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夏越しの鐘

合評会2026年9月応募作品

腥田をにゆり

熊本が一日も早く復興するようにという気持ちを込めて。内容が長くなってしまいましたが、申し訳ありません。お盆にしてはちょうどいい五つの怪談話です。

タグ: #ホラー #合評会2026年9月

小説

10,324文字

夏越しの鐘

腥田をにゆり

阿蘇山が噴火したことが最近都内でも話題になっていて、仕事中、同僚からよく心配された。昔の学校の避難訓練は、どうも他県とは違っていたらしい。自分の小学校では防災頭巾が配られていた。昔のアニメ『火垂るの墓』で節子が被っていたものと同じだ。それを同僚のHさんに話すと、「なんだか非科学的だね」と笑われた。彼女によれば、防災頭巾よりもヘルメットのほうが良いし、「火の粉や毒ガスは頭巾くらいじゃ防げない」という。確かにそうかもしれないが、ヘルメットを日常的に持ち歩くのは難しい。阿蘇山がいつ、どのような規模で噴火するかなんて誰にもわからないのだから、一人一個ヘルメットを常備することのほうが、よほど非科学的な気がする。それに、東京の人たちは、火山の噴火など自分には絶対に起こり得ない災厄であるかのように、ひどく傍観者的な視点で語る。だが、現に都内へ引っ越してきた身からすれば、僕は富士山のほうがよほど恐ろしい。

今年のお盆は、人吉に住む兄一家に会うついでに、三、四ヶ月前にできたばかりの復興の鐘を見に行くつもりだった。兄夫婦は相変わらずの手厚いもてなしで迎えてくれた。
「東京で頑張るのも大変だろう」

兄は火のように燃える鮮やかな色のポンカンを僕に手渡し、ふかふかしたレザーソファーに腰を下ろした。熊本に帰ってくると、この家のエアコンはやけに冷たく感じる。電気代が東京より安いせいか、彼らはあまりお金のことを気にせず、設定温度を二十一度くらいにしている。とはいえ、「電気代は大丈夫か」などと野暮なことを言える空気でもなかった。やはり東京にいる自分のほうが、精神的な余裕がないのかもしれない。そういう焦りを薄々自覚しつつも、彼らには悟られたくなかった。僕はなぜ、東京の職場では訛りがバレないように必死になるくせに、地元に帰ってくればきたで、今度は自分が上手くやっているように格好をつけてしまうのだろう。まるで自分が、どちらの世界にも属していないような気がした。
「どう? うまいだろ? 宇土の知り合いから一箱もらった不知火だよ」
「不知火……」
「相変わらず自己開示が下手な弟だな――」

急に立ち上がった兄は、背後へとぐるっと回り込み、僕の両肩に優しく手を置いた。

それを見た義姉も、口元を隠しながら「ふふふ」と笑った。指の隙間から、その微笑みが透けて見えた。
「なんだか、爺さんのことを思い出したな」
「ん? どうして急に」

僕は不知火を手に持ったまま彼の反応を待ったが、兄はどうもしっくりこない様子だった。
「爺さんがさ、夏になるとなにかと怪談話をしてただろ。それこそ、不知火の話とか」
「ああ……。はいはい、不知火の話ね。覚えてるよ」
「不知火の話?」

義姉が不意に身を乗り出し、リビングの空気が一気に変わった。エアコンの風は相変わらず、夏にしてはあまりにひんやりとしていた。しかし、僕がかつて爺さんから聞いた五つの怪談を語り始めた頃には、その冷気は別の何かが発する奇怪な、月光にも似た青白い妖気のように感じられた。爺さんの声帯が僕の喉を借りて再生され始め、皆の肌に粟を生じさせる梵鐘の響きのような、無常の気配が立ち昇っていた。

 

