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永遠の花束

破滅派25号「児童文学」応募作品

島津耕造

口述筆記で書きました。私の人生のプランのようなものです。

タグ: #破滅派25号「児童文学」

小説

12,520文字

第一章 雨の日の約束

訪ねてきた男は、ゆっくりと洋服ダンスの扉を開けた。

中には何本ものネクタイが整然と並んでいる。その中から一本だけを選び、静かに取り出した。

そのネクタイには思い出があった。

恋人から贈られた一本だった。

男はネクタイを締め、帽子を手に取って家を出る。

外では雨が降っていた。

「傘を持ってくればよかったな。」

そう思って玄関を振り返る。

傘立てはすぐそこにあった。

取りに戻ろうかとも思ったが、男は首を横に振る。

「……いや、やめよう。」

そのまま雨の中へ歩き出した。

歩き続けるうちに、恋人のことが気になり始めた。

今日は喫茶店で待ち合わせをしている。

きっと窓際の席に座り、コーヒーを飲みながら待っているはずだ。

そう思うと自然と歩く速度が速くなる。

男は喫茶店へ向かった。

雨に濡れた街は静かだった。

古びた建築。

戦後から残っているような建物。

電柱。

水たまりに映る信号。

見慣れた景色が雨によって別の街のように見える。

だが歩いているうちに、男の頭の中には別の考えが入り込んできた。

ニューヨーク。

アメリカ。

大統領。

憲法。

そんな言葉が次々と浮かび上がる。

「もし、自分が世界を変えられるなら。」

その考えは少しずつ大きくなっていった。

喫茶店へ向かっていた足は、いつしか駅へ向かっていた。

そして気づけば飛行機の中にいた。

男はニューヨークへ向かっていたのである。


ニューヨークへ着いてもしばらくは何も思わなかった。

高層ビル。

人の波。

地下鉄。

黄色いタクシー。

そのすべてが新鮮だった。

しかし、ある瞬間、胸の奥に違和感が生まれる。

「……何か忘れている。」

何を忘れたのか思い出せない。

財布ではない。

荷物でもない。

パスポートでもない。

男は携帯電話を取り出した。

そこには恋人から何件もの着信が残っていた。

慌てて電話をかけ直す。

しかし出ない。

メールを開く。

最後の一通には、こう書かれていた。

『なんで来なかったの?』

『ずっと待っていたのに。』

『どうして何も言わずにいなくなったの?』

男はその画面を見つめたまま、何も返すことができなかった。

雨は日本だけではなかった。

ニューヨークにも静かに雨が降り始めていた。

第二章 オールゼロ

ニューヨークでの生活は、不思議なほど静かに始まった。

男は観光をするでもなく、仕事を探すでもなく、毎日街を歩いた。

巨大なビルの谷間を抜け、公園へ行き、人々の表情を眺める。

誰もが忙しそうに歩いている。

豊かな者もいれば、路上で眠る者もいた。

世界で最も豊かな都市だと言われながら、その中には説明のつかない孤独があった。

ある日、男は公園のベンチへ腰を下ろした。

誰に向かって話すでもなく、ぽつりと独り言を口にする。

「人は、生まれた瞬間はみなゼロだ。」

通り過ぎる人は気にも留めない。

男は続けた。

「肩書もない。

財産もない。

国籍という概念さえ知らない。

人は皆、ゼロから始まる。」

翌日も、男は同じ場所へ行った。

そしてまた話した。

その翌日も。

毎日、毎日、話し続けた。

最初は誰も聞かなかった。

しかし、一人だけ立ち止まった。

その翌日には三人。

一週間後には十人。

やがて、男の話を聞くために人が集まり始めた。

誰かが動画を撮影し、インターネットへ投稿した。

言葉は国境を越えて広がっていく。

ある日、一人の記者が尋ねた。

「あなたは、どこの団体に所属しているのですか。」

男は首を横に振った。

「私はどのチームにも属していない。」

記者は少し困ったような顔をする。

「では、この集まりの代表なのですか。」

男は笑った。

「違う。」

「私は代表ではない。」

「私は指導者でもない。」

「私が持っている権限は、一つだけだ。」

