少年にとって四方が白い壁と天井だけの独房がどれほど
心細いものか大人には理解できないだろう。独房の入口
はスマホほどの四角い覗き窓を残して厚い鉄扉で塞がれ
ている。こんなところにいつまで閉じ込められるのか。
このまま続けば精神的な異変を起こすかもしれないと i
はおびえた。
i は、少年院に着いたならすぐに事務所のようなところ
へ連れて行かれ、これからのことを色々教わるものとば
かり思っていた。ところが門ともいえるものも塀もなく、
木造の学舎がコの字形に囲む庭先に春の花が咲き乱れる
izumi学園の敷地に入ると、そのまま屋外の渡り廊下を通
って離れの白いコンクリーリト棟まで歩かされ、説明も
なくそのまま独房に幽閉されてしまったのだ。
三度の食事だけは扉の下部にある開口部から差し入れら
れたが、三日もたつと、 i は人恋しくてたまらなくなっ
た。誰でもいいから姿見せてよ、語りかけてよと東側の
細長い鉄条窓に額を押し付けて外をみても一面の玉葱畑
が遠くまで続くほか何もみえない。あるとき i の嫌いな、
長い脚を持つ足高蜘蛛が天井の角に張り付いているのを
発見したときは大げさでなく天の恵みかと思うほど感動
した。蜘蛛よ、我が唯一の友よ、隣人よ、いつまでもそ
こにいておくれと願いながらじっと見続けたものだった。
自分でも不思議だった、外では、あれほど怯えて箒で追
い払った足高蜘蛛が、ただ同じ生物として近くで動いて
いるだけで親愛の情が湧いてきたのだ。 i には物音ひと
つ聞こえない白亜の独房がそれほどに心細かったのだろ
う。いまや生命を持って動くものなら何でもよかった。
しかしその蜘蛛も夜のあいだに鉄条窓のあいだをすり抜
けてどこかへ消えていた。
せめて本一冊あればこのあてもなさをまぎらわせること
ができるのだが。
i が落胆していると隣の房の扉が開かれる物音がしてだ
れかが入室する気配がした。新入りだ。 i にしてみれ
ばこれほど心強いことはない。世界から取り残されたよ
うな孤絶感にさいなまれていた少年の心に薄桃色の明か
りがともった。すぐに i は細心の物音も聞き逃さない
ように壁に耳をあてて隣りの房の様子を伺った。静かだ
った。物音ひとつしない。
ずいぶん腹の座ったやつだ、おれなんか不安にかられて
部屋中を歩き回り、鉄条窓に頭を打ち付けたりしたのに、
本物のワルは違うと感心した。ここにきても i はじぶん
がこんなところに入れられるような人間ではないと考え
ていた。何かの間違い、それも、社会システムにとんで
もないバグが生じておれはこんなところにいるのだ。じ
ぶんは不良少年たちとは住む世界が違うと信じていた。
昼過ぎになってその隣房から、
「おい、いるのか?」
という声が聞こえた。人間の声だった。
i は窓のほうへとんでいった。
「うん。いるで」
すぐにでも同じ境涯にいる者同士、親交をあたためたか
った。少々いがらっぽく渋みのある声とはいえ久しぶり
に聴く同じ年頃の子の声だった。
しかし次に i が聴いたことばは理解不能のものだった。
「izumiのカラスは何色や?」
とその声は問うてきた。
「え?」
「izumiのカラスの色は何色や?て聞いてんねん」
なんの話か。 i は混乱した。相手は i の混乱を見透か
したかのように沈黙している。これが何かの策略である
ことはわかるのだけど、とりあえず黙っているのはまず
い。
「……黒やろ?」とアホを承知で答えると、
隣からの声はまるで本を読むように静かに、
「izumiのカラスは白と違うんか」
とおかしなダメ出しをしてきた。
なにをいってるのかこいつは? i は面食らったが、しば
らく考えてわかった。なるほど、これが少年院のような
チンピラの集まるところで行われるマウント取りゲーム
