再生者
腥田をにゆり
愛は死のように強く、洪水も消せない……。渋谷の路地裏にあるそのスポーツバーは、まるで座礁した古い潜水艦のような澱んだ密封の空気感が充満して、数時間前からビールの染みの付いたバーカウンターでは誰しも祝祭日の眼で天井を視ている。ウーウーと心から叫び出した彼らは一片の魂もこの場に残されないような気がした。私はそんな隅で一人だけハイネケンの瓶先でも弄りながら別の何かを考え始めた。
本当はカタールの緑はどうでも良かった。左往右往が長く続いて、いつ終わるかというよりもさっきからずっとトイレに篭った彼のことを待っていた。
「今試合はどうなってる?」
と廻りの悲鳴に浸っていてやっと席に戻ってきた彼が一杯のドリンクを持ってきた。ジントニックみたいな酸っぱい匂いだった。
何故、奇妙に思えるのか、それはこんな空間では常々私の意識の方向が奪われるからであった。自分はボールが選手の脚と糸でも繋がってるかのように制御されるのを視て、まるで終わらないループらしい無機質的な、魂が最終的に運動の熱狂とは無関係というのを漠然とした木霊から感じてしまった。しかし、このような違和感はなかなか説明付かない。
脳内には違うことが再生されて、荒野から上って来る者……。北アフリカとカルタゴにおいて、バアルハモンは二本角の主として崇拝された。ソロモン王はバアルハモンにぶどう園をもっていて、各々のその実のために銀一千を納させた。 とプロットを考えながら、急に場が静まり返ってきて、彼らはボールを運んで、山をとび、丘おどり越えるようにと走っていく。観客たちに愛される者たちは、日の涼しくなるまで、影の消えるまでは肉体をかえして出ていって、烈しい山々の上で、若い雄鹿のように動き出す。みんなはその瞬間に誓った。黙祷のような、息の留まった無音は勝利を彼らに託すことすら忘れ去り、シーンとあの動きに心が踏み叩かれたせいで席を立ってしまった。
「入った!入った!」と彼も大声を出す。無重力みたいに全員が浮遊した、試合はこれからだとみんなが分かっても、その後の歓声は数分経っても室内を廻り続けた。
やっと落ち着いたら、彼にふと聞かれた。
「最近小説はどう?」
「今年は文學界にも、新潮にも、群像にも合わせて三作を提出したから暫く休んでもいい気がしなくもないが、素直に休めなかった。書き続けないと筆が鈍くなる気がするし、振り返ると自分の作品は全部拙く視えて——」
「最初はそんなもんさ」
と彼は軽くあしらった。実は彼と知り合ったのは数年前、丁度ダイヤモンド号のことが起きる二、三日前くらいだった。当時、私は映画専門学校に入るのを検討していたので、SNSで同じワナビーの彼と知り合ったが、彼は監督を目指していた。
そして沖縄出身の彼は気さくだった。いつも真摯に相談を聞いてくれて、時には知り合いの女性を連れてくるが、どうやらその女性は彼の幼馴染で、耳がよくなく、私はそれで少し手話を勉強した。今回はその彼女が来られなかったので、野郎二人が数年振りに再会したらやはり女とスポーツのことばかり話題になった。
「今日幼馴染は来ないの?」
「来ないね、こういう場所は好きじゃないらしいから」
とだけ話して、実は今丁度、長編小説の構想があるから彼女に何かモチーフになれそうな体験談を取材したかった。まだぼんやりした構想でしかないが、〝悪女〟を書くから、先ずはジザベル、妲己、ユリア・メサ、メディシス、クレオパトラ……。
と彼はかつて一緒にシナリオを書いたので、すっかり筋書きの意図を理解してくれて、聞き入っていた。この男も経歴がかなり異色だった、大学時代は犬の殺処分やら人の死体をホルマリンに入れて運搬するやらそういうバイトをばかりして来た人間だから、ダークな話は特に食いつく。その時もう廻りの騒がしさもとっくに飛んでしまって、彼がまず気になった所から指摘してきた。
「悪女ってそもそも何故悪女なのかちゃんと考えてる?クレオパトラは悪女とは思えないが……フェラチオが得意ってだけで悪女にならないだろう」
私は彼にじゃ、君の思う悪女は? ときいたら、「かぐや姫か乙姫とかじゃないかな」と恰も私の質問を待っていたようにそのニヤニヤした薄笑いが隠せなかった。
「円熟していないね」
「ええ、今後も円熟する気はないな」と彼が笑った。
やがて、話している最中に誰かがゴールにシュートした。
「うわー、まじか」
急に重苦しくなった気圧で息苦しくなった人々は酒気の薫りから翻って、余りにも大きな嘆きに思考が絶えた。相手が一点を得て、同点となった瞬間にこの場では半分以上の人間は魂が還ったように顔色が歪曲して、二、三人の若い男性がこの後の試合を観るのに耐えられないような、余りにも短気なのだがすぐ店から出て行った。
彼がドアのほうを視て、「ユイスマンスってモローの〝出現〟を視てさかしまを書いたけど、悪女は魅力があるってことかな?」といった。
「悪を美しくなく書くことってかなり難しいよね。勝手に魅力的に映るので、そこのバランスに気をつけてるんだ」
と私がそう答えたら、
「それはまあ、地震も津波も止められない。カタストロフィーの前では絶対的な暴力によって善良がただ去っていくだけ」
彼が急に感傷的な情緒を纏ったと思いきや、それは廻りの一時的な空気に感染っただけかもしれない。私は何も返せなかった。
そして、この試合は最終的に相手に二点取られて、敗北する形で終了した。前回もみんなが一生懸命に闘ったが、やはり負けて、次は勝てるかどうかわからない。私は勝敗に全く関心がなかった。彼は勝敗のことを気にするよりも、放映権はどの国よりも高いということに不服そうな様子だった。
「そこまで気にすることなのか?」
「ああ、気にするさ。数週間後、この熱気は梅雨に曝されて何もないように消え去っていく」
バーから出て行ったら朝になっていた。明治神宮の前に一台の日本国旗が貼られた焼き芋の移動販売車があった。古いラジオでうろ覚えの過去の音楽が流れて、しかし懐かしくなかった。
「あの店主って……」
「ああ、昔の軍服着てるな」
「別にいいじゃないか。そこまで考えなくても」
「いや、ライフワークは無駄でした。世の中はずっと壊れかけたままループ再生されるだけだ。文学は書いても書かなくても」
私は彼を止めようとして、今夜もまた一緒に飲みに行って……おでんでも食べに行こうと誘おうとしたが、しかし、彼はその自然のみ棲んでいる照葉樹林の砂利道に入っていき、再び振り返ることはなかった。
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