周囲は静まり返る。

男はゆっくりと言葉を続けた。

「このチームを解散する権限だけを持っている。」

誰も意味を理解できなかった。

記者も首をかしげる。

男は続ける。

「思想は、人の中にあるうちは生きている。」

「だが、組織になった瞬間、自分自身を守り始める。」

「思想ではなく、組織を守るようになる。」

「その瞬間に思想は死ぬ。」

誰も口を開かなかった。

「だから私は代表にならない。」

「命令もしない。」

「私が持つ最後の責任は、この思想が腐り始めたとき、自分の手で解散させることだけだ。」

「それ以外の権限は必要ない。」

その日から、人々は男を代表とは呼ばなくなった。

創設者とも呼ばなかった。

彼はただ、「最後の解散権を持つ者」と呼ばれるようになった。


人は日に日に増えていった。

学生。

会社員。

芸術家。

移民。

ホームレス。

宗教家。

政治家。

立場の違う人々が、一つの思想を聞くためだけに集まってくる。

誰かが言った。

「この思想には名前が必要です。」

男は少し考えた。

そして答えた。

「オールゼロ。」

「人は皆、ゼロから始まる。」

「肩書ではない。」

「財産でもない。」

「思想も、一度ゼロに戻して考えればいい。」

その日、「オールゼロ」という名前が生まれた。

しかし男は、すぐに釘を刺した。

「勘違いしてはいけない。」

「オールゼロは組織ではない。」

「政党でもない。」

「宗教でもない。」

「思想だ。」

「だから私は所属しない。」

「私は、ただ最後に解散する権限だけを持っている。」

その言葉は、何度も何度も繰り返された。

男は演説を終えるたびに、必ず同じ一文で締めくくった。

「思想は自由でなければならない。」

「自由であるために、私はいつでも終わらせる覚悟を持っている。」

その言葉だけは、一字一句変わることがなかった。

第三章 思想と肉体

オールゼロの思想は、ニューヨーク中へ広がっていった。

人々は男の演説を聞きに集まり、その言葉を持ち帰り、また別の誰かへ伝えた。

男はそれを止めようとはしなかった。

思想とは、所有するものではなく、渡っていくものだからだ。

ある日、一人の青年が手を挙げた。

「あなたは救世主になろうとしているのですか。」

男は静かに笑った。

「違う。」

青年は続ける。

「では、あなたはイエス・キリストになりたいのですか。」

その名が会場に響くと、人々は静まり返った。

男は少しだけ空を見上げ、それから答えた。

「私はイエス・キリストにはなれない。」

「なろうとも思わない。」

「イエスはイエスだ。」

「私は私でしかない。」

青年はなおも尋ねる。

「では、なぜ思想を語るのですか。」

男は答えた。

「肉体は死ぬ。」

「国家も滅びる。」

「文明も終わる。」

「だが、思想は人から人へ渡る。」

「それだけは死なない。」

誰も言葉を発さなかった。

男は続ける。

「イエス・キリストが二千年経った今も語られているのは、肉体が残ったからではない。」

「思想が残ったからだ。」

「私は奇跡を起こしたいわけではない。」

「人を救いたいわけでもない。」

「ただ、一つの思想を残したい。」

「その思想が、私の死後も誰かの中で生き続けるなら、それで十分だ。」


演説のあと、一人の女性記者が尋ねた。

「あなたは死ぬことが怖くないのですか。」

男は少し考えた。

「怖い。」

そう素直に答えた。

「痛いのは嫌だ。」

「苦しいのも嫌だ。」

「銃で撃たれたいとも思わない。」

少し笑う。

「ジョン・レノンのようにはなりたくない。」

笑いが起こる。

しかし男の表情はすぐに真剣になった。

「だが、死ぬことそのものは否定しない。」

「誰でも死ぬ。」

「それは世界の約束だからだ。」

「だから私は、死なないものを作りたい。」

「それが思想なんだ。」


数日後、ある大学で講演を頼まれた。

会場は満席だった。

政治学者も、哲学者も、神学者もいる。

男は壇上に立つと、いきなり黒板へ大きく円を描いた。

「世界は円だ。」

そう言った。

「始まりと終わりは繋がっている。」

「昼は夜になり、夜は朝になる。」