その一、不知火

僕たち一族はとうの昔から細川家に仕える熊本藩の藩士で、勿論ご先祖はあの西南戦争にも参加している。秩禄処分以来、明治政府に対する不満から各地で反乱が起こり、佐賀、秋月、萩の各地と呼応して西郷どんは反政府軍を立ち上げた。「新政厚徳」を旗印に掲げ、春先のまだ冷たい雨の中で両勢力は衝突し、田原坂や吉次峠で決死の激戦を繰り広げた。

新政府軍の新式武器に対し、侍の誇りゆえか、薩摩の藩士たちは恐ろしい殺人剣である示現流を用いた。当時の銃の引き金を引くのと変わらぬ速さで、「ちぇすとー」という一喝とともに初太刀を浴びせるのだ。それはまるで、蝉が一週間をかけて己の生を燃やし尽くすのにも似て、両の手に死の火花を集中させ、新政府軍の柔らかい西洋帽子ごと全身全霊で叩き割る。すると途端に、人間の頭は紙張りの灯籠のように無惨に千切れ飛び、生の蝋燭はあまりの速さに吹き消されたことすら忘れてしまう。あの戦争に参加した、爺さんの爺さんにあたる猶之助という人物は、頭を二つに裂かれながらも、なお生き残ろうと喘鳴する新政府軍の兵士を見たという。

猶之助は西郷どんの自決後、鳩野先生の証言によって罪を免れ、以来、地元で医療助手のような、今でいうボランティアの活動をずっと続けていた。

僕が不知火の伝説を知ったのは、実は爺さんから聞いたのが初めてではない。地元では球磨の河童と並ぶくらい有名な話だったからだ。要約するとこうだ。昔、景行天皇が船で九州へ上陸しようとした際、突然の暗闇が周囲を覆い尽くした。いかに経験豊富な船頭であっても方角を見失い、どう着岸すべきか迷っていたその時、遠くにふと火の光が現れた。「あそこに民家の明かりが見える。岸はきっとあそこだ」と天皇は仰ったが、船頭はどうも納得のいかない様子だった。それでも天皇の指示に従い、火の見える方へと船を進めた。

幸いにも無事に岸へたどり着くことができ、天皇が村の者に「さっきの光はどの家から発せられたものか」と尋ねると、村人は「あんな遠くから見えるような火は、この村にはございません」と答えた。この経緯から、八代海や有明海に時折現れる怪火の現象を、人々は景行天皇の命名に従って「不知火」と呼ぶようになった。

実はこの怪火は千灯籠とも呼ばれている。だから僕は、不知火という言葉を聞くたびに、あの「ちぇすとー」の掛け声とともに頭を真っ二つに裂かれた新政府軍の兵士の光景を、どうしても想像してしまうのだ。

ハーン(爺さんは小泉八雲のことをいつもそう呼んでいた)は一時期、熊本の中央区に暮らし、三年ほど英語の教師をしていた。まだ幼かった爺さんは、運良く彼本人を見たことがあるという。熊本城は本来、加藤清正が山伏を招いて共に築いた城であるためか、爺さんはいつも「ハーンは山伏みたいな白人さんだったよ」と語っていた。しかし、僕が後になって調べてみると、ハーンが熊本に移住していた三年間、爺さんはまだ生まれてさえいないはずなのだ。

おかしなことに、ハーンはその三年間より前に、かつて地元にあった不知火館という旅館に一時期滞在していたという記録がある。

もし今でもそんな旅館があったとしたら、僕はきっと西南戦争の無念の亡霊を見てしまいそうで、泊まりに行く気になどなれないだろう。

 

その二、五百羅漢

金峰山の山麓にある洞窟、霊巌洞。うっそうと茂る樹木におおわれ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像が安置されている。この曹洞宗のお寺は、九州西国三十三観音第十四番霊場としても知られているが、岩戸観音の歴史は寺の建立よりも古い。言い伝えによれば、異国から観音像を運んでいる最中に船が転覆したものの、観音像だけは一枚の板に乗って流れ着き、この霊巌洞に安置されたのだという。