か。面倒臭いと i は思った。不良少年という連中は案外
女々しくて陰湿なのかも知れない。
「なんぼここが泉南やからゆうて、白いカラスなんか見
たことないで」
「もういっかい聴くぞ。izumiのカラスは何色や?」
「黒いに決まってるやないか」アホといいかけてことば
を飲み込んだ。
「白いカラスは、おらんちゅうんか」
「事実をいうてるだけや、アホ」
知らない相手とケンカなんかしたくなかったのに少年院
とはなんと面倒なところか。とうとう「アホ」といって
しまった。
「だれや知らんけど、なかなか度胸あるやんけ」相手は
冷静な声でいった。「入浴の日に表出てきたらどうなる
か覚悟しとけよ」
こりゃあまずい。 i は頭を抱えた。不良少年といえど少
年院に入るようなのは、その中でも生え抜きのワルだろ
う。そんな生え抜きのワルとケンカして勝てるとも思え
ない。
それにしてもこいつらは何故そうも諍いを起こすことが
好きなんだろう。ヒマなのか? 頭の線が一本切れてい
るのか? 文学好きのオレとは住む世界が違うんだよ、
もう、早くだれかオレをここから出してくれないか。
そんなことを考えていると、いきなり開錠する音がして
扉がさっと開かれた。
そこには薄灰色の作務衣を着た初老の男が立っていた。
眼を丸く見開いて無表情にじっと i を凝視している。お
笑い芸人のいかりや長介に似た顔が i をどういう人間か
見極めるかのように顔色ひとつ変えないでいつまでも凝
視しているのだ。通俗的な顔つきの爺さんの、そのあま
りに真剣な表情をみていると、なぜか i は吹き出してし
まった。あ。と思ったが遅かった。うつ向いて必死に笑
いをこらえようと思うのだが、抑えようと思えば思うほ
ど、くつくつと肩を揺らして笑ってしまう。
しかしじいさんは i のそんな態度を見ても、まったく表
情を変えずに相変わらず i を凝視しているのだ。その、
まるでロボットのような態度をみて i はまた吹き出して
しまった。
作務衣を着た初老の男は相変わらず無表情を保ったまま
静かに床に正座した。
「三日間、あなたに、ここにいてもらったのは、世間の
雑音から離れて、こころを静かに落ち着けてもらうため
でした」
そういった。こんなところに閉じ込められて心穏やかに
いられるわけないだろう!と内心反発したが、年上のお
やじから「あなた」なんて呼ばれたのはいつのことか。
生まれて初めてかもしれない。 i はなにか居心地の悪さ
と同時に、おれはとうとう不思議な世界に迷いこんだよ
うだと思いはじめていた。
「ここは内観室といいます。初めてこの学園に来たあな
たのような人たちに、邪念を捨て、じっと自分の過去の
こと、おかあさんやお父さんのことなど、過去を振り返
り、じぶんがどうであったか思い出してもらうために瞑
想するところです」
i は、はあ、はあと神妙らしくうなづいたが、まるきり
その言葉がじぶんの心を上滑りしている。親も家族もい
ないのにおれがどうして父母のことなど考えられるだろ
う。
「これから一週間、毎日、その日の内観の成果を聴きに
来ますので、しっかり修養に励んで下さい」
一週間と聞いて i は死にたくなるほど落ちこんだ。冗談
じゃない。気が狂ってしまう。すがるように初老の男を
みたが「いかりや長介」は、すべて形式にのっとった所
作が大事といわんばかりにすっと立ち上がると、居住ま
い正しく扉を閉めて出ていった。
なんとも、みたこともないタイプの人だった。
それから一週間、 i は何度もこの人物の訪問を受け、早
く独房から出たい一心から一芝居をうって涙ながらに自
分がどれほどデタラメな生活をしてきたか作り話を語る
のだが、目を上げて「いかりや長介」の一点の動きもな
く丸く眼が見開かれた無表情な顔をみると、芝居を忘れ