「雨は海へ流れ、海は雲になり、また雨になる。」

「命も同じだ。」

そこで男は、突然こう言った。

「では、大便は汚いでしょうか。」

会場がざわつく。

笑う者もいた。

顔をしかめる者もいた。

男は構わず続ける。

「人は大便を汚いと言う。」

「だが、その大便は土へ還る。」

「土は草を育てる。」

「草は動物を育てる。」

「動物は命を育てる。」

「命はまた土へ還る。」

男は黒板の円を指さした。

「どこで切れていますか。」

誰も答えられない。

「切れていない。」

「全部つながっている。」

「だから私は、大便も神の循環の一部だと思っている。」

会場は静まり返った。

「美しいものだけを神聖だと言うのは、人間の都合だ。」

「腐るものも、生まれるものも、死ぬものも、すべて同じ輪の中にある。」

「世界には、本当に無駄なものは一つもない。」

その日、多くの新聞は「大便を語る市長候補」と面白おかしく記事を書いた。

だが、記事を最後まで読んだ者たちは気づいた。

彼が語っていたのは大便ではない。

命の循環そのものだった。

その演説は、オールゼロの思想を象徴するものとして、後に何度も引用されることになる。

第四章 市長

オールゼロの思想は、もはや一つの運動ではなかった。

街の至るところで、人々は肩書ではなく言葉を交わすようになった。

政治家も、労働者も、学生も、芸術家も、同じ輪の中で議論を始める。

その中心には、いつも男がいた。

しかし男は、自分が中心であることを認めなかった。

「私は中心ではない。」

「思想には中心があってはいけない。」

「中心が生まれた瞬間、それは権力になる。」

その言葉は、支持者だけではなく反対派の耳にも届いた。

新聞は連日、男を取り上げた。

テレビでは討論番組が組まれた。

政治評論家は「新しい民主主義」だと評し、宗教家は「宗教ではない宗教性」を感じると言った。

それでも男は何一つ変わらなかった。

朝は街を歩き、昼は人々と語り、夜は一人で本を読んだ。


ある日、記者会見で一人の女性が尋ねた。

「あなたは市長選へ立候補するのですか。」

男はしばらく黙っていた。

本当は、そんなことに興味はなかった。

肩書が思想を強くするとは思っていなかったからだ。

しかし、人々の声は日に日に大きくなっていた。

「あなたにしか任せられない。」

「あなたなら街を変えられる。」

「立候補してください。」

男は静かに答えた。

「私は勝ちたいから立候補するのではない。」

「思想が政治の中でも生きられるのか、それを確かめたいだけだ。」

その一言で、立候補は決まった。


選挙期間中も、男は他の候補者を批判しなかった。

演説で語るのは、自分の思想だけだった。

「人は皆、ゼロから始まる。」

「肩書よりも人格を見てほしい。」

「敵を作る政治は終わりにしよう。」

「私は誰の上にも立たない。」

そして最後には、必ずこう締めくくった。

「私はオールゼロに所属していない。」

「私が持っている権限は、オールゼロを解散する権限だけだ。」

「思想は、人を自由にするためにある。」

「もし思想が人を縛り始めたなら、その瞬間、私は自分の手で終わらせる。」

この言葉は支持者にも衝撃を与えた。

普通なら、組織を大きくしようとする。

仲間を増やそうとする。

ところが男は逆だった。

「必要なくなれば消える。」

それが思想のあるべき姿だと言い切った。


投票の日が来た。

開票は夜通し続いた。

だが、勝敗は予想よりも早く決した。

圧倒的な得票差だった。

男はニューヨーク市長に選ばれた。

歓声が街を包む。

支持者たちは泣きながら抱き合っていた。

しかし男は壇上へ立つと、勝利を喜ぶより先にこう言った。

「今日は、私が勝った日ではありません。」

静まり返る会場。

「今日勝ったのは、一つの思想です。」

「そして、その思想は私のものではありません。」

男はゆっくり会場を見渡した。

「もし私が明日死んでも、思想は残る。」

「だから私は安心して眠ることができます。」

拍手が起こる。

男はその拍手を制するように手を上げた。

「勘違いしないでください。」

「私は英雄ではありません。」