雲巌禅寺から霊巌洞に至る、岩山を削った細道には五百羅漢が安置されている。この五百羅漢は、今から約二百年前、熊本の商人であった渕田屋儀平が二十四年の歳月をかけて奉納したものだと言われている。座る姿も表情も異なる石仏が岩山にずらりと並ぶ様は、雨の染みも相まって、神聖というよりはどこか不気味に見える。

僕は元来、寺や神社にはさして関心がないどころか、祭りや夏越の祓でもない限り、わざわざ賽銭を投げるような信心深い人間ではない。あるいは、爺さんから怖い話を聞きすぎたせいで、そういう特殊な場所には無意識に近づかないようにしているのかもしれない。

この寺で最も有名な伝説は、大剣豪・宮本武蔵が霊巌洞にこもり、『五輪書』を書き上げたというものだ。「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」という有名な言葉も武蔵のものだが、僕はこの精神にひどく共感する。彼の事績を聞くにつけ、武蔵という男は現代人のような徹底した合理主義者だったのではないかと思えてならないのだ。歌川国芳の浮世絵に、木曽街道の籠渡しに乗った宮本武蔵が野衾という妖怪と闘う場面を描いたものがある。彼にとって相手が人間であろうと、妖怪や幽霊であろうと関係なかったに違いない。すべては斬り捨てるべき一つの迷いか、乗り越えるべき試練に過ぎず、ただ刀を抜き、ずばりと解決していくのみだったのだろう。

野衾とは蝙蝠のような形をした妖怪で、のちに山地乳という人間に似た姿へと成長するという。どこかヨーロッパの吸血鬼を思わせる存在だ。しかしよくよく考えてみれば、山地乳も吸血鬼も、蝙蝠に噛まれて狂犬病にかかり、精神錯乱を起こしただけの病人だったのかもしれない。その錯乱による奇行が妖怪伝説にまで膨れ上がったのだとすれば、合理主義の剣豪は当然のこととして、これまで通り目の前にいる狂人を斬り捨てるだけであり、そこに何の迷いも生じなかったはずだ。

ただし、宮本武蔵が霊巌洞で修練に励んだ頃、あの五百羅漢はまだ奉納されていなかったはずなのだ。それなのに、洞窟にこもる武蔵の背中を、既に五百の羅漢たちの視線がいっせいに睨みつけていたような情景を、僕は度々勘違いのように幻視してしまうのである。

 

その三、ルサールカ

人吉駅から徒歩数分の距離に、爺さんから引き継いだ古い屋敷がある。そのすぐ隣も同じ敷地の一部で、両親が大阪へ引っ越した後に実家だった一軒家を建て直し、今は兄夫婦が二人で住んでいる。そこから青井さん(青井阿蘇神社のことだ)を経由して球磨川を渡ると、永国寺がある。西南戦争の終盤、西郷軍の敗北とともに寺そのものも焼失してしまったが、のちに再建された。寺内にある幽霊の掛け軸は、現在でも時折都市伝説のYouTubeチャンネルなどで紹介され、すっかり人気の観光スポットになっている。

問題の掛け軸を描いたのは開山である実底超真和尚だが、一説によるとこういう経緯がある。ある日、寺の敷地内にある池から、五官が判別できないほどに水膨れした女性の霊が現れるようになった。人々はそれに怯え、次第に寺へ寄り付かなくなっていった。幽霊の噂に悩まされた和尚は、なんとかその霊を説得し、恨みの仔細を聞き出して済度しようと考えた。
「そなたはなぜ、そこまでして自らの魂を縛り付けるのか」

