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ルール

浅谷童夏

私小説的雰囲気の、淡々としたペーソスをまとったものを書いてみたくなりました。吞兵衛オヤジがもう1軒行きたいのを我慢してとぼとぼ帰る話。

タグ: #リアリズム文学 #哲学 #私小説 #純文学

小説

5,482文字

Kは手を挙げてにこやかな笑みを浮かべ「お待たせしてすみません」と言いながら、私の向かいの席に座った。「いいえ大丈夫、こちらもちょっと遅れてほんの5分前に着いたばかりです」と私は答えた。店は駅の南口から1キロちょっと、歩くのに15分ほどの距離なのだが、私は駅前の銀行に寄ってお金を下ろし、ついでに近くのコンビニで何やかやの支払いなどをしているうちに、18時の予約に5分ほど遅刻したのである。彼はというと、懐かしい思いに駆られて店の近くにある母校の大学を散歩していて、つい遅くなったのだと言った。別にそんなに愛校心がある訳でもないんですが、と彼は付け加えた。

私と彼はともに同じ45歳だが、髪がやや薄いぶん傍目にはおそらく私の方が幾分年上に見えるだろう。彼は医療系コンサルタントで、私は予備校で国語を教えている。互いに接点のない業種だが、Facebook上の本好きの人間が集うコミュニティで知り合った。飲みませんかと誘ってきたのは彼の方からだった。同じ沿線の彼は都心寄り、私は郊外に住んでいる。私の家の近くで飲むことになり、店の予約は私がした。

その店は地ビール工場の敷地内にあり、そこで作っている色んな種類のクラフトビールが番号順にメニューに載せられていた。今日のお薦めは4番と8番です、とかわいらしい若い女性店員が言った。お薦めを頼むとちょっとだけ安くなる。私は4番の、対面の彼は8番のパイントを注文した。4番はペールエールで〈竹林の奥〉、8番はスタウトで〈沈黙の宇宙〉という名前がつけられている。「面白いネーミングですね」と彼が言い、私もそう思った。つまみには私と彼とでゴーヤ麻婆豆腐、ナッツ入りのサラダ、ピッツア・マルゲリータ、鮮魚のカルパッチョの盛り合わせを頼んだ。

ビールが先に運ばれてきた。私の方のビールは彼のそれよりも少し色が薄かった。我々は乾杯した。喉が渇いていたので沁みるように美味かった。ほどなく料理も運ばれてきて、ゴーヤ麻婆豆腐は花山椒がほどよく効いて、独特の苦みがあり美味かった。

私たちはまず本の話をした。カート・ヴォネガット、三島由紀夫、ガルシア・マルケス。それから最近の海外SFの話題作について。そこから話はだんだんと逸れ、ジャズの話になり、バッハの対位法についての話になった。そこから今度は、日本人とドイツ人とはどう違うかという話になった。

決まりを守ることについての感覚が、ドイツ人と日本人では違う、と彼は言った。ルールを守ることに対してドイツ人は私情を挟まないのだという。「まさしく、カントなんですよ」と。ビールのお代わりを口に運びながら、へえ、と私が言うと、彼は高校時代の自分の体験談を話してくれた。

 

彼は神奈川県の進学校に通っていた。

Sという、一人の成績優秀な友人がいたが、その母親が急病で倒れた。海外へ単身赴任中だった父親は妻を案じて一時帰国し、医師に容体を尋ねた。軽い後遺症は残るが、適切なリハビリをすれば、徐々に日常生活に復帰できるだろうという医師の言葉を聞いて、父親はひとまず安堵した。父親との間に確執があり、父親を嫌悪していたSは「お母さんの面倒は俺が看るから、お父さんは任期が終わるまでは帰ってこないでいい」と父親に向かって言った。父親は海外に戻った。

だが母親の介護をしながらの学生生活は、想像以上に大変だった。

母親の通院やリハビリの付き添い、自宅での介護、家事に追われる日々は、Sを疲弊させた。提出課題をこなしたりテスト勉強をすることが困難になったSは、取得単位が足りなくなり、留年の危機に瀕した。

彼や他の友人たちは、Sの事情を汲んで、何とかSを進学させてやるように教師たちに嘆願した。日本人やイタリア人の先生も、ヤングケアラーのSに同情的だった。だが、ドイツ人の校長はあっさりと留年の決定を下した。Kと友人たちは話し合い、Sの件で校長に直訴することにした。彼らは校長室前に押しかけ、生徒たちを代表して、Kが校長室に入った。

「留年は厳しすぎます。Sの場合、単位不足の理由は彼が怠けたからではありません。同情の余地が大きいと思います。情けをかけてあげてください」彼はそう言った。

「いかなる事情があろうと、正当な手続きを経て定められた公正なルールがあるなら、それに従わないという選択肢はありません。そもそもルールは全員が平等に従うためにあるのです」校長はそう答えた。