「イエス・キリストでもありません。」

「私は、ただ考え続ける一人の人間です。」

そして最後に、いつもの一言を口にした。

「私が持つ権限は、オールゼロを解散する権限だけです。」

その瞬間、会場はこれまでで最も大きな拍手に包まれた。

その拍手は、市長への祝福というよりも、一人の人間が最後まで思想に従って生きようとしたことへの敬意だった。

第五章 憲法

市長になってからも、男の暮らしはほとんど変わらなかった。

公用車を嫌い、できる限り歩いた。

護衛も最低限しかつけなかった。

「人から離れた政治家は、人を見失う。」

それが口癖だった。

市庁舎へ着くと、執務室の机には毎日のように書類が積まれていた。

予算。

福祉。

教育。

治安。

どれも大切だった。

だが、男の視線は机の端に置かれた一冊の本へ向かう。

アメリカ合衆国憲法。

ページの端には無数の書き込みがある。

彼はその本を閉じたり開いたりしながら、何度も同じ問いを繰り返していた。

「人は、生まれた場所によって未来を制限されるべきなのだろうか。」

彼が考えていたのは、大統領の被選挙資格だった。

アメリカでは、大統領になるにはアメリカ生まれでなければならない。

その条文を読むたびに、男は静かに考え込んだ。

「もし能力がある人間なら。」

「もし国を愛しているなら。」

「生まれた場所だけで、その可能性を閉ざしてよいのだろうか。」

彼は結論を急がなかった。

答えを出すよりも、問い続けることのほうが大切だと考えていたからだ。


ある日の会議で、一人の議員が尋ねた。

「あなたは、大統領を目指しているのですか。」

男は苦笑した。

「違う。」

「私は肩書には興味がない。」

「だが、憲法には興味がある。」

部屋は静まり返る。

「法律は人を守るためにある。」

「しかし、時代が変われば、法律も問い直さなければならない。」

「変えないことが正義とは限らない。」

議員たちは黙って聞いていた。

「そのためには、もっと学ばなければならない。」

「もっと議論しなければならない。」

「そして、もし必要なら、議員にもなるだろう。」

それは野心ではなかった。

問いを最後まで追い続けようとする、一人の思想家としての決意だった。


しかし、その日の夜だった。

市庁舎を出て歩いていると、ショーウインドウに小さな喫茶店が映った。

ガラス越しに、一人の女性がコーヒーを飲んでいる。

その姿を見た瞬間、男の胸が締めつけられた。

雨の日。

日本。

喫茶店。

恋人。

すべてが一気によみがえる。

「……待たせた。」

誰にも聞こえない声だった。

彼はその場から動けなくなった。

政治も。

憲法も。

世界も。

その瞬間だけは、どうでもよく思えた。

思い出したのは、たった一人の人だった。


その夜、男は市長公邸へ戻ると、机の上へ憲法の本を置いた。

しばらく眺める。

そして静かに閉じた。

「まだ、その時じゃない。」

そうつぶやいた。

世界を変える前に、戻らなければならない場所がある。

会わなければならない人がいる。

どれほど遠くまで歩いても、人は最後には、自分が約束した場所へ帰らなければならない。

男は窓を開けた。

ニューヨークの夜風が部屋へ流れ込む。

遠くでサイレンが鳴っている。

その音を聞きながら、男は初めて、自分の心が日本へ向いていることを認めた。

「私は帰ろう。」

その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

彼自身が、ようやく自分に言えた言葉だった。

第六章 帰郷

市長辞任の記者会見は、世界中へ生中継された。

誰もが理由を知りたがっていた。

「健康上の理由ですか。」

「新しい政党をつくるのですか。」

「大統領選へ出馬する準備ですか。」

質問は途切れなかった。

男は静かに首を振った。

「違います。」

そして、少し笑った。

「帰るんです。」

記者たちは顔を見合わせた。

「どこへですか。」

「約束を忘れてしまった場所へ。」

それだけだった。

それ以上は何も語らなかった。


数日後。

男は飛行機へ乗り込んだ。

窓の外では、ニューヨークの街が少しずつ小さくなっていく。