ある寅の刻、女性の霊と対峙した和尚はそう尋ねた。
「私の惚れたお方は、妻のある身でございました。私は悩みに悩み抜き、いっそ死んでしまうのが誰にとっても一番良いことなのだと思い詰めました。ですが……この池は、いささか浅すぎたようでございます」
「そなたはあの男のためにこの池へ身を投げ、今となってはそれが正しかったのかどうかで再び迷い、この寺に執着しておる。古えの道元禅師の悟りの世界においては、地獄も極楽も区別などない。只管打坐すればやがて煩悩も消え去り、皆ひとしく虚無へと還るのだ」
「そのような御説教はやめていただきとうございます。あなた様には、恋愛というものがお分かりにならない。所詮は、和尚様に過ぎませんゆえ」

女性の霊はその後も連日池のほとりを徘徊し、時には若い男を池へ引きずり込もうとしたり、女性の夢の中に侵入したりと、寺にとって不利益なことばかりを働き続けた。業を煮やした和尚は、やがて自ら幽霊の画を描き、それを池の近くに掛けた。それが今に残るあの掛け軸である。
「私は、このような恐ろしい顔をしておりましたか……」

水に溺れ醜く変わり果てた己の姿にショックを受けた霊は、それ以来、男に対しても寺に対しても執着を断ち切ったという。ところが、爺さんによれば、この話にはまだ続きがあるらしい。

中央区の北に筒口という淵があった。そしてその辺かつては田崎村という村があり、そこにとある仲の良い夫婦が住んでいた。しかし妻はひどく嫉妬深い気性で、夫の妾である女に激しく嫉妬し、思い余ってその深い淵へと身を投げてしまった。

江戸時代の熊本城下では、日照りが続くと旱魃を恐れた地域の人々が総出で雨乞いの練り物を毎年のように行っていた。熊本博物館に所蔵されている『鐘巻雨乞全略図』という絵巻にも、その壮大な行列が描かれている。横手手水の旗、横手ののぼり、作り物、大太鼓を先頭に、御寺領、戸坂、春日、久末、阿弥陀寺、田崎、八島、宮寺、二本木、蓮台寺、新土河原、権藤、鳶、鳶新、荒尾土河原、十三、今、推田、刈草、池端、上白石、大保、白石、無田口、浜口、正保の順に、二十八の村がのぼりと作り物の山車と大太鼓の行列を成している。

ちなみにその絵の中では、浜口村の行列だけが、異様に巨大な男の陰茎を模した出し物を運んでいる様がありのままに描かれている。浜口村の神事では神主がそれを牽き、雨乞いの時期になると巫女と村人たちとの間で乱交が行われたらしい。そうやって性のエネルギーを解放させることで、男も女も、淵へ身を投げるような悲劇を繰り返すことがなくなったのだという。

この一連の話を聞いて、僕は改めて恋愛というものについて色々と考えてしまった。きっと、女という生き物は総じて愛情が深すぎるのだ。好きな男は独占しなければならないと思い込み、永国寺の池の女も、筒口の淵の女も、そうやって恋に焦がれた挙句、最後は自ら死を選ぶしかなかったのだろう。対して男は、恋愛についていささか違った認識を持っている。彼らはどんな状況に陥ろうと決して自分が悪いなどとは思わないし、ましてや女のために自殺を選ぶような真似はしない。
「この女が俺を選ばないのは、見る目がないからだ」

と平然と言ってのける。だから、死んだ後も悩みに悩み抜き、池から化けて出た時すら自分を責め続けていたあの女性は、おそらく元々自己を否定しがちな人間だったのだろう。だからこそ、その本質を見抜いていた和尚は、あえて「男らしい意地悪さ」を以て、彼女の醜い姿を描いてみせたのだ。

 

その四、櫨

金峰山のすぐ近く、西区にある花園小学校の校内には、有名な手水鉢がある。かつて大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちが切腹するまでの間、細川家の屋敷でお預かりとなり、最期に手を清めるために使ったとされる代物だ。

元禄十四年、赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城内にて、何らかの遺恨から高家である吉良上野介を脇差で斬りつけ、重傷を負わせた。事件当時は折しも幕府が朝廷からの使者を接待している真っ最中であった。場所柄もわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹。浅野家は所領の播州赤穂を没収のうえ改易となったが、一方の吉良には何のお咎めもなかった。