て噴き出してしまうのだった。しかしふつうなら怒り出
してもしょうがないと思うのに i が噴き出して芝居だっ
たことがわかってもこの人物はみじろぎもせずに i をみ
ていた。
いったいどういう役職の人か、とうとう最後まで i には
わからなかった。
翌日の昼、「入浴~っ」という大音声が棟に響き渡った。
風呂はどうやら三日置きらしい。 i はそわそわした。い
よいよ隣の男とのご対面ということになるのだ。「アホ」
と一喝した以上、堂々と勝負するしかない。でも、まっ
たく自信がなかった。とてつもないワルだったらどうし
ょうという心配が先に立った。16歳の文学好きな少年
である。ガンの飛ばし方ひとつ知らなかった。それに引
きかえ相手はどうやら少年院のようなところの不良の作
法を熟知しているようである。
なにか内観棟の手伝いをしているらしき、きびきびとよ
く動く古株の少年によって扉が開かれると i は去勢を張
って内心びくびくしながらも隣房から出てきた少年を
「おう」というような感じで睨みつけた。
その少年は正直、とても少年には見えなかった。あとで
i よりも三歳年上の十九歳であることがわかったが、ど
うみてもおっさんだった。
頭は刈り上げている。日焼けしているのか地肌なのか浅
黒く鈍く光る肌の色が半袖シャツから覗いていた。筋肉
質というよりも相撲取りのようないわゆるあんこ体型で
肩幅がある。ただし身長は169センチほどだったがそれで
も165センチの i よりも大きく見え威圧感があった。
隣室の少年は出てくると i の方を見ようともせず先輩の
学園生の号令通りに従って真っ直ぐ前を見ている。肩を
張って「おおう、いつもでこいや」とこわごわ隣房の
「おっさん」を睨んで待ち構えていた i は、ちょっと安
心し、拍子抜けした。風呂のある学舎の方へ回れ左をし
たとき、その浅黒い肌の少年の、顔に似合わないまつ毛
の長い目が i の方をちらっと見て薄く笑ったような気が
した。
風呂に入る内観棟の新人は i を含めて四名ほどだった。
「おっさん」のような不気味な男。そして丸メガネをか
けたインテリ臭い少年。かれは身長も i と同じくらいで
おとなしい感じなのだがどこか油断できない雰囲気があ
って詐欺でもしたのだろうかと i は考えた。「前へ進め!」
という号令がか
かると両方の腕を前に出して振っていたので相当に緊張
していることがわかった。もうひとりはもちもちとした
白い肌をした裕福な家庭の子のような印象の少年で背も
高いし、何かスポーツでもやっていたのか太ももの筋肉
が異様に発達していた。
四人で大きな浴場の湯船につかっている間も、隣房の少
年は i をまったく無視して見ようとすらしなかった。
── これはどうしたことか?
独房にかえってから i はあの「おっさん」がなぜ彼を無
視したのか思案にくれた。
まさか、ほんとうは根性ないのか? 口だけ番長なの
か? しかし肩から背にかけて年季の入った薄黒い入れ
墨があった。金筋ヤクザであるようにも見える。それに
あの薄笑いの笑みは何だ?
いろいろ考えて出た答えはひとつしかなかった。
房から出てきた i をかれは i よりもはやく見ていたの
だ。そして、一瞬にして覚ったに違いない。 i は、じぶ
んたちの世界の人間じゃないと。なぜこんなところに居
るのか知らないが、何かの間違いで異世界に迷い込んだ
お角違いのへんなやつなのだ。そんなシロウトを脅かし
たり
対等に張り合うなど、金筋のワルにとってたぶん恥ずべ
きことなのだ。 i など相手にしてだれかに見られ、噂が
広がれば笑いものである。だから i を無視したに違いな
い。
あとあとの出来事を考えるとこれはあながち間違った推
測ではなかった。
"さらば、楽園②"へのコメント 0件