「問答無用に留年とはあまりに一方的です」

「S君本人にもきちんと説明してあります。彼自身も納得しています」

「でも、彼はただ不運だったのであって、怠惰だったのではありません」

「個別の事情にいちいち左右されていたら、ルールは無意味なものになります」

校長は冷徹に言った。取りつく島が無かった。彼は引き下がらずを得ず、留年は覆らなかった。

「あのドイツ人は人としての感情がないんだよ」と彼は仲間たちに言った。

「校長は人間の姿をしたロボットだ」友人たちも口々に、そんなことを言った。

その日の下校時間になり、彼はやるせない無力感とくすぶる怒りを抱えながら1人で校舎の出口に向かった。靴を履き替え、校舎を出ようとしたところで「Kくん」と彼を後ろから彼を呼び止める声がした。振り返ると、校長がそこに立っていた。

「ちょっといいですか」と校長が言った。

「はい」と彼は答えた。

「君たちは納得しましたか?」

「いいえ。納得できていません」

「まだ言いたいことがあるのでしょう?」

「あります」

「では、言ってみてください」

「さっきと同じことですよ」

「いいですよ。どうぞ」

「義理人情という言葉を先生はご存じですか?」

「ええ、知ってます。好きな言葉です」

「ルールよりも人情を優先するべき時もあっていいのではないでしょうか」

校長先生はじっと彼を見つめ、しばらく黙って、それから言った。

「ルールが存在するからには守らないといけないのです。ルールは守ることが前提なのだから」

「日本人の人情は、先生にはどうせ理解できません」と彼は挑発的にそう言った。

「ええ。私もあなたの気持ちは分からない」校長は青い目で彼を真っすぐに見つめた。そして言った。

「ルールを破るべき。あなたはそう言っている」

「やむをえません。Sのためには」

「どうしてあなたは、ルールを変えるべきとは考えないのですか」

「え……」校長の予想外の言葉に、彼は返答につまった。

「ルールを守ることは絶対です。でもそれはルールそのものが絶対だということではない」

「……」

「ルールを信じて疑わないのは、思考放棄ですよ」と校長は言った。

 

「その後、その友人はどうなったんですか?」私は3杯目のパイントグラスを飲み干しながら尋ねた。彼も私と同じペースでグラスを空けていた。

「結局、転校していきました。私たちは、何か困ったことがあったら相談してくれと彼に伝えましたが、私たちの誰にも、彼は連絡を寄越しませんでした」

「なるほど」

「Sのことはそのうち誰の口にも上らなくなり、私たちは彼のことを忘れました。その後の彼の消息は誰も知りませんでしたが、ごく最近になって、偶然分かったんです」

「ほう、それはまたどういう……」

「つい最近クライアントの開業医を訪問していたときのことなんですが、クライアントが忙しそうにしていたので、私は応接室で彼が来るのを待っていました」

「ええ」

「その時、応接室のテーブルの上に、医師向けの業界誌があるのが目にとまったんです」

「はあ」

「いうなれば、医療業界におけるTIMEみたいな雑誌です。その表紙を飾るのは、日本の医学界を代表するような重鎮や名医、いわゆるカリスマドクターの写真であることが多いんです。」

「なるほど」

「何とはなしにそれの表紙の顔写真を見たら、それが消息不明だったSだったんですよ」

「へえ」

「私は思わずその雑誌を手に取ってページをめくって、彼の特集記事を読みました」

「ええ」私は彼の話に引き込まれていた。

「Sはへき地救急医療の権威として、知る人ぞ知るという存在になっていたんです。医療業界で仕事をしていながら不覚にも私はその記事を読むまで、Sが医者になっていたことさえ知りませんでした」

「なるほど」

「彼のプロフィールを読んでびっくりしました。彼の母親は、結局、彼の献身的な介護も空しく倒れた翌年に亡くなってしまい、失意の彼は高校を卒業後、バックパッカーとしてアジア、インド、アフリカ、南米を3年間放浪したんだそうです。帰国後、自動車部品工場の期間工として3年間働いて学費をため、翌年、九州の国立大の医学部に進学し、30歳過ぎてから医者になったと書いてありました」

「へえ、凄いなあ」

「まあ、そんな異色の経歴の主でもある彼に、インタビュアーが、あなたのモットーは何ですか、と最後に尋ねてるんです」

「はい」

「そしたら彼、簡潔に一言こう答えてました。ルールを守ること、って」

 