不服とした赤穂の藩士たちは翌年、主君の遺恨を晴らすべく警戒の厳しい吉良邸へ討ち入った。参加した四十七名(うち一名の寺坂吉右衛門は途中で離脱)の藩士は見事に吉良の殺害を成功させた。これが日本史の教科書にも載っている赤穂事件の全貌だが、ここで言う「改易」とは、要するに藩のトップの血脈が断たれるということであり、藩の庇護下にあった藩士やその家族は全員居場所を失い、侍から浪人へと身をやつして生きていく運命を背負わされることを意味する。

事件後、捕らえられた四十六名の浪人の処分はひとまず保留となり、四つの大名家の江戸屋敷に分けて預けられた。うち、大石内蔵助ら十七名が肥後細川家へとお預かりになった。当時、接待役であった堀内伝右衛門の下で働いていた僕の先祖は、運良く彼らを最期まで見送ることになったのだ。その詳細が記された手記は今も爺さんが残した蔵に眠っており、確認したければいつでも読める状態にある。

先祖の手記によれば、堀内という人物はたいへんな人情家で、義士たちに対して深く同情していたという。彼らが細川家の屋敷に送られてきてからは至れり尽くせりの厚遇ぶりで、あまりの豪華さに首謀者の大石でさえ申し訳なく感じてしまったほどだった。
「我々は粗食に慣れております。飯は玄米とイワシでじゅうぶんですから」

と大石が遠慮しても、堀内はそれを聞き流し、毎晩のように美味な食事と酒を振る舞った。ちなみに爺さんは、堀内が本当に浪人たちへ尊敬の念を抱いていたからこそそこまでしたのか、甚だ疑問に思っていた。下戸の義士が酒はいらないと断っても毎晩膳に酒をつけたり、いざ切腹の上意が下った当日には彼らを放置してさっさと帰宅してしまったりと、とにかく間抜けな行動が多かったからだ。

堀内が義士たちと馴れ馴れしくしすぎたせいで、細川家の家老から注意されるほどだったという。『元禄快挙録』にはまたこのような逸話がある。堀内は皆の寝床に屏風をしつらえる配慮を見せたが、義士の一人である富森助右衛門の屏風には鶏の親子の絵が描かれており、彼は自分の二歳の子供を思い出して泣き崩れてしまった。すると堀内は、この富森の子供や母親の元へ慰問に出かけ、「きっとご赦免になりますよ」などと声をかけて回ったという。

そしていよいよ切腹の処分が決まったあの晩。堀内とともに呼ばれた先祖が、義士たちの設けた宴席の部屋へ赴くと、そこには年下組の義士三人が待っていた。彼らの顔にはまだあどけなさが残り、どうにもこれから死にゆく人間とは思えないほどだったという。彼らは宴のあいだ大声で歌い、宴会芸を披露し、やがて大石をはじめとする他の義士も座敷に揃うと、大石は代表として、この五十日間の厚遇に対して頭を下げて深く感謝した。大石は当時千五百石の身分であったから、所詮一介の足軽に過ぎない先祖はその振る舞いにひどく驚いたという。また大石は、最期の最期でどうしても恩返しがしたかったらしく、当時財政が困窮していた肥後藩のために、薩摩で習い覚えた櫨の栽培法と精蝋の技術を細川家に伝授したとされている。

熊本城下では、迎町の御船口から分岐する御船街道が上島から御船まで堤防上を通っており、そこには見事な櫨並木があった。当時、日向往還の両側にあった櫨の木は、大石らが切腹した後に細川家の人間が植えたとされているが、残念ながら昭和の頃に河川改修のため伐採されてしまった。そういえば、子供の頃に一度どこかで櫨ちぎりを体験したが、初めて櫨の実を見た時、あの密集した造形がどうにも気味が悪かった。なにより、櫨負けして手が真っ赤になり、ヒリヒリと痛んだ。これらの実は後から精製し、機械に入れて絞るとねっとりとした木蝋になるのだが、元々蝋分が含まれる実を強くこすると、わずかにしっとりとした、あるいは脂っぽい感触がするのだ。