高層ビルも、橋も、公園も、やがて雲の下へ消えた。

男は目を閉じる。

思い浮かぶのは、演説でも選挙でもない。

一杯のコーヒーだった。

雨の日の喫茶店。

窓際の席。

自分を待ち続けていた恋人。

あの日から、どれだけの時間が流れただろう。

男にはもう分からなかった。


日本へ着いたのは、夕暮れだった。

駅を出る。

湿った風が頬をなでる。

どこか懐かしい匂いがした。

男は荷物を一つだけ持ち、ゆっくり歩いた。

恋人の家は変わっていなかった。

表札も。

庭も。

玄関先の植木鉢も。

すべて、あの日のままだった。

男はインターホンへ手を伸ばす。

押そうとして、止める。

また伸ばす。

止める。

そんなことを何度も繰り返した。

ようやく、静かに押した。

チャイムが鳴る。

足音が近づく。

扉が開いた。

恋人は男を見た。

長い沈黙が流れる。

男は何も言えなかった。

恋人も何も言わなかった。

やがて恋人は、小さく笑った。

「おかえり。」

その一言だけだった。

男の肩から、何年分もの重さが落ちた。

「ただいま。」

その声は震えていた。


部屋へ入る。

時計だけが静かに時を刻んでいる。

恋人がコーヒーを淹れる。

昔と同じ香りだった。

男はカップを両手で包み込みながら言った。

「私は、何も分かっていなかった。」

恋人は黙って聞いている。

「世界を変えようとしていた。」

「政治を変えようとしていた。」

「思想を残そうとしていた。」

男は笑った。

「全部、間違いじゃなかった。」

「でも、一番大切なことを忘れていた。」

男は顔を上げた。

「君に会うことだった。」

恋人は何も責めなかった。

怒りも見せなかった。

ただ静かに言った。

「あなたは帰ってきた。」

それだけで十分だった。


夜になった。

男は窓を開ける。

虫の声が聞こえる。

ニューヨークでは聞いたことのない音だった。

「私はね。」

男はぽつりと言った。

「アメリカでは、男性のパートナーと暮らしていたこともある。」

恋人は静かにうなずく。

「知ってた。」

男は驚く。

「怒らないの。」

恋人は少し考えてから答えた。

「あなたは、遠回りをして帰ってきただけ。」

「それだけでしょう。」

男は何も言えなかった。

恋人は続ける。

「人は一本道だけを歩くわけじゃない。」

「迷うこともある。」

「立ち止まることもある。」

「でも帰ってこられるなら、それでいい。」

男は目を閉じた。

涙が一滴だけ落ちた。

その夜、二人は同じ家で過ごした。

けれど、同じ部屋では眠らなかった。

長い時間は、一晩では埋まらない。

それでも、同じ屋根の下で眠れることが、何よりも幸せだった。

翌朝。

男は朝食を食べ終えると、恋人に向かって言った。

「家を建てよう。」

恋人は微笑んだ。

「どんな家?」

男は少し考え、静かに答えた。

「帰ってきたくなる家。」

その一言から、新しい人生が始まった。

第七章 設計士

家を建てると決めた翌日、二人は町を歩いた。

住宅展示場へは行かなかった。

大手の建築会社にも興味はなかった。

男が探していたのは、図面を描く人ではない。

家の意味を考える人だった。

「設計事務所へ行こう。」

恋人は尋ねる。

「どこの?」

男は笑う。

「そこら辺にある、小さなところでいい。」

「有名じゃなくていい。」

「作品より、人を見たい。」

二人は古い商店街を歩いた。

しばらくすると、小さな木造の建物が目に入る。

色あせた看板。

少し傾いた郵便受け。

窓越しには、一人の男が机に向かって鉛筆を走らせていた。

そこは、小さな設計事務所だった。


扉を開けると、年配の設計士が顔を上げた。

着ている服は古く、袖には鉛筆の芯で付いた黒い汚れが残っている。

決して裕福そうには見えなかった。

だが、その目だけは不思議なほど澄んでいた。

男はその目を見た瞬間に思った。

「この人だ。」

設計士は静かに言う。

「どんな家を建てたいんですか。」

男は少し考えた。

そして答えた。

「恋人が安心して眠れる家です。」

設計士はうなずく。

「広さは?」

