするんだ」
「彼女の息子——リックは今となっては麻薬のことについてどう思うのかな」
「あの事故で、死に直面したことがやめた理由だと思うから、やはり恐怖から二度としなくなったのではないかな?」
と言うと、彼が急に嫌な顔をした。彼のトラウマを踏んでしまっただろうかと心配になり、この場にふさわしい言葉はないかと考えていると、
「麻薬については、確かにいろいろと大変だったが、しかし恐怖を感じることは一度もなく、今だって——」
「あなた……」
「いや、何でもないんだ。ただ、自分なら大丈夫だと思ったんだ」
「大丈夫って?」
「つまり、全然怖くなかった。何に対しても怖くないからこそ、はまってしまったと思う。いや、言葉にするのは難しいが、えっと、やっぱりわからないんだ。——勇気は常に持つべきだと言われるから、私はそれを捨てきれなかった。だって、勇気は試さなければ知り得ないから」
メモリアルデーが終わって一ヶ月後、またエレサ氏と同じラウンジで一緒に過ごすことになった。彼女は相変わらず落ち着いた紺色のドレスを着ていて、今回はネックレスを元々のパールからマルチカラーサファイアに変えていた。どうやら、彼女は日々の気分に合わせてネックレスを付け替えるらしい。
時期なのか、アジア人の観光客が増えていた。わたしの父は確かにカウボーイ映画が好きだったが、ラコタ族が言う「ミタクエ・オヤシン」(われらはみな同胞)という言葉をとても大切にしていた。それで、彼はビジネスで知り合った日本人の大津氏とも良好な関係を保っていたし、昔はうちで一緒にバーベキューをしたものだ。大津氏のことは今では顔もあまり覚えていないが、ただ、彼ほど影絵遊びが上手い大人の男は他にいなかった。あんなに生真面目で押しの強いイギリス訛りなのに(のちに知ったが、日本人であんなアクセントの持ち主は彼だけだった)、あの両手は影に命を吹き込むかのように魔法めいていた。そういえば、彼はいつもハンカチを持っていて、とてもスマートだった。
ラウンジで行き交う人々を眺めながら、大津氏についてわたしが知る限りのことを話すと、エレサ氏は興味深く聞きながら、ときどき頷いた。それから彼女はやっとの思いで、最近抱えたある出来事について打ち明けた。
「実はリックが——」
「日本に?」
「いきなりのことで、本当はクイーンズにいてほしかったんだけど、でも彼の決定を尊重するしかなかったの」
「リックはよくこんな大きな決断ができたね。海外で暮らすのは難しいと思うよ」
「本当にそうなのよ!」
エレサ氏が珍しく苦しげな顔をして、よほどリックのことを心配しているように見えた。しかし、なぜ彼はこんな決断をしたのか。わたしは不思議とリックの行動に強い関心を抱き始めた。
「リックはちょうどメモリアルデーの頃、一人で日本に観光しに行ったの。彼はいつも突発的に旅行を計画する性格だから、富士山を登りたいと前から話していたこともあったし、この旅については本来は——」
そしてリックは日本に滞在した一週間のあいだ、かなりの量の旅行写真を彼女に送ってきた。話しながらエレサ氏が痩せた人差し指でスライドし続けて見せた。
リックの顔を見るのは初めてだったが、特に瞳の色と髪質が母親のエレサ氏の遺伝をそのまま受け継いでいて、典型的なジャーマンかオランダ移民らしい顔立ちをしていた。鼻筋と顎がシャープで、眼はカメラよりもやや下に視線を向けているように感じる。どこか神経が細いというか——ガラス細工を思わせるもの寂しさがあった。さっき、エレサ氏が彼はロマンチストと言ったが、まさに昔の詩集に出てくるような詩人の顔つきをしている。
特に印象的な写真は、彼が三人の日本人と一緒に座り、ジョッキを高く掲げた一枚だった。日本の飲食店で撮った写真で、エレサ氏に聞くと、どうやら泊まったホテルで偶然仲良くなった人たちだそうだ。