話を元禄十五年の切腹の場面に戻す。最初に切腹の座に就いたのは大石内蔵助だった。しかし介錯は失敗し、すぐには首を落とせなかった。これほどの大事件の首謀者を前にして、介錯を担当した安場一平も極度の緊張に苛まれていたのだろう。一太刀目が浅く外れても、大石という男は噂に違わぬ立派な侍であった。微塵も苦痛を顔に出さず、正座した姿勢をまったく崩さなかった。挽回を期した二太刀目は正確に同じ箇所を捉えたものの、飛び散った血が目に入ったせいで刃の勢いが弱まり、大石も流石に力尽きて、腹を真一文字に割った脇差をぽろりと膝に落とした。このあまりの失態に、検視役の久永内記も見るに耐えかね、他の藩士を呼んで代わらせようとしたが、その直前、三太刀目でようやく首が落ちた。

その後、御役者間に控えていた吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五右衛門、間瀬久太夫、小野寺十内、間喜兵衛、礒貝十郎左衛門、堀部弥兵衛、富森助右衛門、潮田又之丞、早水藤左衛門、近松勘六、赤埴源蔵、奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、大石瀬左衛門が、順番に切腹の座に上がった。最初の失敗こそあったものの、それ以降はことごとく一太刀で滞りなく仕留められ、皆は死の際に苦痛で本性を表すような瞬間も見せず、次々と幕府の検使役二名に確認され、生首は丁重に泉岳寺へと引き渡される手はずとなった。

花園小学校の校内にあるあの有名な手水鉢は、切腹が行われた日、御役者間のすぐ近くに置かれていた。それはお預かりの間、赤穂義士たちがずっと使ってきたものだったので、大石らにとっては特別な思い入れがあっただろう。ちなみに、吉良を殺害した直後にも、この手水鉢で彼の生首を洗っている。

十七人全員の首を落とし終えた安場一平は、役目を終えた後、血塗られた刀と手を清めるためにあの手水鉢を使った。だが、どうも水がねばねばとしている。安場は傍らにいた僕の先祖と、こんな会話を交わしたらしい。
「この水は綺麗じゃないな」
「大石殿御一行が使われた水が汚いと仰るのですか」
「いや、そういうつもりではないが。覗いてご覧」

手水鉢の水面には、安場の顔が映っていなかった。先祖は汚れでも浮いているのかと思い、手を出して水を掬い上げてみたが、手は普通に映っていた。
「なんて奇妙な」

その後、細川家の家臣である藤本津志馬が手水鉢を引き受けたが、なぜかすぐに同藩内の別の藩士へ譲り渡してしまった。義士が使った手水鉢はその後もゴロゴロと持ち主を変え、結局大正四年に当時の花園村へ寄贈され、花園小学校の敷地内に移されたと伝えられている。

僕なりに、この怪異の原因を合理的に考えてみたことがある。もし大石が切腹の直前に、櫨の実を蝋にする技術を細川家の人間に実演して見せたのだとすれば、手に付着した蝋分を落とすためにあの手水鉢を使ったはずだ。水面に浮いた蝋の油膜のせいで、光の反射が阻害されたというなら、十分にあり得る話である。

ところが爺さんの話はそうではなかった。あの手水鉢に向かって、「吉良家は改易と決まりましたぞ」と声をかけると、鉢の内壁から、まるで笑い声のような谺が返ってくるのだという。

そんなことを言われても、小学校の児童たちが改易なんて言葉を知るわけもないし、今となってはわざわざ検証のために学校へ忍び込む気にもなれないので、これが真実かどうかは知る由もない。