「広くなくていい。」

「豪華さは?」

「いらない。」

「予算は?」

男は笑う。

「生活できれば、それでいい。」

設計士も笑った。

「いいですね。」

「最近は珍しい依頼です。」


設計士は製図板を使わなかった。

大きな紙を床へ広げる。

鉛筆を一本だけ取り出す。

そして迷いなく線を引き始めた。

まっすぐな線。

斜めの線。

それらが交わり、一つの形になっていく。

男も恋人も黙って見ていた。

「家はね。」

設計士が初めて口を開く。

「四角である必要はありません。」

「人の心が四角じゃないからです。」

男はその言葉に耳を傾ける。

設計士は鉛筆を動かし続ける。

「あなたの部屋。」

一本の線を引く。

「恋人の部屋。」

もう一本。

二つの部屋は少し離れている。

完全にはつながっていない。

恋人が不思議そうに尋ねた。

「一緒の寝室じゃないんですか。」

設計士は首を横に振る。

「人には、一人になる時間が必要です。」

「でも、離れすぎてもいけない。」

そう言って、二つの部屋の真ん中へ大きな空間を描いた。

「ここをリビングにしましょう。」

男は図面を見つめる。

「真ん中に?」

「ええ。」

「どちらの部屋からも自然に集まれる場所です。」

さらに設計士は、キッチンをリビングと一体になるよう配置した。

「料理をしている人だけが孤独にならないように。」

男は思わず笑った。

「そんなことまで考えるんですか。」

設計士は鉛筆を置いた。

「家とは、壁を作る仕事ではありません。」

「人が出会う距離を設計する仕事です。」

その言葉に、男は深くうなずいた。


図面は完成した。

どこにも派手さはない。

奇抜さもない。

しかし、そこには確かに二人が生きる時間が描かれていた。

男は図面を見つめながら言った。

「先生。」

設計士が顔を上げる。

「この家は、私たちより長く生きますよね。」

設計士は少し笑った。

「家は生きません。」

「でも、そこで過ごした時間は残ります。」

男はその言葉を胸の中で何度も繰り返した。

思想もまた、同じなのかもしれない。

人は死ぬ。

けれど、人と人との間に生まれた時間は、誰かの中で生き続ける。

その瞬間、男はイエス・キリストについて語っていた自分の言葉を思い出した。

肉体は滅びる。

思想は残る。

家もまた、建物ではなく、人の生き方を残す器なのだと、男は初めて理解した。

第八章 父

家が完成してから、男はずっと考えていたことがあった。

「父を招こう。」

恋人は静かにうなずいた。

「きっと喜ぶよ。」

男は照れくさそうに笑う。

「どうだろうな。」

それでも、その日は決めた。

料理は自分で作る。

買ってきたものではなく、自分の手で作った料理を食べてもらいたかった。

朝早く市場へ行き、野菜を選び、魚を買い、花屋へ寄って小さな花束も用意した。

豪華ではない。

だが、一つひとつに理由があった。

食卓には季節の花を飾る。

恋人が皿を並べる。

男は台所へ立ち、包丁を握った。

鍋から湯気が立ちのぼる。

焼き魚の香りが部屋いっぱいに広がる。

リビングには夕方の光が差し込んでいた。

設計士が考えたとおり、この家では料理をする人も、一人にはならない。

恋人と会話をしながら料理ができる。

その何気ない時間が、男には何よりもうれしかった。


夕方、父がやって来た。

玄関へ立つと、しばらく家を見上げていた。

「いい家だな。」

その一言だけだった。

男は少し照れながら答える。

「設計士のおかげだよ。」

父は家へ入り、ゆっくりとリビングを見回した。

派手な家具はない。

高価な装飾もない。

けれど、風が家の中を自然に流れていた。

「落ち着く家だ。」

父はそう言って笑った。

その言葉だけで、男は胸が熱くなった。


食卓を囲む。

男は料理を皿へ盛り付ける。

「どうぞ。」

父は箸を取り、一口食べた。

何も言わない。

もう一口食べる。

それから静かに言った。

「うまい。」

男は思わず笑った。

恋人も笑った。

それだけで十分だった。

食事をしながら、三人は取り留めのない話をした。

昔のこと。

近所のこと。