話はその後も盛り上がり、私たちは河岸を変えて二軒目のバーに行き、そこでもまた色んな話をした。Kの話は面白く、私を大いに惹きつけた。喋っていたのほとんどKで、私はもっぱら相槌と質問ばかりだった。私たちはバーを出て、駅まで二人で歩いた。スマホを見ると22時10分だった。私は何となく自分のことを少し彼に話してみたい気分になっていた。私の授業中、クラスの半分以上の生徒が机に突っ伏して寝ているということ。ほぼ毎晩、家で酒を飲んでいること、家では妻と娘から疎まれている訳ではないけれど、単なる同居人としか思われていないふしがあることなどを、面白おかしく、ちょっと自虐的に。「もう一軒どうですか?」と私は誘った。しかしKはあっさりと「今日はまあ、このくらいにしておきます。いずれまた飲みましょう」と言った。

改札の前で握手をし、そこで別れた。Kは改札の中へ消えていった。

 

私は駅の構内を南口から北口へと抜けて、そこから真っすぐ伸びる道を、徒歩で10分ほどの自宅に向かって歩き始めた。やや湿り気を帯びた6月上旬の夜風がひんやりと気持ちよかった。

商店街や飲食店が軒を連ねて賑わっている南口に比べ、北口からの通りは銀行と蕎麦屋と花屋のある駅前ロータリーを過ぎるとすぐに住宅街になり、しばらく行った交差点にコンビニが1軒あるだけだ。がらんとした通りを挟んで、マンションや住宅がひっそりと佇んでいる。等間隔に並ぶ街灯が、家路を急いで足早に歩く人の影を、歩道上に長く伸ばしてゆく。

私は気分よく酔っていたが、まだ少し飲み足りない気がしていた。あっさり帰ってしまったKを見送った後、言いようのない侘しさが押し寄せてきて、真っすぐ家に帰りたくない気持ちに拍車をかけた。交差点のコンビニが白く輝いていた。店内に入ると、カウンターの中の色の浅黒い東南アジア系の女の子が「いらっしゃいませ」と流暢な日本語で言った。私は真っすぐ酒類の棚のところへ直行し、レモン酎ハイのロング缶とナッツの袋を買った。

コンビニを出て100メートルくらい通りを歩いてから路地に入って、数分歩いたところにある小さな公園に入った。誰もいない。私は街頭に照らされたベンチに腰掛けて、ナッツの袋と缶酎ハイを開けた。頭上に満月が出ていた。

Kが話していたSという医者の名前を、スマホで検索してみた。たくさんの記事がヒットした。顔写真入りでWikipediaにも載っていた。柔和な笑みを浮かべていながら、意志の強そうな顔だった。彼のブログもあった。アフリカのスラムでの医療活動を手伝ったボランティアの思い出など、いかにも書き手のエネルギッシュな行動力と誠実な人柄が伝わってくる文章だった。格好いいと思った。

私はナッツをつまみながら缶酎ハイを飲み干した。あなたのモットーは? 私は自問した。ルールを守ること?

いや、違うでしょ、と私は口に出して小さく呟いた。まあ、でもさ、俺もさ、と私は独り言を重ねた。そこから先、自分が何を言いたいのかわからなくなった。ああ、酔ってると思った。

公園にゴミ箱は無かった。私はナッツのチャック付き袋を閉じ、それと一緒に、空になった缶を逆さまにしないように注意しながらバッグに入れた。立ち上がり、公園を出た。足元が少しふらついた。スマホを見ると22時45分だった。駅にとって返し、再び南口に出て、たまに行くバーでものぞいてみるか。顔見知りの常連の誰かはいるだろう。3軒はしごすると飲み代も馬鹿にならないが、ふだんは家飲みで節約しているし、まあ大丈夫だろう。

 

しかし駅に向かう途中で、私は思い出した。今日は家の近くで飲むから午前様にはならないよ、と出がけに妻に告げたことを。今から3軒目となると、帰宅は日付けをまたぐ可能性が高い。いや確実にそうなるだろう。妻との約束を決して破らないというのは、私のなかの、ささやかだが絶対のルールだ。全く余計なことを言ってしまった、と思った。

 

私はUターンして、家路を引き返した。今度はコンビニには寄らなかった。

「ただいま」と玄関をあけた。リビングに入るとキッチンにいた妻が「あれっ」と言った。娘はスマホでゲームをしている。

「ちゃんと帰ってきた。びっくり」と妻が言った。

「午前様にはならないって言ってたでしょ」

「まさか、こんな早く帰ってくるなんて」

「俺は約束したことはちゃんと守るの」

「あ、えらい。パパがやればできる子になった」

「やればできるおっさんです」

私がそう言うと、娘がスマホから顔を上げて私を睨み「キモッ」と言った。

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年6月27日公開

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