 

その五、五木の子守唄

地元にいる五十代以上の人間なら、誰でも『五木の子守唄』を歌える。だが、人によって微妙に歌詞が違っていた。爺さんから聞いたバージョンはこうだった。

おどまいやいや

泣く子の守りにゃ

泣くといわれて憎まれる

泣くといわれて憎まれる

ねんねした子の

かわいさむぞさ

起きて泣く子の面憎さ

起きて泣く子の面憎さ

ねんねいっぺんゆうて

眠らぬ奴は

頭たたいて尻ねずむ

頭たたいて尻ねずむ

おどんがお父つぁんな

あん山ゃおらす

おらすともえば行こごたる

おらすともえば行こごたる

広く普及している説によれば、これは裕福な家へ子守奉公に出された少女たちが、自らの恵まれない境遇や労働の辛さを慰めるために作った歌だという。だが、子守唄というのは本来、赤子を寝かしつけるためのものである。そう考えると、どうにもこの歌詞は異様だ。

戦前から、若い少女を雇って赤ん坊の世話をさせる子守奉公の歴史はあったが、果たしてこんなおどろおどろしい歌を作って歌い広めるような子守を、雇い主はどう思っていたのだろう。そもそも、可愛い我が子を見ず知らずの貧しい家の子供に丸投げする親の神経が、僕には理解できない。
「お前なら、こんな恐ろしい歌を作る子供に、自分の赤ん坊を託せるか?」

爺さんは不気味な笑みを浮かべ、まだ中学生くらいだった僕にそう尋ねた。流石に当時の僕も、「そんなの虐待じゃないか」と強く反発したのを覚えている。

すると、爺さんはまた別の話を語り始めた。相変わらずどこの誰から聞いた話なのかは明かさなかったが、昔の五木村に、ある豊かな家があったという。当時の五木村といえば、ようやく郵便局ができたばかりの時代で、谷間に位置するため交通も極めて不便だった。それなのに、その家の夫婦は常にハイカラな洋服を着ていたという。

夫のほうは櫛職人を名乗っていたが、実際に仕事をしている様子を見た者は誰もいなかった。いつも優雅に妻を連れ、村の中を散歩してばかりいた。ちなみに櫛という字は「苦死」に通じるため、昔の人は縁起が悪いとひどく忌み嫌っていた。「もし道端で櫛を見つけても、絶対に拾っては駄目だ」と爺さんからよく教わったものだ。

当時はまだ合成樹脂などないから、一般的に櫛といえば木材か獣の骨で作る。しかし、この夫婦の家には木材を保管しておく蔵もなく、当然、自ら獣を狩りに山へ入るような真似もしなかった。

彼らはあちこちの村から子守奉公の少女を募集していた。奉公から戻った少女たちはみな口を揃えて、「あの家には赤ん坊が何十人もいた」と証言した。ところが、数年が経っても、その夫婦が自分の子供たちと一緒に外を歩いている姿を見た者は、ただの一人もいなかったのである。
「本当に見たの! 地下室に、赤ん坊がいっぱいいたんだから!」

奉公に出た少女がそう親に訴えても、
「嘘をつくな! 赤ん坊が何十人もいるわけがないだろう!」

と一蹴された。子供の悪質な作り話だと思われ、彼女たちはひどく叱り飛ばされたという。

それからもう少し年月が経ち、五木村の頭地地区に初めて巡査駐在所が設立された。赴任してきた巡査は西南戦争を経験した新政府軍の出身で、かなり厳格な男だったため、村の治安は一気に良くなった。

ところが、その巡査が赴任して数週間後、あの夫婦は突然、佐賀の厘外という場所へ逃げるように引っ越してしまった。

佐賀の厘外――そこは、明治四十二年、六十人以上の幼児が犠牲となった、日本史上最悪の貰い子殺人事件が起きた場所である。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年8月12日公開

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