庭に咲いた花のこと。

子どもの頃の失敗談。

世界を変える話はしなかった。

政治も語らなかった。

オールゼロという名前さえ出てこなかった。

男は、それでよかった。

思想は演説の中だけにあるものではない。

こうして誰かと食卓を囲み、笑い合う時間にも宿るものなのだと思った。


父が帰ったあと、男は縁側へ出た。

夜風が静かに吹いている。

空には月が浮かんでいた。

恋人が隣へ座る。

しばらく二人とも何も話さなかった。

やがて男が口を開く。

「花鳥風月って、不思議な言葉だよね。」

恋人が男を見る。

「花を見て。」

「風を感じて。」

「鳥の声を聞いて。」

「最後に月を眺める。」

男は空を見上げる。

「昔は景色を楽しむ言葉だと思っていた。」

「でも今は違う。」

「自然を見ることじゃない。」

「自然の中へ、自分を戻していくことなんだ。」

風が木々を揺らす。

葉が音を立てる。

月は何も語らない。

それでも、世界は静かに動いていた。

「すべては回っている。」

男は小さくつぶやく。

「人も。」

「命も。」

「思想も。」

「そして、この家で過ごす時間も。」

恋人は何も言わず、その言葉を胸の中でゆっくり受け止めていた。

その夜は、とても静かな夜だった。

静かであることが、これほど豊かなことなのだと、二人は初めて知った。

第九章 すべては回る

季節は、何度も巡った。

春になれば庭の草花が芽吹き、夏になれば蝉の声が家を包んだ。

秋には風が少し冷たくなり、冬には窓ガラスへ白い息が映る。

二人は歳を重ねた。

特別なことは何も起こらなかった。

世界を変える演説も。

選挙も。

歓声も。

テレビカメラも。

すべて遠い昔の出来事になっていた。

それでも男は、毎朝同じ時間に起き、コーヒーを淹れ、庭へ出た。

花を眺める。

風を感じる。

鳥の声を聞く。

そして夜になれば月を見上げる。

「花鳥風月とは、自然を鑑賞することではない。」

ある日、男はそう言った。

「人間が自然へ帰っていくための順番なんだ。」

恋人は黙って聞いていた。

男は庭の土を指差す。

「花は土から生まれる。」

「花は枯れる。」

「枯れた花は土へ還る。」

「その土が、また新しい花を育てる。」

少し間を置いてから、男は続けた。

「人間だけが、この輪の外にいると思ってはいけない。」


その日の午後、庭仕事をしていた男は、手を止めて笑った。

「みんな、大便は汚いものだと思っている。」

恋人は吹き出した。

「急に何?」

男は真面目な顔のままだった。

「でも考えてごらん。」

「食べ物は身体になる。」

「身体は生きる。」

「生きれば排泄する。」

「その大便は土へ還る。」

男は庭の畑を見た。

「土は作物を育てる。」

「作物は人を育てる。」

「人はまた生きる。」

「つまり、大便も命の一部なんだ。」

恋人は笑いながら首を振った。

「あなたらしい考え方ね。」

男も笑った。

「世界には、本当に無駄なものはない。」

「人間は、自分の都合で美しいものと汚いものを分けているだけなんだ。」

「神様がもし世界を作ったなら、その神様は循環そのものなんじゃないかな。」

風が吹いた。

庭の木が静かに揺れる。

男は空を見上げる。

「だから私は、人が死ぬことも否定しない。」

「終わりじゃないから。」


それから数年後の春だった。

男はいつものように目を覚ました。

朝日が障子を照らしている。

恋人は朝食の支度を始めていた。

男は静かに起き上がり、リビングへ向かう。

設計士が描いた家は、歳月を重ねても変わらず温かかった。

真ん中のリビング。

少し離れた二つの部屋。

自然と顔を合わせる距離。

男は椅子へ腰を下ろし、コーヒーを一口飲む。

「いい家だ。」

そうつぶやいた。

恋人が笑う。

「設計士さんに伝えたいね。」

男もうなずいた。

「本当にそうだ。」

二人は静かに朝食を食べた。

その日も、ごく普通の一日になるはずだった。

しかし、その夜。

男はベッドへ入ると、不思議なくらい穏やかな気持ちになっていた。

苦しさはなかった。

恐怖もなかった。

ただ、静かだった。

恋人が寝息を確かめようと肩へ手を置く。