「日本のチアーズってカンパ! と彼が話したのよ」
彼女はスマホの写真一枚一枚を宝物のように見つめながら、
「しかし、その後、とあることが起きたの」
「とあること?」
「ええ、最初に聞いたとき、わたしはどうも信じられなかった。彼はヨコハマの港で、自殺しようとしている青年を救ったの」
「それはいいことをしたね」
「ええ、ただ……」
エレサ氏の顔色がより暗くなっていって、しばらく黙った。彼女がティーカップを覗き込むと、中はすでに底まで乾いていた。わたしが代わりにティーポットを取って注ごうとすると、彼女は「ああ、いつもありがとう」と言った。声が掠れていて、さっきまでのような光彩が褪せていた。
「あの青年が理由だった」
「あの青年が?」
「ええ。わたしも最初、話を聞いたときは信じなかったけれど、どうやら実際に起きたことだった。そして、リックは青年と一緒に記念写真を撮ったの」
とエレサ氏が再びスマホを持ち上げ、あの青年の姿をわたしに見せた。なんとリックと瓜二つで、実際に会ったら双子かと思えるほど——いや、同じ人物かと思えるほど、そのものだった。写真の中、青年は今のリックほど落ち着いた感じではなく、髪を伸ばしてヒッピーのような風貌があった。かなりの奇遇だと思った。
「変な話だけど、リックはどうしても青年の名前も、なぜ海に飛び込もうとした理由も教えてくれなかったの」
「しかし、それでも彼の決定を応援するのね」
「ええ、もちろん彼を応援するのよ。それは彼の人生だもの、勇気があっていいと思ってるの。けれど、自分と同じ顔、同じ身体、同じ声の人と出会った途端に——それがまさに彼が関心を寄せる民俗学とぴったり噛み合ったかのように、すぐに移住のきっかけになったの。ヨコハマの港で見かけたあの青年が、ちょうど海に入ろうとしたところを、リックがその腕を掴んで、ぎりぎり間に合って引っ張り上げたのよ。青年の顔を見た瞬間に驚いたのは、彼の顔がシェルショックのような、ひどく緊張した面持ちだったの。それでリックが彼を連れて病院まで行こうとしたら——鳥居の前を横切ったとき、なぜか彼を見失ってしまった。リックは、それが日本人が言う生霊という現象だった。それは、ドッペルゲンガーのようなものだと思うの」
「わたしは思うんだけど、これって本当の話なのかしら? だって彼は今も勇気を持ち続けているのよ。麻薬もやめたし、いい人生を送ろうとして海外へ移住する強い意志もある。ただ、彼は勇気についてどう思っているのかしら?」
わたしが動揺するエレサ氏の両手を優しく掴むと、やがて彼女の瞳が微かな光を湛えていて、今にも涙が頬を伝いそうだった。
彼女は何も言わなかった。そしてラウンジのガラス張りの窓を覗くと、そこは曇っていて何も映らなかった。鴎の姿すらなく、太陽が隠れているせいで、ベイサイドは一種の白橡色に包まれていた。
しばらく黙った彼女が最後のひと言を口にした。そのひと言を思い出すのは、あの日が終わる頃、ちょうど家に帰る途中に夫から電話が来たときだった。
「このことについて、男というものは、女には永遠に理解し得ない気がするの。彼らは、常に海の外に行きたがる……。そして、わたしたち女は勇気を持とうとしても、彼らがいつかここに帰ってくるのをただ信じて、待つ勇気だけだもの」
当時、話が終わったエレサ氏は、やっと内に溜めていたものを押し出したように、そのままラウンジで泣き崩れた。
しかし、あのガラス張りの外には白橡色のベイサイドだけが映り込んでいて、相変わらず波一つ立たないまま、ただのどかに凪いでいた。
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