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灯台守の観測簿

落丁(第7話)

ゐで保名

何十年勤めて、一枚。誰もが、自分の書いたものを、自分の手で切り落としていた。

タグ: #AI #幻想文学

小説

2,287文字

岬の灯台に灯りを入れて、今年でちょうど四十年になる。

 

この場所は、潮の流れが複雑に絡み合う難所として、古くから船乗りたちに恐れられてきた。灯台が建つ前は、幾つもの船がここで姿を消したという。灯台が灯った後も、海は決して優しくならなかった。

 

私がここに来たのは、まだ二十代の頃だった。先任の老人は、ほとんど何も教えてくれなかった。灯りの点け方と、観測簿の付け方だけを伝え、最後に一言だけ残した。

 

「灯りを見失った船のことは、正直に書け。それだけが、決まりだ」

 

観測簿には、日々の天候、風向き、視程を記す。それが灯台守の本分だ。

 

赴任して五年目の冬、私は初めて「灯りを見失いたる船あり」と記した。

 

深い霧の夜だった。沖合に、小さな明かりが揺れていた。灯台の灯りに向かって、真っ直ぐに近づいてくる。あと少しでたどり着くというところで、その明かりは、霧の奥に吸い込まれるように消えた。

 

翌朝、港に問い合わせた。該当する船はなかった。

 

それ以来、同じことが繰り返された。霧の夜、嵐の夜、視界の悪い夜に限って、明かりは現れ、近づき、決まって消える。私はそのたびに、観測簿に同じ一文を記した。

 

古い観測簿を見つけたのは、そんな夜が幾度も重なった頃だった。納屋の奥の木箱に、先任の老人の、さらにその前の守たちの記録が、何十年分も積み重なっていた。皆、同じ一文を、淡々と繰り返していた。

 

「灯りを見失いたる船あり」

 

夜な夜な読みふけるうちに、私は、記録の中身より先に、綴じ目に気づいた。

 

どの守の観測簿にも、一枚だけ、頁が足りないのだ。

 

刃物で、根元から切り取られている。切り口は古びて飴色になっていたが、どれも迷いのない、一息の切り口だった。日付を確かめると、切り取られた一枚の前後で、記録は一日分だけ飛んでいる。三月十一日の次が、三月十三日。守によって欠けた日付は違ったが、欠け方は皆、同じだった。何十年勤めて、一枚。それぞれの守が、それぞれの任期に、たった一夜だけ、自分の書いたものを自分の手で切り落としている。

 

もう一つ、気づいたことがある。欠けた頁に近づくにつれ、「灯りを見失いたる船あり」の一文は、間隔を詰めていく。年に数度だったものが、月に一度になり、週に一度になり、欠けた夜の直前には、毎夜、記されるようになる。そして欠けた頁の後は、また、年に数度に戻っている。まるで、何かが少しずつ岸へ近づき、あの一夜を境に、また沖へ遠ざかっていくかのように。

 

切り取られた頁そのものは、木箱のどこにもなかった。納屋も、灯室も、机の抽斗もあらためたが、一枚も出てこなかった。

 

灯りは船を導く。そう信じて、私は灯してきた。だが古い記録を読み終えた夜、初めて別の考えが来た。この灯りは、招いてもいるのではないか。届かぬと知らずに、近づいてくるものを。

 

妻は、古い観測簿を読みふける私を、静かに見守っていた。ある霧の深い夜、観測簿に向かって独り言を呟いている私を見て、彼女はそっと言った。

 

「あなたは、もう海の側にいるのね」

 

私は答えられなかった。その頃、私の観測簿でも、あの一文は、週に一度になっていた。

 

妻が死んだ年の冬、一文は、毎夜になった。

 

その夜も、霧が深かった。沖合に明かりが現れ、真っ直ぐに近づいてきた。いつも消える暗礁の線を、明かりは越えた。私は窓に額を寄せた。明かりは速度を変えず、消えず、岬の根の、灯りの届かない暗がりへ入っていった。それきり、海は静かだった。ただ、螺旋階段の一番下で、戸の軋む音を、聞いたような気がした。

 

気がつくと、私は机に向かい、観測簿に何かを書き終えたところだった。

 

ペンを執った覚えはない。書き出した覚えもない。ただ、書き終えた、という手応えだけが、指に残っていた。私は自分の書いた頁を、灯りの下で一度だけ読んだ。

 

読んだはずだ。読んだことは、覚えている。何が書いてあったのかは、覚えていない。読み終えた私が、抽斗から剃刀を取り出したことは、覚えている。頁を根元から切り取ったことも、切り口を指でなぞって、先任たちの切り口と同じ角度であることを確かめたことも、覚えている。切り取った一枚を、それからどうしたのかは、覚えていない。

 

翌朝、灯台の内も外も探した。紙は、どこにもなかった。海に捨てた覚えも、焼いた覚えもない。ただ、あの一枚の分だけ、あの夜の記憶が、私の中から切り取られていた。

 

観測簿は、正直に書かれねばならない。正直に書かれた一枚は、書いた者の内からも、同じだけ正直に、持ち去っていく。先任の老人の言葉を、私は四十年かけて、ようやく正しく聞き取った。正直に書け。あれは戒めではなく、手順だったのだ。

 

あの夜から、明かりは、また年に数度に戻った。現れ、近づき、暗礁の線の手前で消える。私はそのたびに記す。「灯りを見失いたる船あり」。手の震えは、もうない。

 

来月、後任の若い灯台守が着任する。私は彼に、多くを語るつもりはない。灯りの点け方と、観測簿の付け方だけを教える。そして、最後に一言だけ伝えるだろう。

 

「灯りを見失った船のことは、正直に書け。それだけが、決まりだ」

 

ペンと同じ抽斗に、新しく研いだ剃刀を一挺、入れておいた。

 

© 2026 ゐで保名 ( 2026年7月20日公開

作品集『落丁』第7話 (全9話)

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