返事はなかった。

男は、そのまま眠るように息を引き取っていた。


恋人は泣かなかった。

悲しくなかったわけではない。

涙が出なかったわけでもない。

けれど、男の言葉を思い出していた。

「すべては回る。」

「人も。」

「命も。」

「思想も。」

「終わりじゃない。」

恋人は男の額へ手を添え、小さく言った。

「おかえり。」

それは、人生の終わりへ向けた言葉ではなかった。

世界という大きな循環の中へ帰っていく男を見送る、静かな挨拶だった。

終章 世界は回る

男の葬儀は、大きな式にはならなかった。

政治家も、著名人も、多くは招かなかった。

男自身が、それを望まなかったからである。

棺のそばには、一枚の写真だけが置かれていた。

雨の日。

少し照れたように笑っている男の写真だった。

祭壇に豪華な花はない。

庭で育てていた季節の花が、静かに添えられているだけだった。

火が灯される。

炎はゆっくりと棺を包み込んだ。

恋人は炎を見つめながら、男が話していたことを思い出していた。

「木は燃える。」

「灰になる。」

「灰は土へ還る。」

「土は花を育てる。」

「花は人の心を動かす。」

「だから、終わりなんてない。」

炎は静かに燃え続けた。

恋人は涙を拭かなかった。

泣くことを我慢していたのではない。

男は今も、この循環の中にいる。

そう信じていたからだった。


男が亡くなってからも、家は残った。

風は変わらず窓を抜ける。

朝になれば鳥が鳴き、

夕方になれば西日がリビングを照らす。

設計士が描いた家は、人が暮らして初めて完成する家だった。

恋人は毎朝パンを焼き、コーヒーを淹れた。

向かいの席には、もう誰も座っていない。

それでも二つのカップを用意する日があった。

湯気を眺めながら、小さく笑う。

「今日は雨だよ。」

返事はない。

けれど、不思議と寂しくはなかった。


ある日、一人の若者が家を訪ねてきた。

「ここが、オールゼロを始めた人の家ですか。」

恋人は首を横に振った。

「違います。」

若者は驚いた顔をした。

恋人は微笑む。

「あの人は、オールゼロを始めた人じゃありません。」

「あの人は最後まで、自分は所属していないと言っていました。」

若者は戸惑う。

「でも……。」

恋人は静かに続けた。

「あの人が持っていた権限は、一つだけ。」

「オールゼロを解散する権限だけです。」

若者は、その意味が分からなかった。

恋人は庭へ目を向ける。

「思想は、人を自由にするためにあります。」

「でも思想が組織になると、自分を守るために人を縛り始めます。」

「あの人は、それを誰よりも恐れていました。」

「だから、自分の役目は終わらせることだと言っていたんです。」

若者は長い間黙っていた。

そして深く頭を下げた。

「少しだけ、分かった気がします。」


男の名前は、少しずつ忘れられていった。

新聞は古くなり、

映像も色あせ、

やがて新しい時代が来る。

けれど、思想だけは残った。

それは本になったからではない。

法律になったからでもない。

誰かが誰かへ語り、

また別の誰かが考え、

自分自身の言葉として生き始めたからだった。

男が語ったイエス・キリストの話も、同じだった。

肉体は滅びる。

だが思想は、人から人へ渡っていく。

誰のものでもなくなったとき、思想は本当に生き始める。


夕暮れだった。

恋人は庭へ出て空を見上げた。

雲がゆっくり流れている。

雨は海へ流れ、

海は空へ昇り、

雲となり、

また雨になる。

花は土へ還り、

土は命を育て、

命はまた土へ還る。

人も同じだった。

生まれ、

愛し、

迷い、

別れ、

そして還る。

その輪は、決して途切れない。

恋人は静かに微笑んだ。

「あなただけじゃない。」

「私も、そのうち帰る。」

風が吹く。

庭の花が揺れる。

どこかで鳥が鳴いた。

世界は今日も回っている。

そして明日も、静かに回り続ける。

© 2026 島津耕造 ( 2026年7月2日公開

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